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【期間限定試し読み】降田天「偽りの春」1篇全文特別公開!

2024年9月24日(火)、降田天さんの傑作長編ミステリ『朝と夕の犯罪 神倉駅前交番 狩野雷太の推理』(角川文庫)が発売となりました。
刊行を記念して、シリーズ前作『偽りの春 神倉駅前交番 狩野雷太の推理』(角川文庫)より、第71回日本推理作家協会賞(短編部門)受賞作「偽りの春」を期間限定(※)で1篇全文公開します!
狩野雷太の推理を"犯人視点"でじっくりお楽しみください。

※公開期間:2024年9月24日(火)~2024年10月7日(月)17時59分まで

あらすじ

老老詐欺グループを仕切っていた光代は、メンバーに金を持ち逃げされたうえ、『黙っていてほしければ、一千万円を用意しろ』と書かれた脅迫状を受け取る。要求額を用立てるために危険な橋を渡った帰り道、へらへらした警察官に声をかけられ――。第71回日本推理作家協会賞(短編部門)を受賞した表題作「偽りの春」をはじめ、“落としの狩野”と呼ばれた元刑事の狩野雷太が5人の容疑者と対峙する、心を揺さぶるミステリ短編集。


「偽りの春」試し読み


「やられたよ」
 かずが息せき切って電話をかけてきたのは、春一番が吹き荒れる宵の口だった。
 私はこたつの上にひとり分の夕食を並べたところだった。取り乱した和枝の声が、テレビの音声をらして鼓膜を打つ。
あけさんとのぞみさんが消えたんだよ、金持って」
 驚いて携帯を耳に押しつけ、テレビを消した。どういうこと、とこうとして、セーターの胸もとを握りしめる。
「今どこ」
「わかんないよ。電話はつながらないしマンションにも」
「朱美さんたちじゃなくて和枝さんのことよ」
 遮る声にいらだちが混じる。
「ああ、あたしはコンビニの駐車場。車ん中。大丈夫、誰にも聞かれないよ」
 ひるんだのか、トーンダウンした和枝の口調には、機嫌を取ろうとするような気配が感じられた。
「落ち着いてもう一度言って。朱美さんと希さんがどうしたって」
「いなくなったんだよ。希さんが約束の時間を過ぎても現場に来なくて、電話してみたら着信拒否になってんの。変だと思って朱美さんにかけたら、そっちも同じ。それで家に行ってみたら、なんと、もぬけの殻じゃないの」
「引っ越してたってこと?」
「そうなんだよ。隣の奥さんの話じゃ、ほんの数日前に突然、出ていったって。引っ越すなんて聞いてなかったし、まるで夜逃げだって言ってたよ。前々からうさんくさいとは思ってたみたい。そりゃそうだよねえ、七十超えたばあさんと四十代の男がふたりで暮らしてるんだから。おいったって誰が信じるもんか。おまけに朱美さんはホステス上がりだし、希さんのほうは定職にも就いてないし」
 また興奮してきたのか、あるいは不安がそうさせるのか、和枝はせきを切ったようにしゃべる。しゃべればしゃべるだけ、こちらをいらだたせることに気づいていない。私の反応にとんちやくせず和枝は続ける。
「ねえ、今月の稼ぎって希さんが持ってたんだよね。いくらくらいだった」
「一千万ちょっと」
 努めて冷静に答えたつもりだが、頰がゆがむのは抑えられなかった。そんなに、と和枝が息をむ。今月はめったにない大きな仕事をこなしたため、飛び抜けて多い。人によっては裏切りの動機として充分な額だ。
みつさん、どうするの。このまま泣き寝入りなんて嫌だよ。みんなで苦労して稼いだ金なのに」
「じゃあ警察にでも駆け込む? だまし取った金を仲間に持ち逃げされましたって」
 高齢の男性をターゲットにした詐欺を始めてから、そろそろ二年になる。詐欺グループのメンバーは女が四人、男がひとりで、女は全員が還暦を超えている。やり口としては、結婚詐欺や美人局つつもたせということになるだろうか。
 ターゲットの選定は私の役目だ。それこそが詐欺において最も重要な行程だと、かつて振り込め詐欺に関わった経験から知っていた。電話をかける対象の名簿が、電話帳なのか高級旅館の宿泊客リストなのか、さらに資産や年齢や家族構成によってふるいにかけられたものなのかで、成功率も利益も大きく変わる。その点、派遣キャディという私の職業は、適当な男を見繕うのに都合がいい。どこのゴルフ場でも、明るい芝生の上で開放的な気分になった男たちは、情報をいくらでも垂れ流してくれる。観察と会話によって、経済状態から家族構成、女の好みまで、すっかり把握するのは難しいことではない。あとは相性を考えて、どの女をあてがうかを決めればいい。
 私の指示を受け、実働部隊である三人の女が動く。ターゲットをろうらくし、ときには肉体さえも武器にして、財産を搾り取る。老いても恋愛や性愛への欲求があるという男は少なくない。相手が若い娘なら疑いもしようが、六十を超えた女なら安心する上、結婚も視野に入れやすい。
 そうして取れるだけ取りつくしたら、あるいは状況が思わしくなくなったら、最後は唯一の男である希の出番だ。女の息子のふりをして、「おふくろをもてあそびやがって」だとか「母は亡くなりました」だとか「援助してよ、おさん」だとか、さまざまなパターンで関係を破局に導く。また、手切れ金や慰謝料などのまとまった現金を受け取ったり、女たちが貢がせた貴金属や車などを金に換えたりする役目も担っている。
 基本的にはターゲットがみずから逃げ出すように仕向けることにしていた。詐欺に遭ったと気づかせないのがベストだ。だが気づかれたとしてもリスクは少ない。「いい歳して色じかけに引っかかった」被害者たちは、恥の気持ちからたいてい口をつぐむ。
 稼いだ金はひとつにまとめ、一ヶ月ごとに五人で等分にするルールだった。以前は私が管理していたが、実際に金を扱うのは希であることが多いため、このごろは希に任せていた。信用していたわけではない。裏切ることなどできまいと見くびっていたのだ。
「ごめん、怒らないでよ。あたしはただ……」
「怒ってないわ」
「ならいいんだけど。光代さんだけが頼りなんだから」
 奥歯を強くかんで、うっとうしさをやり過ごす。
「この件は私のほうで考える。和枝さんはとりあえず現状を維持してて」
「ターゲットをキープしときゃいいんだね。わかった、あんたの言うとおりにするよ」
「それじゃ」
「待って、このことゆきさんには? まず光代さんにと思って、まだ知らせてないんだよ」
「次の会合のときでいいと思うけど、言いたいなら止めないわ。じゃあ」
 言うなり、今度こそ電話を切った。とたんに風のうなりが大きくなった。築四十年の木造アパートが悲鳴をあげている。
 冷めていく夕飯もそのままに、朱美の携帯電話を呼び出した。おつなぎできませんと冷ややかなアナウンスが流れた。これが和枝の言っていた着信拒否か。希のほうにもかけてみたが結果は同じだった。
 携帯を投げ出し、薄っぺらで毛玉だらけのこたつ布団をぼんやりと見つめる。春一番が窓をたたいているというのに、寒さがひたひたと背中をい上ってくる。
 いつも着ている薄汚れたダウンジャケットをまとい、車のキーをつかんで家を出た。朱美と希が暮らしていたマンションを見に行ってみるつもりだった。おそらく無駄足になるだろうが、食欲もすっかりせてしまったし、ただ凍えていてもしかたない。
 隣の一〇一号室に明かりがともっていた。しかし住人の話し声や物音は聞こえてこない。風の音ばかりが耳について、かえって静けさが強調される。震えながら車に乗り込んだ。
 小京都と呼ばれる神倉市だが、中心地から離れると寂しいものだ。山によって景色のあちこちが黒く塗りつぶされており、まだ七時すぎだというのに車も人もほとんど通らない。
 朱美のマンションを訪ねるのは初めてだったが、すぐに見つかった。三、四十年前にはこの辺りで最も新しくしゃれた建物だったのだろう。和枝の言ったとおり、朱美の家がもぬけの殻なのは一目りようぜんだった。窓に明かりはなく、カーテンもかかっていない。周囲をうかがって顔を近づけてみると、中はがらんとしている。
 念のため隣人に話を聞いてみたが、得られた情報は和枝に聞いたものとほとんど変わらなかった。朱美たちは誰にも転居先を知らせず、推測させるような情報の切れ端すら残さずに消えたという。親しい人間がいたかどうかもわからない。要するに手がかりはないのだった。
 私はマンションをあとにした。二月の冷たい夜が、路肩に停めた車を吞み込もうとしていた。
 自宅に戻り、屋根も壁もない野ざらしの駐車場に車を入れたところで、アパートへ向かう三つの人影が目に入った。手をつないでいる若い母親と息子は、隣の一〇一号室に住むなえだ。波瑠斗を挟んで反対側を歩いている男には見覚えがない。
「おばちゃん、おかえり。こんな時間に帰ってくるなんて珍しいね」
 車を降りた私に、香苗が明るく声をかけてきた。
「香苗さんこそ」
 夫と離婚してひとりで波瑠斗を育てている香苗は、昼間はパチンコ店で、夜はキャバクラで働いている。パチンコ店での仕事を終えて、保育園へ波瑠斗を迎えに行き、寝かしつけてからキャバクラへ向かい、再び帰宅するのは日付が変わってからだ。
「夜のほうはお休みしちゃった」
 香苗はぺろっと舌を出した。そばに寄ると、最近つけるようになった香水のにおいが鼻先をかすめる。わかりやすいもので、少し前から化粧が念入りになり、色が抜けてぱさぱさだった髪もきれいになっている。
「あ、この人はさん。パチンコのお客さんで、すごく優しい人なんだよ。今、三人でゴハン行ってきたとこ」
 見れば、駐車場に見慣れない車が停まっていた。格安の中古車だとひと目でわかるが、タイヤだけはこだわっているようだ。
 古賀は少し距離を置いて立ち、強風に顔をしかめながら煙草を吹かしている。会話に加わろうとはせず、しようひげが散ったあごをごりごりとかく。
 私のほうも古賀にはかまわず、うつむいている波瑠斗に話しかけた。
「おかえり」
 波瑠斗はちょっとこちらを見たものの、すぐに下を向いてしまった。ハル、と香苗が腕を引くが、かたくなに顔を上げようとしない。
「ごめんね、おばちゃん。見たいテレビが見れなかったもんだから機嫌が悪いんだ。ハル、いいかげんにしなよ。ファミレス行きたいってあんたも言ってたじゃん」
 私は香苗を目でなだめ、提げていたバッグから数冊の冊子を取り出した。ここしばらくショッピングセンターや小売店を回って集めていた、ランドセルのカタログだ。バッグに入れっ放しになっていたのがちょうどよかった。
「はい、ハルくん。よく見て、どれがいいか選んでね」
 四月から小学生になる波瑠斗にランドセルをプレゼントすると約束していた。ぱっと顔を上げた波瑠斗の目は、今の今までむくれていたことなど忘れたかのように輝いている。
 波瑠斗たち親子が隣に越してきたのは、去年の春だった。香苗はまだ二十一歳で、離婚したものの帰れる家がないという話だった。ふたりの生活が貧窮しているのはすぐにわかったし、香苗の言葉の端々から、波瑠斗の父親がろくでなしだったことも察せられた。学も専門技術もない、若さだけが頼りの母親。どうしても放っておかれがちになる子ども。これまでいくらでも見てきたケースだ。そういう親子の生活は、たったひとつ小さなほころびが生じただけで、たちまち底の底まで落ちる。気の毒だが、ありふれた不幸だった。手を差し伸べる余裕も理由も私にはないはずだった。
 きっと私は老いたのだ。飲みすぎたのか道端でおうしていた香苗を家まで連れ帰ってやったのをきっかけに、親子との親しい付き合いが始まった。しばしば食べ物を差し入れ、波瑠斗を預かり、ときには車を出してやって三人で出かけるようにもなった。家族を持つ和枝や雪子の影響もあるのだろうか。長くひとりで生きてきたから、かりそめのふれあいを欲しているのかもしれない。
「ありがとう」
 無邪気にカタログを受け取る波瑠斗の傍らで、香苗が申し訳なさそうにまゆじりを下げる。
「ねえ、本当にいいの?」
「何度も言ったでしょう。私が好きでやることよ」
「お金は少しずつでも絶対に返すからね」
 この場では断らなかったが、受け取るつもりはなかった。ランドセルは安いものでも二万円以上する。ぎりぎりの生活をしている親子にとって、その金をねんしゆつするのは簡単ではない。
 校則では必ずしもランドセルを使う必要はないらしいが、みんなが当たり前に持っているものを持てないのは、子どもにとって残酷なことだ。少なくとも小学生時代の私は、自分だけぼろぼろのリュックを持たされていたことが恥ずかしくて惨めだったし、そのせいでいじめられもした。暗い人生はあのリュックから始まったのだという気さえする。
 親子に手を振って自室に入ると、重量さえ伴うような静けさがのしかかってきた。薄い壁一枚を隔てただけで、香苗の声も波瑠斗の声も聞こえない。ふたりといるときには一時的に忘れていられたことが、頭のなかで急に存在感を増す。空っぽになった朱美の家。親子と一緒に一〇一号室へ入っていった古賀。
 すっかり冷めてしまった夕飯を片付ける前に、急いでテレビをつけた。見たいとは思わないが、狭い1Kの部屋を音で埋めることはできる。

 水曜日は会合の日だった。週に一度、グループの女四人は日帰り入浴施設のサウナで顔を合わせる。
 ただし今日は三人だ。私が入っていったとき、和枝と雪子はすでに不安げな顔で座っていた。朱美が来ないことを、雪子も知らされているらしい。
 サウナ内のテレビには夕方のワイドショーが映し出されており、ちょうど振り込め詐欺グループが逮捕されたというニュースが流れていた。テロップには「卑劣」という文字が躍り、コメンテーターが「か弱いお年寄りを食いものにするなんて」と憤慨している。
「ああ、光代さん。あれからどう。電話もくれないんだから、生きた心地がしなかったよ」
 他に客がいないのを幸い、和枝が顔を見るなり飛びつくように訊いた。いつもはせっせと腹の肉をんでいるのに、それも忘れているようだ。その大声だけで身がすくむとばかりに、雪子が名前のとおり白い肩をすぼめる。
 私はふたりから少し距離を置いて座った。
「和枝さんの言ったとおり、朱美さんと希さんが金を持ち逃げしたのは確かみたいね。見つけることも、金を取り返すことも不可能でしょう」
「そんな!」
 和枝がえるような声をあげ、雪子がひくっとのどを鳴らす。
「そんなのってあんまりじゃない。あたしらみたいな貧乏人が必死こいて稼いだ金をさ。あいつらこそ本物の悪党だよ」
 私は自分たちがターゲットにしてきた男たちを思い浮かべた。一個八百円もするボールを平気でいくつもロストする金持ちたち。彼らは少しばかり財産を減らしたところで痛くもかゆくもない。それに、恋をした老人は明らかに以前よりいきいきしている。詐欺には違いないが、金を払って恋愛の楽しみを手に入れ、おまけに気力が戻り若返るというなら、得な買い物ではないか。
「これからどうしたら……」
 延々と続く和枝のせいのわずかな切れ間に、雪子が声を滑り込ませた。いつも以上に小さな、ほとんど聞き取れないほどの声だ。
 雪子が誰かへの受け答えでなく自分から言葉を発するのを、初めて聞いた気がした。内気で無口な女。好きなものもやりたいこともない女。夫にお伺いを立てないことには何ひとつ決められない女。それが雪子に対する私の評価だった。この仕事についてもいまだに罪悪感がぬぐえず、平凡な主婦であることにしがみつこうとしているように見えた。その雪子が「これから」を考えるとは意外だ。
「取られたものは諦めるしかないとして、まずは現在進行中の仕事をどうするかね。希さんがいないんじゃ、今までのパターンで片付けることはできないから」
 和枝が汗にまみれた体を乗り出す。
「あたしが代わりの男を探してみようか。金に困ってそうな男なら何人か心当たりがあるよ」
「それはよして」
 私は言下に退けた。ある意味で、和枝は雪子よりも信頼が置けない。おしゃべりで軽はずみで、ものごとの因果を想像し理解することができないのだ。たとえば、知り合いだった雪子にこの仕事のことをしゃべり、勝手に勧誘して連れてきたのもそうだ。朱美が私たちのやっていることをぎつけて仲間に入りたいと言ってきたのも、和枝がどこかで余計なことをしゃべったせいに決まっている。
「今の案件については、希さんなしでやる方法を考えるわ」
「そりゃ光代さんがそう言うなら……」
「でも、この先は?」
 和枝と雪子、両方の目が私に向けられていた。どちらも心配そうで、しかしぎらぎらしている。この仕事をやめるわけにはいかないと、まなざしが訴えている。
 ふたりにはかなりの借金があった。和枝は投資詐欺に引っかかって。雪子は夫がギャンブルにはまって。だがそのことを子どもには打ち明けず、援助をうどころか、逆に孫の学資保険をかけ続けている。迷惑をかけたくないと、ふたりは口をそろえる。噓ではないだろうが、あきれられるのが嫌だというも働いているに違いない。私たちのじきになった男の多くがそうであるように。
「それもおいおい考えるわ」
「なんだか考えるばっかりだね」
 不安がついこぼれたという感じで和枝がため息をついた。
「不満なら自分でなんとかして」
「不満だなんて。いつも言ってるじゃない、光代さんだけが頼りだって。お願いだから見捨てないでよ」
 慌ててへつらう和枝の横から、雪子がすがるような視線を送ってくる。
 昔の自分もこんなふうに卑屈だったのだろうかと、嫌な考えが脳裏をよぎった。もう四十年近くも前になる。
 当時、私は郵便局に勤めており、同僚と交際していた。優しい男だったが、分不相応にかつこうをつける癖があり、私がしょっちゅう金を用立ててやっていた。結婚するつもりだったから深く考えなかったというのもあるし、捨てられるのが怖かったのもある。とうとう顧客の金に手をつけたのも、男を喜ばせたい一心からだった。だが横領がばれたとき、男はさも驚いたような顔をした。俺のためだったなんて言われても困るよ、冗談だったのにまさか本当にやるとは。それきり男とは会っていないが、出所してしばらくして、郵便局時代の後輩の女と食事をしているのをたまたま見かけた。薬指にそろいの指輪があった。
 その一件以来、土地と職を転々として生きてきた。親しい人間はひとりもいない。
 私の態度に不安を感じた和枝は、珍しく鋭かったと言える。今後の対応を考えると言ったのは、ほとんどその場しのぎにすぎなかった。ふたりと違って私には借金はなく、そこそこの蓄えもある。きれいな金ばかりではないから、人目に立つことを嫌って質素な暮らしをしているが、無理にこの仕事を続ける必要はないのだ。誰かに感謝され頼られるのは悪い気がしなかったものの、このごろは重荷になってきてもいた。さっぱりと捨て、黙って新しい土地へ去るのが正解ではないか。
 サウナに客が入ってきたのを潮に立ち上がった。和枝たちはもっと話したそうだったが、素知らぬふりであいさつをして先に出る。
 追いかけてこられないうちにと、さっさと身支度をして更衣室を出た。そんな自分を客観的にとらえて、つまり心ではすでに和枝たちを捨てているのだとわかった。
 ただ、この神倉でやり残したことがひとつある。
「おばちゃん」
 アパートに戻り、玄関のかぎを開けようとしていると、音を聞きつけてか隣の部屋から波瑠斗が飛び出してきた。手にランドセルのカタログを持っている。
「待ってたんだ。ランドセル、決めたよ」
 波瑠斗は折り目をつけたページを開き、私が見やすいように掲げた。シルバーのランドセルの写真が掲載されている。
 あまりのタイミングのよさに笑ってしまいそうだった。これでやり残したことがなくなる。やはり去るべきなのだ。

 翌日の夕方、派遣キャディの仕事を終えた私は、波瑠斗から預かったカタログを手にショッピングセンターへ向かった。平日のためかすいていて、二階に特設されたランドセル売り場へもスムーズにたどり着けた。色とりどりのランドセルがずらりと展示され、それぞれのセールスポイントが楽しげな字体で記されている。母親に手を引かれた少女が、流れるCMソングに合わせて歌っている。
 慣れない雰囲気に居心地の悪さを覚えつつ近づいていくと、待機していた店員が目ざとく気づいて話しかけてきた。
「こんにちは、ランドセルをお探しですか」
「ええ、はい」
「お孫さんにプレゼントですか」
 少しうろたえた。祖母というものを見慣れているだろう店員の目に、私はそう見えるのか。めったに着ないニットのカーディガンのせいかもしれない。いつもの薄汚れたダウンジャケットではなおさら気後れすると思い、引っぱり出してきたのだ。
「これなんですけど」
 そうだとも違うとも答えずに、カタログを開いてシルバーのランドセルを指さした。すぐに実物のところへ案内され、確認し、四万七千円を現金で支払う。一万円札を重ねて財布から出すのはどのくらいぶりだろう。
「メッセージカードをお付けできますが、いかがいたしますか」
 包装紙とリボンを選んでやれやれと思っていたら、まだあった。この場で書けば包装に添えてくれるという。じっくり考えたければカードだけ渡しておくと言われ、とりあえず受け取った。終始にこやかだった店員は、書き損じに備えてカードを余分に持たせてくれた。
 ランドセルが入った大きな紙袋を手に、売り場をあとにする。ふと見れば、歌っていた少女の母親も同じ袋を提げている。目が合って、ほほえみかけられた。どんな顔をしたらいいのかわからなかった。戸惑いが大きいが、不快ではない。
 なんとなくフロアを見て歩いた。入学フェアと銘打って、学習机や自転車や時計などが展示されている。机が税込み五万三千円、椅子が一万五千円。いや、もっと安いのもある。1Kの部屋に置くのなら、できるだけ小さいのでないと。そんなことを考えている自分に気づき、また戸惑った。
 アパートに帰り、隣の様子をうかがいながらランドセルを運び入れる。今はまだ波瑠斗に見つけられたくない。メッセージカードを書いてしまうまでは。店員に言われるまま受け取ったメッセージカードだったが、書こうという気になっていた。ランドセルを押し入れに隠し、自分らしくない心の動きに苦笑する。
 ランドセルを買ったらここを去るつもりだった。だが、それはメッセージカードを書いてからになった。いい文面をなかなか思いつかないが、悩むのは不思議と楽しかった。幾日も幾日もそればかり考え続け、頭のなかが何十枚ものメッセージカードでいっぱいになっていった。
 和枝から数回、雪子からも一回、電話がかかってきたが、いったん回答を延ばしてあとは無視している。朱美と違ってグループのメンバーに住所を教えてはいないので、押しかけてこられる心配はない。
 このところ香苗は卒園式の服装の話ばかりしている。いつの間にかそういう時期になっていた。メッセージカードが書けるまでのこと、と私は自分に言い聞かせていた。

 そんな日々に終わりをもたらしたのは、一通の封書だった。
 ゴルフ場から帰宅した私は、郵便受けに入っていた封筒を手に取って眉をひそめた。何の変哲もない長4の茶封筒に、「みず光代様」と宛名が記されているが、その文字は定規を使って書いたように不自然だ。差出人の名前はない。それどころか、こちらの住所も切手も消印もない。つまり郵送されてきたのではなく、直接この部屋の郵便受けに入れられたということだ。
 開けてみると、四つ折りにされたB5のコピー用紙が一枚入っていた。宛名と同じ筆跡の文字がつづられている。
『これまでのことを黙っていてほしければ、一千万円を用意しろ。受け渡しの方法は追って指示する』
 脅迫状であることを理解するのにしばらくかかった。紙がかさかさ鳴る音で我に返ると、自分の手が小刻みに震えていた。これまでのこと。一千万円。朱美と希の顔が文字に重なって浮かび上がってくる。
 携帯をバッグから出し、しかし操作せずに手を下ろした。誰にかけようというのか。和枝と雪子が頼りにならないのはわかりきっている。そもそも頼りにできる誰かなど私の人生には存在しない。
 脅迫状をこたつの上に投げ出し、台所へ行って湯を沸かした。きゆうに残っていた出がらしの茶を飲むと、味も香りもありはしないが、熱さが空っぽの胃に染みた。
 冷静になって考える。脅迫状を送ってきたのは何者か。「これまでのこと」を知っているのだから、やはり朱美と希しかいない。住所を教えた覚えはないが、あとをつけるなりして知ることはできる。ただし「水野光代」が偽名であることまでは知りようがないから、宛名はそうなっている。では要求に従わなかった場合、彼らは自分たちも荷担していた犯罪を本当に暴露するだろうか。絶対にしないと断定できる根拠はない。自分たちだけは罪に問われない抜け道があると思っているのかもしれない。
 天袋に目がいった。出どころが言えない金は、金融機関に預けず部屋に隠してある。一千万円を持ち逃げしたふたりが、厚かましくも同じだけの金を要求してきたのは、借金のない私がこうして貯め込んでいるのを見透かしてのことだろうか。
 あれを持って、ひとりでさっさと逃げてしまおうか。最初からいざというときにはそうするつもりで、だからこそグループの誰にも本名を教えなかった。どうせメッセージカードが書けさえすれば、ここを去る気だったのだ。
「おばちゃん」
 かすかに声が聞こえて、ぎくりと玄関を見た。もうすぐ聞けなくなる幼い声に、思いがけず心が騒ぐ。
「これ」
 ドアを開けるなり、画用紙を差し出された。クレヨンで三人の人間が描かれ、それぞれに矢印で「はると」「ママ」「おばちゃん」と説明が付いている。全員、顔の半分以上が口だ。ふいに胸に込み上げるものがあった。六十五年も生きてきて、こんなふうに笑ったことが一度でもあっただろうか。
「……ハルくんが描いたの?」
「うん。おばちゃんに見せてあげてってママが」
「上手ねえ」
「あげる」
 画用紙ごと波瑠斗を抱きしめたかった。もう認めないわけにはいかない。私はまだ波瑠斗のそばにいたいのだ。
 金がいる、と痛いほど思った。

 腹を据えた私の行動は早かった。
 翌日の午後、キャディの仕事を終えると、いったん家に帰って服を着替えた。いつものダウンジャケットの代わりにコートをまとい、耳まで覆うつばの広い帽子をかぶる。化粧を変えた効果もあって、ずいぶん違う印象になった。念のためにマスクをし、リュックを背負って家を出たのは夕方のことだ。気温がぐんと下がっている。何度も手をこすり合わせながら、バス停までのなじみのない道を歩いた。
 のろのろと三十分ほどバスに揺られ、昔ながらの住宅街で降りた。豪邸というわけではないが、よく見れば敷地の広い大きな家が並んでいる。頭に入れてきた地図に従い、色のげた鳥居を背にして板塀に挟まれた細い道を進む。
 目当ての家の前に立ったとき、朱美のマンションを思い出した。一戸建ての日本家屋とマンションの違いはあれど、往年の輝きを想像させる寂しさは共通している。門の上に立派なもくれんが頭を出しているが、つぼみの数は少ない。
 表札の名を確かめるまでもなく、たきもとの家だとわかった。ゴルフ場の常連で、詐欺のターゲットにと目をつけていたひとりだ。滝本に関する多くの情報のなかに、彼が独居するこの家のことも含まれている。
 チャイムを鳴らしても返事がないので、庭を抜けて玄関へ向かった。戸に鍵をかける習慣がないのも知っていた。
「ごめんください」
 何度か声をかけてようやく、はいはい、としわがれた声が返ってきた。ゴルフ場で聞くより力がない。壁に手をついてゆっくりと廊下を歩いてくる姿も、いかにも年寄りめいている。趣味のゴルフだけはと、隣町に住む長女にゴルフ場まで送ってきてもらっているが、このごろは間が空くようになっていた。八十三歳。少し前から認知症の症状が出はじめ、だんだん進行している。
「〈はあとふる〉から来ました、すずです」
 はあ、と応じた滝本は明らかにぴんときていない。私の顔を正面から見ていても、ゴルフ場のキャディだとは気づかないようだ。大丈夫だろうとは思っていたし、ごまかして丸め込む自信もあったが、やはりほっとする。
「ええと、どちらさんでしたっけ」
「〈はあとふる〉の鈴木です。ヘルパーですよ」
「ああ、ヘルパーさん」
 滝本はやっと理解した様子でうなずいた。妻を亡くしてひとりで暮らしているため、長女が訪問ヘルパーによる生活支援を依頼している。〈はあとふる〉はその会社の名前だ。決まった曜日に決まったヘルパーが来るという話だったが、曜日もヘルパーもいつもと違うことに、どうやら滝本は気づいていない。
「寒いなか悪いね。マスクして、風邪ひいてるんじゃないの」
「ただの用心ですよ、インフルエンザがはやってるから。花粉も飛びはじめたみたいだし」
「冬なんだか春なんだかわかんないね」
 家に上がることに成功した私は、滝本が居間へ入っていくのを確認して台所に立った。リュックだけ床に下ろし、コートと帽子は身に着けたままで、手早くやかんを火にかける。
「とりあえずお茶でも入れますね」
 声をかけると、思わぬ怒鳴り声が返ってきた。
「お茶でもってなんだ、でもって。俺の金で買った茶だぞ」
 突然のかんしやくに驚いたが、ゴルフ場でも老人のひようへんは珍しくない。これから自分がやろうとしていることを考えれば、理不尽に𠮟しつせきされたことで、むしろ気が楽になった。茶請けを見繕って一緒に出し、「お掃除してきますね」と断ってから、台所でリュックを取って仏間へ向かう。
 滝本はいざというときのためにと、一千万円の現金を仏壇の収納に保管している。前に本人から聞いたことだ。それを盗むのが目的だった。本当はそんなずさんな方法はとりたくないが、じっくり詐欺をしかける時間はない。また、これまで自分が住む神倉市での犯罪は避けてきたが、そうも言っていられない。
 仏壇には妻のものらしき遺影が飾られており、線香を上げた形跡があった。収納には箱入りの線香やろうそくやマッチ、そして茶色の紙に包まれた金が確かにしまわれていた。中身を確認すると、帯付きの一万円札の束が十個。あった、とかみしめるように思う。
 むらさあん、と滝本が呼んだ。本物のヘルパーの名前だ。穏やかな口調に戻っている。
「はあい、ちょっと待ってくださいね」
 金を元のように包み、リュックの底に入れた。重さは一キロくらいか、日ごろ何本ものゴルフクラブを運んでいる私にとっては軽いものだ。
「木村さあん、お茶のおかわりが欲しいんだけど」
 今度は答えなかった。リュックを背負い、足音を立てないよう玄関へ移動する。
「おい、茶。さっさと持ってこないか。おい、
 亜矢子というのは亡き妻の名だ。
 私が黙って消えても、滝本は鈴木というヘルパーが来ていたことなど忘れてしまうだろう。茶は自分で入れたのだと思い込み、記憶のあいまいさに不安を募らせるかもしれない。もしちゃんと覚えていて誰かに話したとしても、まず信じてはもらえまい。赤ちゃんに語りかけるような言葉で諭され、いよいよぼけたと噂されるだけだ。そんな光景は何度も見てきた。
 静かに玄関を出て、木蓮のつぼみの下を急ぎ足で通り抜けた。花が咲くのは今年が最後かもしれないと頭の隅で思った。
 夜に追い立てられるように日が暮れていく。板塀に挟まれた細い道が薄闇にかすむ。
 前方に色の剝げた鳥居が見えた。ほっと緩んだ手のひらは汗ばんでいた。

 前に並んでいた何人かが行き先の違うバスに乗り込み、停留所に立っているのは私だけになった。センターラインのない道に車が増えてきて、慎重にすれ違っていく。左右から浴びせられるヘッドライトが不快だった。混雑のせいで遅れているのか、発車時間をもう十分も過ぎているのにバスは見えない。
 リュックの位置を何度も直し、かたひもを両手でつかむ。重くないはずなのに重いのは、神経が疲れているせいだろうか。どこからか流れてきた鐘の音が、がいの内側にぐわんと響いた。めまいがして時刻表に寄りかかる。
 しばらくつぶっていた目を開けたとき、だらだら進む車列のなかにパトカーを見つけ、思わず身構えた。パトカーはバス停の近くに停まり、助手席から警察官が降りてきた。
「おばさん、具合悪いの?」
 三十代、いや四十代か。警察官にしてはやや髪が長く、表情にも口調にもしまりがない。
「いえ、大丈夫です。ちょっとめまいがしただけ」
「それ、大丈夫じゃないよ」
「もう治まりましたから」
「でも顔色よくないよ」
 だとしたら、それは疲労と緊張のせいだ。パトカーを見たときから、リュックの肩紐をつかんだ手が硬くなっている。
「バス待ってるの?」
「ええ、なかなか来てくれなくて」
「この道は夕方になるとねえ。この辺はあんまり知らない?」
 私は短く肯定するだけにとどめた。隠しごとがあるときは、なるべくしゃべらないほうがいい。
「どこから来たの。パトカーで送ってくよ」
「そんな、けっこうです」
「遠慮しないで。この寒さのなか、いつ来るかもわからないバスを待ってたら、ますます具合が悪くなっちゃうよ。市民を保護するのは俺たちの仕事なんだから、めったにできない経験だと思って」
 パトカーに乗った経験ならある、それも手錠をかけられて。そう告げたら、このお節介な警察官はどんなに驚くだろう。警察官の目にも善良な一市民に見えるというのは、喜ばしいことではある。もちろん気は進まなかったが、申し出を受けることにした。かたくなに拒んで変に思われても困る。
 バスがまだ来ないのを確かめて、警察官がパトカーに合図をした。まるでリモコンで操作しているかのように、パトカーは即座に発進し、後部座席のドアが私の真ん前にくる位置で停まった。警察官が私のためにドアを開ける。乗り込んで、リュックを両手で抱え、ドアが閉められる瞬間の息苦しさに耐えた。パトカーの後部座席のドアは内側からは開かない。
 警察官は元どおり助手席に収まり、バックミラーの角度を調整した。運転席用と助手席用にふたつあるバックミラーの片方が私を捉え、鏡のなかで目が合った。へらへら笑いかけてくる。
「そうそう、俺は神倉駅前交番の狩野、こっちはつきおか
 運転席の警察官が振り向いて軽く頭を下げた。背が高くたくましい体つきをしているのが、座っていてもわかる。まだ二十代だろう、清潔な雰囲気の若者だ。
「おばさんの名前は?」
 自分にしかわからないほどのつかの間だけ迷い、「水野です」と答えた。
「水野なにさん?」
「水野光代です」
「住所は?」
 私が答えると、狩野は月岡に発進するよう指示した。パトカーだけあって車の列にはすんなり入れたが、進みが遅いのはどうしようもない。
 見つめ合っているのは居心地が悪く、ミラーから目をらした。すっかり日が落ちて、黒い窓には自分の顔が映っている。普段より厚く塗ったファンデーションがマスクの紐を汚している。
「風邪?」
「ただの用心です」
「マスクといえば、口裂け女ってあったよね。きれいなお姉さんかと思ったら実は、ってやつ。みっちゃんも知ってる?」
 月岡が少し考えていいえと答えた。狩野の相手は月岡に任せることにして、私は会話に乗らなかった。陽気で無意味なおしゃべりを楽しむ習慣が私にはない。身に付けないままこの歳まできた。
 私が煩わしく感じていることを、しかし狩野は察してくれない。
「ところで、水野さんはひとり暮らしなの?」
「どうしてですか」
「さっき住所を聞いてから思い出してたんだけど、そのアパートって1Kばっかりじゃなかったっけ」
 意外だった。ちゃらんぽらんに見えて、管内をよく把握している。
「ええ、ひとりですけど」
「困ってることとかない?」
「特には」
 詐欺の共犯者にゆすられて困っている、とはまさか言えない。
「近くにしんせきとか、頼れる人はいる?」
「私は仕事もしてますし、お隣との付き合いもありますから」
「それなら安心だ。ひとり暮らしは何かと物騒だし、特にお年寄りの場合は、詐欺のターゲットにされやすいからさ」
 そういうことか。質問の意図を理解してあんした。この年齢なら普通は被害者になるのだ。
「仕事って何やってんの」
「キャディです、派遣の」
「え、水野さんいくつ」
「六十五ですけど、もともとシニア向けの求人で見つけた仕事だし、毎日フルタイム働くわけじゃないですから」
「でもやっぱきついでしょ。さっきは本当に具合が悪そうだったし、無理しちゃだめだよ。隣と付き合いがあるって言ってたけど、何かあったとき助けてもらえそう?」
「いつでも頼ってね、とは言ってくれてますけど」
「そりゃいい。まだ若い人?」
「二十代のお母さんとお子さんです」
 波瑠斗のことを口にしたとたん、ふいに間違った場所に迷い込んだような気になった。なぜパトカーなんかに乗っているのだろう。なぜ警察官にあれこれ訊かれているのだろう。いたいのは波瑠斗のそばで、そのために進んできたはずなのに。
 しかし矢継ぎ早の質問が、立ち止まる時間を与えてくれない。答えをためらったら不自然な問いばかりだ。
「男の子、女の子?」
「男の子です」
「いくつ」
「六歳」
「じゃあ春から小学生?」
「ええ」
 うんざりしながら答えたものの、まぶたの裏には波瑠斗の姿があった。満開の桜の下、シルバーのランドセルを背負って笑っている。
「その子がかわいくてたまらないんだね」
「えっ」
 驚いてミラーに目を戻すと、狩野の目は笑みの形のままそこにあった。じっとこちらを見つめている。けっして鋭い目つきではないのに、射られたかのように全身が瞬時に硬くなった。
「どうして」
「顔に書いてあるよ。さっきまでと表情が全然違う」
 思わず顔に手を当てた。本当は顔を覆ってしまいたかった。狩野はおそらくずっと私から目を離さずにいたのだ。パトカーに乗り込んだときから。それとも、バス停で声をかけてきたときからか。いったいなぜ。
「みっちゃん、次の交差点を右に入ろう。たぶんそっちのほうが早い」
 話が逸れたのを幸い、窓のほうへ顔を背けた。普段は通らない道なので、景色を見てもどこを走っているのかわからない。だが市の外れのほうへ向かっているのは間違いなさそうで、交差点を曲がると、交通量も建物も一気に少なくなった。自分の顔がいっそうくっきりと窓に映り、信号に照らされててらてら光る。
「暑い?」
 訊かれて初めて、汗をかいているのに気づいた。
 やはり狩野は私を見ている。観察している。パトカーに乗せたのは、具合が悪そうに見えたからではなかったのか。狩野に対する認識を改めなければならない。この男に警戒せよと、日陰で生き抜いてきた者の勘が告げている。
「これでちょうどいいわ」
 コートのボタンを開け、リュックを抱え直した。タイミングを待っていたとばかりに狩野が尋ねる。
「そのリュックって何が入ってるの」
「そういう質問って誰にでもするんですか」
「単なる興味だよ。職質でバッグの中を見せてもらうと、びっくりするようなことがときどきあってさ」
「残念だけど、私のは普通ですよ」
 答えるのが少し早かったか。職質という言葉に刺激された自覚がある。考えが読めない狩野の目を見返しながら、「お財布とかハンカチとか」と取り繕う。
「それにしては重そうに見えたけど」
「そうでもないですよ」
「女の人って持ち物多いよね」
 私はひそかに奥歯をかんだ。切り込んできたと思ったら、さらりと引く。主導権を握られているようで落ち着かない。
 突然、狩野が体をひねって後ろに手を伸ばしてきた。私はとっさにリュックを抱え込んだ。はっと顔を上げた私を、黒いバインダーを手にした狩野がにやにやして待ち構えていた。鏡越しでなく目が合う。やられた──。
「これを取っただけなんだけど、びっくりさせちゃったかな。そのリュック、ずいぶん大事なんだねえ」
 そこで思わず黙り込んでしまったのが、さらなる失敗だった。そのせいで、たとえば思い出の品であるとか、リュックそのものに個人的な価値があるという言い逃れもできなくなった。中身は普通のものだと、さっき言ってしまっている。
「何が入ってるの」
 改めて同じ質問をされ、マスクの下で深呼吸をした。吐息が熱く、マスクが湿って気持ち悪い。しっかりしろと自分に言い聞かせた。これまでけっして安穏な人生を歩んではこなかった。ピンチならいくつもくぐり抜けてきたのだ、自分だけの力で。
「実は、お金が入ってるんです」
「お財布って意味じゃないよね。いくら」
 言いにくそうにためらうふりをしてから、一千万、と正直に答えた。こんなやりとりを聞きながら、ハンドル操作が少しも乱れない月岡に少し感心した。それだけの余裕がある自分に自信を取り戻す。
「見せてもらっていい?」
 狩野が手を差し出した。その指はちょっと珍しいくらい長かった。細くて骨張っているせいもあってか、獲物を捕らえるの脚を想像させる。
 逆らわずにリュックを渡すと、狩野は中に手を入れて茶色の紙包みを取り出した。開けるよ、と断ってから紙をめくる。
「確かに金だね。何の金なの」
「携帯にメールが来たんです。閲覧料金がどうとか賠償金がどうとかで、一千万円を振り込まないと法的措置をとるって」
「典型的なやつだ」
「私、パニックになってしまって、急いで振り込まなくちゃと思って銀行へ向かいました。地元は抵抗があったので、バスに乗って知らないところで降りて。それがあそこだったんです。でもやっぱり踏ん切りがつかなくてぐずぐずしてるうちに、振り込め詐欺のポスターを見かけてはっとしました。これ、振り込め詐欺ですよね。振り込まなくてよかったんですよね」
「もちろん」
 私は胸に手を当てて大きく息をついた。口ぶりからはわからないが、狩野が簡単に信じるとは思えない。うまく演じ続けなくては。
「預金を下ろすとき、銀行で何も訊かれなかった?」
たん預金だったんです」
 答えてから、札束に帯が付いていたのを思い出した。
「何年も前、銀行の経営たんがあったころに、心配になってみんな下ろしたもんだから」
「なるほどね。携帯に来たメール、見せてくれる?」
「嫌だ、さっき削除しちゃった。すみません、恐ろしくて」
「そっか。まあ、被害がなくてよかったよ」
 意外にもあっさりと狩野はリュックを返してきた。ほっと息をつきそうになるが、まだ安心はできない。何か魂胆があるのかもしれない。
 今度はこちらから質問してみた。
「バス停で声をかけてくれたのは、もしかしてこのことを見抜いたからですか」
「まさか、そこまでは。ただずいぶん落ち着きがなかったから、何かあるかもとは思ったけどね。リュックを気にしてる様子だったし」
 そうだったかもしれない。態度に出ていたとはうかつだった。だが、それを聞いて胸のつかえが下りた。そういう理由で目をつけたのなら、今のやりとりで不審は解消されたはずだ。
「あの、隠しててすみませんでした。そんな見え透いた詐欺に引っかかりかけたなんて、知られたらみっともないと思って」
「そうやって泣き寝入りしちゃう人がけっこういるんだよね。水野さんも、またこういうことがあったら、簞笥を開ける前に交番に来てね。もしくは警察署に電話。みっともないのは騙されるほうじゃなくて騙すほうなんだから」
 それはどうかしら、と私は内心で反論する。欲望や無思慮に付け込まれる被害者には、まったく恥じるべきところはないのか。
 狩野はやはり警察官だ。正義の側で生きていられる人間には、悪に落ちざるをえなかった人間の気持ちは本当にはわからない。警察が助けるのは、弱い者ではなく正しい者だ。正しくない弱者の必死のあがきは、薄汚い犯罪としか受け取られない。
 私が本当はどちら側の人間なのか、狩野は今や完全に見誤っているようだった。欺きおおせたのだ。
「水野さん」
「ごめんなさい、少し休ませて。安心したら、どっと疲れが出てきちゃって」
 リュックを元どおりももに乗せて抱き、目を閉じた。狩野はもう話しかけてこなかった。
 近くまででいいと言ったにもかかわらず、パトカーはアパートの駐車場に片側を乗り入れる恰好で停まった。狩野が車を降り、外から後部座席のドアを開ける。空気は刺すように冷たくなっていたが、それがかえって心地よい。
「お世話になりました」
 ほとんどすがすがしい気分で頭を下げた。ところが、私が提げていたリュックを狩野が横からひょいと取った。
「部屋まで一緒に行くよ」
「そんな、いいですよ、すぐそこだし」
「遠慮しない。みっちゃん、その間に車回しといて」
 狩野が先に歩きだしてしまったので、しかたなくあとを追う。どこかで猫が吠えるように鳴いている。
「猫の恋か。俺にも誰かいないかなあ」
「おひとりなんですか」
「バツイチ。でも駐在さんになりたくてさ。それには奥さんがいるほうがいいんだよね」
 せんぼうしつが胸に兆した。若いころからよく知っている、しかし無視してきた感情だった。なりたいものになれる人間は限られている。
 一〇一号室の窓に明かりが見えた。今すぐドアを開け、波瑠斗にただいまと告げたいという誘惑に駆られた。自分がびしょれのぞうきんのようにくたびれはてていることに気づく。
 思いが通じたかのようにドアが開いた。寒そうに肩をすぼめて出てきた香苗は、私と狩野を見て顔をこわばらせた。警察官に対して好意的になれない人生を歩んできただろうことは想像がつく。
「道端で具合が悪くなって、おまわりさんが送ってくれたの」
 私が説明する傍らで、狩野がにこやかに「こんばんは」と告げた。香苗はどうしていいかわからない様子で、上目遣いに狩野を見ながらちょっと頭を下げた。
「具合が悪くなったって、大丈夫なの?」
 私に尋ねながらも、ちらちらと狩野を気にしている。
「ちょっと立ちくらみがしただけ」
 香苗を早く解放してやりたいのもあって、早々に会話を打ち切った。そそくさと部屋に引っ込む香苗の爪には、春を先取りしたようなピンクの花が咲いていた。今夜は仕事に出るのだろうか。このごろ休みがちになっているのは、恋人の存在と無関係ではないはずだ。古賀といったか、前に紹介されたころから香苗の部屋に入り浸っているようで、頻繁に姿を見かける。あの男を、香苗はいつまで優しい人と言うだろう。
 疲労が増した気がした。重い体をどうにか自室の前まで運び、狩野のほうへ向き直る。
「本当にお世話になりました」
 しかし狩野はまだリュックを返そうとせず、代わりに一枚の紙を差し出した。見れば「巡回連絡カード」と記されている。
「ついでだから書いてもらおうと思って持ってきたよ。事件や事故や災害が起きたときに、安否確認や緊急連絡に使うんだ」
 そんなことは望んでいないし、個人情報を記せるわけもない。だが拒否するのは不自然かもしれない。
「あとで書いて交番へ持っていきます。今日は疲れてるから」
「じゃあ数日のうちに取りに来るから、それまでにお願いね」
 狩野はリュックとカードを持ったまま、私が鍵を開けるのを待っているようだ。受け取ろうと手を出しかけると、先んじて断った。
「持ってるよ。手がふさがってちゃ開けにくいでしょ」
「そのくらい」
「やっぱり具合がよくなさそうだしさ。中に入るまでちゃんと見届けさせてよ」
 マスクの下で唇をかみながら、家の中の様子を思い浮かべた。1Kの小さな部屋だ。入ったところが台所で、奥の部屋との仕切りがあるにはあるが、出かけるときにいちいち閉めはしないため、玄関からほとんどすべて見通せる。冷蔵庫に波瑠斗のくれた絵が貼ってある。押し入れにランドセル、その上の天袋にまずい金。例の脅迫状は、重要な書類をしまった引き出しの底に入れてある。
「どうかした」
 大丈夫、何も問題はないと、自分に言い聞かせた。コートのポケットから鍵を取り出すと、狩野が目ざといところを見せた。
「車、持ってるんだ」
 同じキーホルダーに車の鍵もまとめてある。
「あちこちのゴルフ場へ行くには、やっぱりないと不便ですから。街なかや知らないところへ行くときには、電車やバスも使いますけど」
 それから、自分の車を見られたくないときにも。
「じゃあ、これね」
 私が部屋に上がってやっと、狩野はリュックを床に下ろした。礼を言って、差し出された巡回連絡カードを受け取る。水野光代としておとなしく提出するしかなさそうだ。
「水野光代って本名?」
「えっ」
 不意打ちだったせいで、戸惑い以上の動揺が声に表れた。しくじりがさらに私をうろたえさせる。
「どういう意味ですか」
「いやね、光代さんだったら、たいてい『みっちゃん』って呼ばれるでしょ。今じゃなくても、呼ばれてた時期はあるんじゃないかな。だからみっちゃんって呼びかけが聞こえたら、自然に反応しちゃうと思うんだよね。自分のことじゃないってわかる状況でもさ。でもおばさんは、俺が月岡をみっちゃんって呼んでも無反応だったから、あれっと思ったんだ」
 狩野ののんびりした口ぶりとは裏腹に、私の鼓動は速くなっていった。そんなことで。衝撃に怯みそうになる心をどうにか立て直し、不愉快そうな態度を示す。
「それはあなたがまだ若いからですよ。確かに呼ばれてたこともあったけど、そんなの大昔です。今さら反応なんかしません。だからって本名かだなんて」
 失礼しました、と狩野は首をすくめた。だが信じていないのは明らかだ。どうして、と狩野の腕をつかんで揺さぶりたいくらいだった。狩野が私に不審を抱いたのは、バス停での挙動が不安げだったからだ。そしてその不審は、振り込め詐欺に騙されかけていたという説明で解消された。そうではなかったのか。
「ところで」
「まだ何か」
 演技をするまでもなくとげのある声が出た。ストレスのせいか下まぶたがけいれんを始めた。しかし狩野は意に介するふうもない。
「おばさんちって仏壇ないの」
「何ですか、いきなり」
「線香のにおいがしないなと思って」
「え?」
「リュックを開けたら線香のにおいがしたんだけど」
 一瞬、頭が真っ白になり、はっとしてマスクに手をやった。金だ。滝本の家から盗み出した金は、仏壇の収納にしまわれていたのだ。あの一千万円に線香のにおいが染みついていたに違いない。マスクのせいでわからなかったのだ。
「そんなにおいを発するようなものは入ってなかったし、例の簞笥預金からにおうみたいだったよ」
 舌が凍りついたように動かない。動いたところで、どうごまかせば噓くさくならずにすむだろう。言葉は何ひとつ浮かばず、粘ったような汗ばかり出る。
「あとさ、あの金」
 考える時間は与えられなかった。
にせさつだよね」
 何を言われたのかわからなかった。贋札? いったい何のことだ。
 突っ立っている私をよそに、狩野がリュックを開けて包みを取り出す。包み紙を開き、百万円の束の真ん中あたりに親指を差し入れて端をめくる。
 目を疑った。何も印刷されていない、紙幣と似た色の、サイズだけは同じ紙がそこにあった。
「ただの紙だから贋札とは言わないか」
 狩野がぱらぱらと紙をめくっていく。紙幣は上のほうの二、三枚だけだった。
「何年か前に銀行で下ろした金だって言ってたよね。で、これを振り込むつもりだったんだよね。一千万には足りないね」
 全身があわち、奥歯がかちかちと鳴っていた。わけがわからない。だが、取り返しのつかない失敗をしたことはわかる。
「今日おばさんがいたバス停の近くに、ひとり暮らしのおじいちゃんがいるんだけど、ぼけてきて、仏壇の収納に一千万円を隠してるってことをあちこちでしゃべっちゃうんだって。娘さんがどんなに注意してもだめで、しかたがないからこっそり金を持ち出して銀行に預けたんだそうだ。知ったら怒るからって、贋物の札束を元の場所に置いてね。行為の是非はともかく、そういう事情を知った上で気にかけておいてほしいって、娘さんが交番へ頼みに来たんだ。俺は現物を見てないけど、その贋物ってこんなんだろうね」
 汗が冷えていくのを、皮膚がビニールにでもなったかのように鈍く感じていた。
「おばさんにもそういうことをする娘がいるの?」
 こちらを見つめる狩野は、もう笑っていない。
「これは職務質問ですか。こんな形でやっても証拠にならないんじゃ……」
 なんとか絞り出した声がかすれて消える。
「ただの世間話だよ。でもここからはちゃんと訊くから、任意で答えてね。この金はあんたのじゃないね?」
 ゆっくりと息を吐き、うなずいた。盗んだのかという問いに、そうですと答えた。
 やはり老いたのだと改めて思う。もう少し前なら、まだまだ逃げ道を探してあらがっていただろう。たぶん、波瑠斗と親しくなる前なら。家族ごっこが思いのほか楽しくて、逃げるべきときに逃げられなかった、その時点でこうなることは決まっていたのだ。
「話してよ。今なら自首って扱いにもできるからさ」
「……ちょっとだけ待ってもらえますか」
 奥の部屋へ行き、こたつのテーブルをきれいにいて、ランドセル売り場でもらったメッセージカードを広げた。あんなに考えたのに、ありふれた言葉しか浮かばなくて嫌になる。
 ペンを置き、押し入れからランドセルの入った紙袋を出した。書いたばかりのメッセージカードを丁寧に添える。
「これを隣に返してください。さっき会った香苗さんが買ったのを、子どもを驚かせたいからって私が預かってたんです」
 聞き入れてもらえるかどうかはけだった。分が悪いと覚悟はしていたが、この型破りな警察官ならと、かすかな望みを感じてもいた。
 ランドセルを背負った波瑠斗を想像する。やわらかな光に包まれて笑っている。
 心に浮かんだのは、やっぱりありふれた言葉だった。
 ハルくん、入学おめでとう──。

    *

 桜の川が足もとをさらさらと流れていく。
 それに気を取られて、耳が留守になってしまった。
「悪い、何だって」
じまはゆすられていたと言ったんだ」
 報道でしょっちゅう目にする名前を、狩野は漢字で思い浮かべた。水野光代の本名だという。
 窃盗を認めて自首した多恵子は、高齢男性をターゲットにした詐欺についても告白し、警察の面々を驚かせた。水野光代は多くの偽名のうちのひとつであり、日本各地を転々としては、そのたびに別の人間になって生きてきた。犯罪と縁の切れない人生だったが、とりわけマスコミによって「老老詐欺」として取り上げられた一連の行為は、スキャンダラスな興味も手伝って、一ヶ月以上がたった今でも世間の注目を集めている。そのなかには立件可能な案件も多数含まれていた。なぜ自分の不利益になる告白をしたのかという捜査員の問いに、多恵子は「もう疲れた」と答えたという。
「多恵子がゆすられてたことまで、おまえは察してたのか?」
 スマートフォンから聞こえてくる葉桜の声は不機嫌そうだ。神奈川県警捜査一課の元同僚は、いつも不機嫌そうな声で話す。すばらしい手柄を立てたときでも、まなむすめの誕生日を祝うときでも。
 葉桜は多恵子を自首させたのが狩野だと知り、管轄外の事件であるにもかかわらず、その後の捜査で判明したことをわかる範囲で教えると言って、私的に電話をかけてきたのだった。刑事に戻れ──最終的にすっかり聞き飽きた言葉を伝えるために。
「まさか」
 狩野は笑って否定した。事実、そこまではっきり予想していたわけではない。ただ、多恵子は本来、場当たり的に盗みをやるタイプではないから、何かあるだろうとは思っていた。
「勘は衰えてないな」
 語らなかった言葉を、葉桜は聞き取ったようだ。いつもの台詞せりふを持ち出される前に、狩野は急いで尋ねた。
「で、ゆすりってのは?」
「まだ《《あの件》》を引きずってるのか」
 ちょうど声が重なり、ふたりとも黙って相手の答えを待った。数秒の根比べののち、先に折れたのは葉桜のほうだった。
「多恵子の部屋から脅迫状が見つかった。詐欺のことをばらされたくなければ一千万よこせという内容だ。郵送でなく多恵子の家にじかに届けられたもので、差出人の名前はなし。かじ朱美とてらさき希がよこしたものだと、多恵子は考えていたらしい」
 詐欺グループのメンバーだったふたりは、金を持って行方をくらましていたが、すでに逮捕されている。
「実際は誰だったと思う」
 さあ、と狩野ははぐらかした。葉桜はため息をついたが、予想していたのか、無理に答えさせようとはしなかった。
まつ香苗と古賀しん。松野は隣の住人で、古賀はその男だ」
 多恵子を自首させた夜、家の前で会った女を思い出す。あのうろたえぶりは、単に警察が苦手だというだけには見えなかった。平静を装うには、度胸も人生経験も足りていなかった。こまめに染めているらしい髪から、強い煙草のにおいが漂っていた。
 多恵子の家に入ってみて、アパートの壁が驚くほど薄いことに気づいた。反対隣の一〇三号室から、水音とテレビの音が聞こえていたからだ。しかし多恵子は気にする様子もなく、やや大きいと感じられる声もそのままに会話を続けた。老化で耳が遠くなっていることに加え、老人同士で会話をすることが多いため自覚がなかったのだろう。一方、一〇一号室は人がいるはずなのに妙に静かだった。息を殺して聞き耳を立てていたに違いない。
「多恵子の生活はすべて、薄い壁を通して隣に筒抜けだった。つまり電話で仲間と話した内容もすっかり聞かれていた。古賀と香苗は、多恵子が一千万という金額を口にするのを聞いて、日ごろからそのくらいの額を動かしていると思い込み、それなら支払う気になると踏んだらしい。朱美と希が逃げたことを知って、その状況なら疑いは彼らに向き、かつ脅迫にしんぴようせいが出るという計算もあったんだろう。主犯はおそらく古賀だが、本人は香苗がひとりでやったことで自分は何も知らなかったと否認している」
「多恵子にそのことは」
「伝えたが、特に反応はなかったそうだ。ただ、多恵子は若いころ男に唆されて横領事件を起こしてる。捕まったのは多恵子だけだ」
 多恵子は香苗に過去の自分を重ねただろうか。
「ところで、梶朱美が黙秘を続けていて取調官が手こずってる」
「へえ」
「おまえなら落とせる」
 葉桜の声に力がこもった。狩野はへらっと笑ってかわした。
「俺とおしゃべりしてる暇があったら、奥さんに付き合ってやんなよ。デザートブッフェ、ずっと逃げてるんだろ」
 葉桜はそれ以上は言わなかった。
 電話を切って辺りを見まわす。一緒にパトロールに出てきた月岡は、少し離れたところで外国人に道案内をしているところだった。身振りでそうとわかるが、話している言語はさっぱりわからない。
「何語?」
「ドイツ語です」
 小走りで戻ってきた月岡は、誇る様子もなく短く答える。
 狩野は軽く足を振り、靴の先に引っかかった花びらを落とした。
「行こうか」
 今日は徒歩で近場を回るつもりだ。桜は盛りを過ぎたが、それでも春の小京都を訪れる人は多い。
 歩きだしたふたりの横を、小学生の一群が走り抜けていった。入学したばかりの一年生だろうか、黄色いカバーのかかったランドセルがやけに大きい。日差しを浴びた背中が輝いているように見えた。
「みっちゃん、どっかで和菓子でも買おうよ。詳しいでしょ」
 月岡の実家はたしか老舗しにせの和菓子屋だ。
「勤務中ですけど」
「堅いこと言わない。入学おめでとうってことでさ」
 輝く背中がぐんぐん遠ざかっていく。どこへでも飛んでいけそうだった。

(気になる続きは、ぜひ本書でお楽しみください)


書籍紹介

書名:偽りの春 神倉駅前交番 狩野雷太の推理
著者:降田 天
発売日:2021年09月18日
ISBNコード:9784041118764
定価:704円 (本体640円+税)
ページ数:288ページ
判型:文庫
発行:KADOKAWA

★全国の書店で好評発売中!
★ネット書店・電子書籍ストアでも取り扱い中!

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楽天ブックス
電子書籍ストアBOOK☆WALKER
※取り扱い状況は店舗により異なります。ご了承ください。

▼ 2024年9月24日発売のシリーズ最新刊!

書名:朝と夕の犯罪 神倉駅前交番 狩野雷太の推理
著者:降田 天
発売日:2024年09月24日
ISBNコード:9784041147276
定価:946円 (本体860円+税)
ページ数:400ページ
判型:文庫
発行:KADOKAWA

★全国の書店で好評発売中!
★ネット書店・電子書籍ストアでも取り扱い中!

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※取り扱い状況は店舗により異なります。ご了承ください。


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