産後うつに注目した理由

なぜいじめは起こるのでしょうか。

中学1年の時にいじめを受けていた私は

「いじめをする人は共感能力が欠けている奴だ」

「相手の気持ちを理解できない、自分勝手な人間がいじめを引き起こす」

と、まるで自分が人の気持ちに敏感な人間であるかの如く断定してしまっていました。

しかし、次の年に、自分ではいじめではないだろうと思っていた言動が先生から「いじめ」であることを知らされます。私は全く人の気持ちに気づいてなかったのです。いじめを嫌っていた自分が気づくといじめの渦中にいました。

現実はもっともっと複雑なのでしょうが、当時の私は〇〇能力までたどり着くのが精一杯でした。もしかしたら共感応力、相手のことを考えることができないというのも、少しはいじめの要因として噛んでるでしょうが、それだけにいじめの要因を絞るのは浅はかかも知れません。しかし、思い込みというのは厄介で、そこから私は、コミュニケーションを通し、どのように人が共感能力を身につけていくのかに興味を持つようになりました。

以下、私が考えた仮説です。

仮説1:記憶を司るのが海馬であるように、相手の気持ちを感じ取る部分が脳にある。(遺伝で決まる説)

仮説2:人の気持ちの理解はそもそもできない。人は自分の思い込みで行動している。(そもそもない説)

仮説3:自分たちの「人間」という共通部分からインプットに対するアウトプットを般化し、行動に結びつけている。(環境で決まる説)

詳細はまた別で話すとして、この3つの仮説をもとに、人が共感能力を身につけるにはどうすればいいのか、何をすればその能力の向上を強制的に引き起こすことができるのか、を必死に考えました。(え、なんでそんなことをするのかって?自分がいじめられて嫌な思いをしたにもかかわらず、人のいじめを見て見ぬふりしてしまって後ろめたい思いをしたからです。)

そして、留学を決意します。

全ては大学生になったことで得られた自由な時間が無謀な挑戦を後押ししました。

暇(スコレー)が人を哲学者にすることは古代ギリシャから決まっています。

これが良い選択だったのかどうかはわかりませんが、私は、いわゆるコミュニケーション障害と言われる自閉スペクトラム症候群(=Autism Spectrum Disorder, ASD)と健常者の脳を調べたら解決できるんじゃね、という安直な考えのもと、今から約6年前の2015年にトビタテ留学Japan奨学金を使ってカリフォルニアのサクラメントにあるMIND Instituteで一年半勉強してくることを決めました。

ただ、現実は自分が考えてるようにはうまくいかず、通う予定だった研究室から1週間で追い出されたり、ビザ失効の恐れでカリフォルニア中の施設を彷徨い歩く羽目になったり、カリフォルニアで完結するはずだった留学がノースカロライナに行かざるを得なくなったり、散々な目をしてASDを勉強していました。

具体的にはUniversity of California, Davisで半年間の語学勉強、半年間自閉スペクトラム症候群に関わる様々な施設を見学した後、アメリカの南東部に位置するNorth Carolinaの中心部AlbemarleにあるGroup Home for Autism(=GHA)と呼ばれる施設で介護ボランティアをしていました。

そこでは多くの発達障害の子供、あるいは既に成人している人までが集まって職員さんと生活していました。うまく会話ができる人もできない人もいれば、一日中テレビやYoutubeを見ている人もいます。部屋にこもって出てこない人もいれば、活発に外に出たがり窓の外で散歩を待機している人もいました。彼らは皆家の中で毎日特に問題もなく過ごしていました。しかし、どんな人もお母さん(あるいはお父さん)が迎えにきてくれる時、家族と過ごすために実家に帰る時というものを一番楽しみにしていた、というのを鮮烈に印象づいています。

当初、健常者とASDの二つの脳の差異を調べる!と息巻いていた私はそれらが大学のパソコンから論文を読めば出てくることを教えてもらい、(当たり前ですが世界には約80億人がいるので大体何か思いついた時には誰かがやってます。)、人の脳を調べたところであまり意味はない、ことを知りました。

そして、以下の本を読み、共感能力を身につけるには「他人の世界を知る」ことだ、と一旦結論づけ、別のことを考えるようになりました。

それは「共感能力があってもなくても当事者が幸せならよくない?」

ということです。留学をしてよかったと思うことの一つは、自分の中で取り組む課題が変化したこと、と言えるかもしれません。

さて、「幸せとはなんでしょうか?」

私はAlbemarleでの経験から、人は周囲の人に理解されていなくても、家族が愛してくれさえすれば幸せになれる、ことを確信しました。私の中で幸せとは、居場所があること、なのかもしれません。

そこで、さらに幸せを考えるにあたって私は幸せ(=居場所)の最小単位を「家族」で考えるようになりました。

どれだけ大変そう辛そうに周囲から見えるとしても、母親(あるいは父親)が子を愛し、子が母親(父親)のことを好きであればそれは幸せなのではないか。とすれば、私がその幸せの単位を増やすためにできることは何か?

例えば、経済的困窮や身体的トラブルはその愛を阻害する一因になります。そこには行政や病院のケアが力を発揮するでしょう。それと同じように、またそれらではカバーしきれないような社会的問題を解決するために私に何ができるのか。

今日のテーマに入ります。

私が産後うつに着目した理由は、自分が守りたいと思った家族の絆形成が家族になる最も初期の段階で行われることを知ったからです。

これからの時代、産後に育児に参加できない男性に対する愛はなくなります。

これまでの、育児は1人でできるもの、赤ちゃんはお母さんが勝手に育ててくれる、といった都合の良い幻想はお母さんが自分の人生を犠牲に得てきたものです。今や4人に1人が産後うつと見做されるまでになりました。

現実はお母さんは育児疲れでうつ、あるいはうつに近い状態になり、子どもへの愛情が芽生えないまま、父親に対する淡い期待はなくなり諦念の中で生きていくでしょう。ひどい時には母親の自殺、虐待、子殺し、愛着障害の誘発、父親の産後うつ、など周囲へも影響が広がります。

この連鎖を断ち切り、子育てをもっと伸び伸び生き生きと、そして健康的な家族の絆が形成され幸せな家族が社会を満たすために私ができること

産後ストレスの軽減はまさにその一歩であると考えました。

「全ての家族がお互いを愛する世界」そんな世界の実現を目指します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?