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遣唐使・井真成に降りかかる数々の試練。旅に出た真成一行の行く手にあるものは? 夢枕 獏「蠱毒の城――⽉の船――」# 110〈後編〉

夢枕 獏「蠱毒の城――⽉の船――」は「カドブン」(https://kadobun.jp/)で配信中の連載小説です。
6/8未明から発生している大規模システム障害により、「カドブン」をご覧いただけない状況が続いているため、「# 109〈後編〉」以降を「カドブン」note出張所にて特別公開することとなりました。

▼ 前回のお話はこちら
「蠱毒の城――⽉の船――」# 110〈前編〉


夢枕 獏「蠱毒の城――⽉の船――」

# 110〈後編〉

 今は、このざまだ。
 それで、もう、このまま死んでしまってもいい、そう思っている。
 そこへ、声が聴こえてきたのだ。
 最初は、ちちちちち、という、鳥のさえずりのような声だった。
 しかし、それが、意味を持った声であると、だんだんとわかってきた。
「起きよ……」
 その声は、そう言っていた。
「起きよ……」
 そう言って、その声の主は、おれの名を呼んだのだ。
を開けよ……」
 眼を開けた。
 すると、そこに、そいつが立っていたのだ。
 二本の足で。
 ねずみだった。
 小さな鼠が、二本の足で立ち、おれの方を、黒い、光る眼で見ている。
 しかも、人のように服を着て、靴まで履いている。
 着ているのは、道士が身につける道服で、頭には、何やら冠のような、偉そうなものまでかぶっている。
「何、だ……」
 青壺は、唇だけを動かして、そう言った。
こう、と呼んでくれればいい」
「鼠公?」
「遠い昔、たわむれに、そなたらと関わった者だよ。わしは、めったなことでは人に関わらぬ。関わるとろくなことがないでな。しかし、見るに見かねて、関わってしまった。いったい、あの時、どういう気まぐれが働いたのか、それは、わがごとながら、自身も知るところではないのだがね……」
「―――」
「しかし、今は、関わってしまったことを、後悔している……」
「何のことだ……」
「あの女、今、我らの仲間になろうとしておる」
「何!?」
「それは、それでよい。しかし、その方法がすさまじい。人が、やってはならぬことだ」
 しかし、青壺には、それが何だかわからない。
「人が、どのような目に遭おうが、それで何人死のうが、それはそれでよい。しよせん人のやることだ。いいかね、人は、生まれた数だけ死ぬ。その原因が、病であれ、戦であれ、飢えであれ、死者の数にかわりはないのだ。人の世のことで、人が死ぬのはよい。しかし、それに、わしが関わってしまった。それは、いずれにしても、正しておかねばならない。しかし、このわしがその因を作ったとはいえ、わし自身が手を下して、それを正してしまっては、同じことじゃ。さらなる因縁がそこに生まれ、より、おかしなことになってゆく……」
「―――」
「であるから、わしにできるのは、それをそうとしている者を、手助けすることじゃ。そなたが、それを成そうというのなら、わしが、それを手助けしてしんぜよう」
「何の手助けだ……」
 青壺は、片手をついて、上体を起こし、月光の中に、した。
 どこかで、犬がえた。
「あの女を救う手助けじゃ」
「女を救う?」
「あの女は救われたがっておる……」
「救われたがっている? あの女が?」
「ぬしにはわかるであろう。ぬしならばな……」
「女が、死にたがっているということか――」
「その通りじゃ」
 鼠公はうなずいた。
「しかし、女は、それに気づいてはおらぬかもしれぬ……」
 酔った頭が、ゆっくりと、動きはじめていた。
 しかし、まだ、半分、世界は揺れながら回転しているようだった。
「そして、ぬしは、あの女を救ってやりたいのであろう」
「救う? それは、あの女を、おれが殺してやりたいと思っているということか……」
「救ってやりたいのであろう」
 鼠公は言った。
「救いたい……」
 たぶんそうだ。
 しかし、それよりも、何よりも、今は、会いたい。
 会って、女を抱きしめたい。
 それだけのような気もする。
 会って、何を言うか、どうしたいのか、それは、その時のことだ。
 ただ――
 抱きしめて、言いたい。
 おれが、一緒だと。
 おまえがどうなっていようと、おまえが何であれ、どうであれ、おまえのゆくところにおれもゆくと。
 それができたら――
 その後のことは、もう、どうでもいい……
「ぬしがやるべきことは、まず、剣を手に入れることじゃ」
「剣?」
ざんけん
「破山剣だって?」
「岩を斬り、山を斬り、人の心まで斬る。斬ろうとして、斬れぬものなどこの世にない剣じゃ」
「その剣を手に入れてどうするのだ」
「それは、そなたが決めることじゃ。わしが手助けするのは、そなたに、その剣のある場所を教えてやることだけぞ。剣を手に入れて、その後どうするか、それは、ぬし自身が決めることだ」
 鼠公は、そう言って、問うように、青壺を見つめたのである。

(つづく)

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