遣唐使・井真成に降りかかる数々の試練。旅に出た真成一行の行く手にあるものは? 夢枕 獏「蠱毒の城――⽉の船――」# 109〈後編〉
夢枕 獏「蠱毒の城――⽉の船――」は「カドブン」(https://kadobun.jp/)で配信中の連載小説です。
6/8未明から発生している大規模システム障害により、「カドブン」をご覧いただけない状況が続いているため、「# 109〈後編〉」を本ページにて特別公開することとなりました。
「# 109〈前編〉」(2024年6月6日公開)は「ダ・ヴィンチWeb」からご覧いただけます。ぜひあわせてお楽しみください。
夢枕 獏「蠱毒の城――⽉の船――」
# 109〈後編〉
そうか――
そう青壺が口にするより先に、その表情をうかがっていた老人が、
「決まったな」
嬉しそうにつぶやいた。
「では、始める前に、約束ごとを説明しておこう。これをしておかぬと、あんたとわしと不公平になるからな」
青壺が、心に浮かんだ疑問やとまどいを口にする前に、老人がさっさと話を進めてゆく。
「説明?」
「ああ、悩める若僧よ。この世の全てのことは移ろうてゆく。この、音をたてて流れてゆくものの中で、人はいったい何事をなし得ようか。何事もなし得ずに死んでゆく。これこそが、貧乏人であろうが、大金持ちであろうが、僧であろうが、王であろうが、唯一、平等に手にしている運命と言ってよかろう。時は、瞬く間に過ぎてゆく。ああ、速いぞ、疾いぞ、細く開いた戸の向こう側を疾り抜けてゆく白馬の如きものぞ。この世に悩まぬ者なぞ、どこにもいない。愚かな過ちを犯さなかった者なぞ、この世にない。それを、この三つの願いで取りもどせるか。いいや、このわしが叶える三つの願いによって、幸福を手にした者なぞ、これまでにひとりだっていないのだ。まず、それを心得ておけ、若僧よ」
「それを、前もって言うことが、公平と?」
「いいや、これは前口上じゃ。よいか、よく聴くがよい、若僧よ、そなたが口にできる願いごとは三つ。ただし、叶えられぬ願いごとも、この世には無数にあるということじゃ」
「――――」
「まずひとつ目は、神に関わることじゃ」
「神」
「たとえば、ここに、神を召喚せよと願われても、それはできぬということさ。何故なら、神なぞこの世にないからじゃ。しかし、理と呼べるものなら、ある」
「――――」
「ふたつ目は、無限に関わることじゃ。無限に金を眼の前に積みあげよと言われても、それはできぬ。何故なら、この世に無限に存在するものなぞないからじゃ」
「――――」
「三つ目は、不老不死。老いず、死なぬ身を願われてもそれはできぬ。人は、どうあがいても、老いることは避けられず、そして死もまた避けられぬ」
「四つ目は、死者を蘇らせること。死者は、蘇らぬ。これが、この世の理ぞ。死者の身体を動かすこと、死者に言葉を与えてしゃべらせること。それはできるが、死者を生き返らせることは、できぬ……」
老人は、ここで眼を閉じ、少し哀しそうな声で言った。
「五つ目は、矛盾を含む願いじゃ。たとえば、どのような槍でも貫くことのできぬ盾を、貫くことのできる槍を所望されても、それは叶えられぬということだな」
「六つ目は、このわしが使える呪よりも大きな呪を持ちたる者、あるいはそういう力がかけられた呪を破ることはできぬということだな」
「――――」
「七つ目は、三つの願いのどれかで、願いごとのできる回数を増やすことじゃ。どうじゃ、よいか。心して答えよ、若僧よ――」
そして、青壺は答えていた。
腕で大きな輪を作り、
「これほどの大きさの桶の中にたっぷりと入った冷たき水を――」
そう言った。
言い終えた後、それは、まさに青壺の眼の前にあった。
老人の身体から放たれる青い光の中に、青壺が示したほどの大きさの桶が置かれていて、そこに縁まで満たされた水があった。
「なんと……」
青壺が口にしたのはそこまでだった。
青壺は、立ちあがり、桶に顔を突っ込み、喉を鳴らして、息の続く限り、水を飲んだ。
息をするため顔をあげ、ぜいぜいと呼吸を繰り返し、息が整う間もなく、また顔を水に突っ込んで、思うさま冷たい水を貪った。
それを、四度、繰り返した。
そして、そこにへたり込んだ。
右の拳で何度も口をぬぐい、荒い呼吸を繰り返した。
その呼吸の中で、青壺は考えていた。
次の願いを。
何がよいか、どうしたらよいか。
この老人が口にしたことは、本当だった。
ならば、次の願いを口にせねばならない。
それを考えるのだ。
もちろん、願いたいことはある。
それは、ここから出てゆくことだ。
“自分をここから脱出させてくれ”
がいいのか、脱出して、ゆきたい場所を口にすればいいのか、それがわからない。
秘密の出入口はあるのか、では、
“ない”
と答えられたら、それで、願いごとをひとつ使ってしまうことになる。
“ある”
と答えられても、それで、願いごとをひとつ使ってしまうことになる。
試してみたいことがあった。
それは、この破山剣を蘇らせることだ。
この破山剣、あの女を楽にしてやるために使えるかもしれない――そう思っていた。
そのためには、この破山剣の力を蘇らせる必要がある。
どこかに、方法があるはずだ。
その願いごとの答えが、
“そのような方法はない”
であっても、願いごとは、残りがまだひとつある。
青壺は、考え、そして、その願いごとを口にした。
床に転がっていた破山剣を左手で拾いあげ、
「この破山剣の力を蘇らせる方法を教えてくれ――」
青壺はそう言った。
すると、老人は愉快そうに、
「ふはははは――」
と大笑して、
「若僧よ、ここはどこだと思う? あの始皇帝の陵墓ぞ。ここには、世界中から、珍宝、秘宝が集められている。富を約束された胡の国の胡宝もあれば、天竺の琵琶、天竺の書であろうと、ないものはない。むろん、その破山剣の力を蘇らせる方法も、ここにはある」
そうして、老人は、その方法を口にしたのである。
そして――
残りの願いごとを、青壺は口にしたのであった。
「この地下宮に置かれた、金銀、玉などの宝物を、始皇帝の屍体を残し、ことごとく外へ運び出してやりたい。人知れず、ここのお宝を隠しておける場所は、どこかにあるのなら、そこへ、全てここの財宝を隠したい」
すると、また、老人は
呵々、
と笑った。
「ああ、あるとも。もちろん、あるとも。死したる始皇帝も、もしも蘇ったりしたおりは驚くことであろう。項羽が、再びこの地へ足を運んできても、財宝が消えていたら、魂消ることであろう。おもしろい。その場所は確かにあるぞ若僧よ。それは、大昔、羿が射落とした、太陽を運ぶ三足烏が落ちた場所じゃ。射落とされた九羽の三足烏のうち、八羽までは太洋に落ちたのだが、一羽のみ、地上に落下した。その三足烏の落下は、そこに、ひとつの穴を穿った。その後、穴は閉じたのだが、日食の日にのみ、その穴は開くことになっているのである。この地下宮の財宝のことごとく、その穴に隠してしまうがよい……」
そうして、事はそうなったのである。
(つづく)
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