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毒育ちが語る『イカゲーム』

(画像はhttps://www.netflix.com/jp/title/81040344 より)

注意事項

  • 当記事は『イカゲーム』の視聴を前提としており、大いにネタバレを含みます。未視聴の方の閲覧は推奨しません。

  • 当記事はあくまで一視聴者の個人の感想、解釈、考察に過ぎません。当記事によるいかなる責任も負いかねますので予めご了承ください。


 リリース当初はステマ疑惑が上がったり『賭博黙示録カイジ』(講談社:福本伸行著、以下『カイジ』)のパクリだと評されたりしていたが、見始めたらめちゃくちゃ面白かったという。確かに『カイジ』感は否めないし監督も「昔に『カイジ』を読んだ」とインタビューで言っていたが、個人的には両者はほぼ別物であると思う。『カイジ』はデスゲームそのものとその心理戦が魅力であるが、『イカゲーム』は、ゲーム自体は結構ガバガバでヒューマンドラマ的な要素が強くてハマる人はハマるという感じ。(無論私もその一人である)

 そう言えばファン・ドンヒョク監督って聞いたことあるな~と思っていたら、あの『トガニ 幼き瞳の告発』の監督だから同映画主演のコン・ユがリクルーターなのねーなるほど完全に理解した。『トガニ〜』も筆者の中で一、ニを争う良作韓国映画なので勝手にオススメさせて頂きます。


 一日目は第6話「カンブ」まで一気に見て続きが気になって仕方なかったが、すでに午前二時を過ぎていたので翌日に持ち越し。翌朝起床と同時ににネトフリ起動して最後まで完走。なお、当感想を書くにあたり以下の記事を参考にさせて頂きました。


だるまさんが転んだ──競争の原理

 私も今までの人生の中で、何度「だるまさんが転んだ」をしてきただろうか──壮大なジャズ音楽が流れる中で血飛沫を上げて倒れる人々を眺めながら、私はそんなことを考えていた。幼い頃の無邪気な遊びは元より中学、高校、大学受験、就職活動、そして会社での資格試験や昇進試験もある意味「だるまさんが転んだ」なのではないかとも感じながら。『イカゲーム』のそれよりは“かなりマイルドな”「だるまさんが転んだ」であること間違いないが、原理は同じである。合格・不合格が、『イカゲーム』の世界では生き残るか死ぬかに置き換わっただけだ。受験や試験の度に私は幾つの屍を積み重ねた上で合格を勝ち取ったのだろう。あるいは不合格者として合格者の足元に横たわったことも指折りでは数えきれない。

 競争が科学技術や文明を発展させたのは史実であるが、今度は科学技術や文明の“過剰なまでの発展”が人の持つ自己愛を増幅させたのではないか、と私は以前述べた。

 何者かになりたい、チヤホヤされたい、他人に誇れるような仕事をしたい、周囲から羨まれるような生活がしたい……そのような強い自己愛が至る場所でまた新たな争いを生み、競争は激化し、その螺旋は何処までも続いていくのである。

 今まで私が「だるまさんが転んだ」のごとく経験してきた受験や競争も知らない人間からすれば所詮、娯楽や商売道具に過ぎなかったのかもしれない。その現象は競争の花形であるスポーツや芸能、芸術の世界に留まらず、猫も杓子も勝者を目指そうと担がれてあれやこれやと争いの場に身を投じている。こうして先の「だるまさんが転んだ」を皮切りに競争は始まっていく。「だるまさんが転んだ」は、『イカゲーム』の世界でも現実世界においても第一関門、つまり争いの“序章”に過ぎないのである。

喧嘩──再び競争の原理

 第二ゲームである「ダルゴナ型抜き」は「運も実力の内」を表現し、第三ゲームの「綱引き」は受験戦争や就職活動の後は企業間戦争や組織間戦争が待ち受けているメタファーだと私は認識している。

「綱引き」で生き残った者が息も絶え絶えの中、突如として起きた殺し合いという名の「喧嘩」というゲーム。ついに直接的な殺人行為が容認されたことに私は混乱を来たしたが、「おじいちゃん(イルナム)の時代はこのような“不本意な/理不尽な喧嘩”も遊びの一環だったのね!」と(かなり無理矢理)納得することにした。

 配給時のいざこざも含めて、数に限りがあれば手に入れられない者が出るのは紛れもない事実だ。ドゥクスやミニョといった比較的自己愛が強い人間が物資を占領すれば、他の誰かが飢えてしまう。足りないのらば最後は奪い合うしかない訳だが、そもそも遥か昔から人類はそれを繰り返しているではないか。水、食料、気候、土地、資源、エネルギー、貴金属諸々すべてみんな争奪戦である。その争奪の対象は、有名学校の入学資格、高収入が見込める大企業への就職、誰もが羨む地位と名誉、肩書、社会的立場にもおよび、今や際限なく増え続けている。

 年を重ねれば重ねるほど、その“勝者の褒美”は甘美で魅力的に感じられるのかもしれない。ところが、ここまで行ってきた“子供たちの遊び”ほどシンプルで公平なものは無いことに気づかされる。ワガママ放題のガキ大将やズル賢い子が居ることを除けば、「勝てばバンザイ」「負ければ悔しい」そして最後は「楽しかったね!また遊ぼう!」で締められる。(ゲーム創始者の一人であるイルナムは、その当時の楽しみや思い出に浸りたかったのかもしれない) それが、大人になるとそうはいかない。万一敗者にでもなった暁には、失うものが多すぎるからだ。金、立場、地位、名誉、それらを失わないためにも今日日戦い続けるしかないのだ。

ビー玉遊び──因果応報

 おもな登場人物たちは、ゲームに参加する以前に犯した事をビー玉遊びでも繰り返してしまっている。

  • ギフン→母親(高齢者)にたかる≒イルナム(高齢者)を騙る

  • サンウ→同僚を裏切る≒信頼したアリを裏切る

  • セビョク→母親(女性)の犠牲で生き残る≒ジヨン(女性)を身代わりにする  

  • ドゥクス→仲間を蹴落とした≒今回も仲間を蹴落とす

 その事実に気がついた瞬間、この「ビー玉遊び」および第六話「カンブ」は神回だと思えたというか、ここに『イカゲーム』の本質があると私は確信した。この因果応報とも言える状態が、おもな登場人物らが『イカゲーム』に来た理由そのものであるからだ。

 特にギフンに関しては、若者や中年層が高齢者を食い物にするように見えて心苦しかった。資本主義の最果てとは、このように高齢者や一部の障害者など生産性が低い者を排除する世界なのではないか。しかし毒祖母の影響から私が「自己愛の強い老害共はとっととくたばれ!」と強く所望しているのもまた事実である。実際に貧困に喘ぐ若者と左団扇な高齢者、自己愛の強い高齢者に虐げられる若者たち、あるいは有能な若者と無能な中年者や高齢者といった(歪な)対立構造が多数存在する。競争の激化とは、かような世代間戦争まで引き起こすのである。

 セビョクとジヨンという同世代の同性間においても“命の取捨選択”が行われてしまう。ただ、私もジヨンと同じような立場かつ相手の方が生きる理由(子供や家族の有無、職業、社会的役割など)を持っていたら、彼女のように生存権利を譲ってしまうかもしれない。(ドラマ『日本沈没』やドラマ『コールドゲーム』も観賞したが、「元あった社会や故郷を失ってまで人が生きる意味とは……」と感じる次第である)

 例えば『イカゲーム』に参加した自業自得だと揶揄される者、生産性の低い者、そしてジヨンのように生きる理由を持たない者を排除し続けたら、生産性が高くて確固たる生きる理由を持つ人間たちが残るだろう。そのように「最適化され続けた社会」とは、いったいどんなものなのだろうか私は気になって仕方がない。「より良い」ものだけが残ったら本当にその世界は良くなるのかは、漫画『チェンソーマン』の感想において考察している。


イカゲーム──昨日の友は今日の敵

「飛び石ゲーム」で“VIP”の不気味さと異常さ(意味深)を思う存分味わった訳だが、私はイルナムが最期に遺した「人は金がありすぎてもなさすぎても同じように退屈だ」という言葉を想起した。大金が人を変えてしまうのか、元々タガが外れている人間が大金を手にするのか──その真意は分からないまま最後のゲームである「イカゲーム」が始まる。

「イカゲームのルールとは……?」「梨泰院クラスも最後の方殴り合ってたな」と思いながら、ギフンとサンウの壮絶な闘争を見つめる筆者。ルールや設定がかなりアバウトなのはさて置き、幼馴染のギフンとサンウは昔にも「イカゲーム」で遊んだことがあるはずだ。(第一話の冒頭はその様子だったのではないか) 勝っても負けても楽しかったはずの「イカゲーム」を、まさか大人になってから命を賭してやるとは夢にも思わなかっただろう。

 幼馴染とはいかなる創作や物語においても大切な仲間という立ち位置、あるいは最初は不仲でもいずれ和解するのが“お約束”である。私もギフンとサンウにその“お約束”を求めていた部分はあったが、まあそんな甘くないですよね、『イカゲーム』の世界は。

 ギフン対サンウとは、「同世代、同じ地域の生まれの幼馴染」は助け合う仲間ではなく、「もっとも敵対するライバル」というメタファーなのだろうか。確かに小学校、いや下手すると幼稚園/保育園から競争とは始まっているのかもしれない。小・中学校に上がれば勉学という競争が加わるが、そのほかにも運動神経、芸術の才能、友人の多さ、恋人の有無、面白さ(ユーモア)、容姿などありとあらゆる要素からスクールカーストが確立される。やがて訪れる中学・高校受験では、近い地域に住む同級生たちがライバルになりえる。そして学校という社会における競争の結果が、その後の将来に直結しているとも言っても過言ではない。そんな「昨日の敵は今日の友」ではなく、「昨日の友は今日の敵」が成立する社会に未来があるのか私は疑問を抱かざるを得ない。

「ビー玉遊び」から「イカゲーム」にかけては、展開的にも胸が痛むばかりであった。もっとも縁が深いはずの人間や信頼していた人間が、最大の敵になってしまうことほど辛く哀しいことはないからだ。

ゲーム終了後──ゲームは終わらない

 視聴当初はギフンを「クズなバツイチパラサイトシングル」だと思っていたが、それは大きな誤解だった。映画『パラサイト』の父親のように資本主義の荒波に揉まれてしまった結果として、退職、離婚、娘との別離、生活の行き詰まりと負の出来事が連鎖してしまったからだ。

 そもそもあのデスゲームに456人もの人間が集まるのも、苛烈な競争社会が原因なのではないか。中には99.9%は自業自得な人間もいるだろが、借金を拵えたくて拵える人間など存在するはずがない。彼ら彼女らは、何故あのゲームに参加することになったのだろうか──先ほど私はそれを因果応報などと説教めいた表現をしてしまったが、ではその因果応報とやらはなぜ起きてしまったのか。その背景には、その人の生い立ちや思考(嗜好)、価値観、対人関係を含めた環境といったパーソナリティが必ず隠れている。そのパーソナリティがある限り人は等しくどこまでも人であり、いかなる事情を抱えていたとしても人は人として扱われるべきなのであろう。

 第一話「だるまさんがころんだ日」にてギフンは競馬に興じるが、デスゲームに参加したことで自分自身や仲間たちが競走馬のごとく扱われた。そのことに対して彼は、表現しがたいほどの強い憤りを覚えたはずだ。(ギフンが退職するきっかけになったストライキも従業員を人として扱わなかったことに対する反抗だったと推察される) “VIP”やフロントマンの口ぶりからあのゲームはまた開催される、つまり人を人として扱わない残虐な行為が行われるはずである。

 自分たちは競走馬やゲームのプレイヤーではなく、一人の人間である──それを証明すべく、髪を赤く染めたギフンは搭乗口から踵を返したのではないか。

 シーズン2制作も決定したので、今から楽しみで仕方がない。まさか数年後の設定でセビョクの弟が出てきたりしないよね……?(笑)


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