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「孤独」からは逃げられない

はじめに

 孤独とは一体何だろうか? 物理的に一人でいることか? それとも、他者との交流が満足に為し得ていないことか? 新型ウイルスが流行し始めてから、私達はより一層この感情を身近に覚えるようになった。辛く、苦しく、何より寂しい時間。これだけ苦しいものなのであれば、その空虚さの果てに何かがあるのかと思ったこともあったが、希望に満ちた光明のようなものは、ついぞ見たことがない。

 結局のところ、私達は堂々巡りのように、孤独に苛まれ続けているだけなのだ。

 でもそれでも、このまま無条件に得体も知れぬ感情に、心を、日常を、人生を、振り回されるのは余りに虚しすぎる。そんな感情の奴隷のような生き方の先には決して希望など見えない。

 だから私たちは、今一度孤独について考えるべきなのだ。どう生きるにせよ、私達が単一の独立した存在である限り、感じてしまうひとしきりの感情を。

 たった一つの感情故に、語るのには少し大げさで、また冗長な気もするが、どうか真夜中の薄暗く光る豆電球をぼおっと眺めながら読んでくれると、私の伝えたいことが二割増しくらいで伝わる気がする。

孤独の解剖 準備編

 さて、感情という不可解で曖昧なものを推し量る場合、私達が最初にやるべきことがある。そう、そこから連想される言葉の持つ意味を調べることだ。今回は孤独という感情を調べるわけだが、そこに付随してくる言葉には一体どんなものがあるだろうか? 個人的なセレクトではあるが、いくらか書き出してみた。

「孤独」・「孤高」・「孤立」・「疎外」・「隔離」

 何ともまあ、物寂しさに満ち溢れたフレーズばかりである。思わず書いていて涙ぐみそうになったくらいだ。だがこれらの言葉群もすべてが一律同じ意味というわけではない。僅かではあるが、若干の差異がある。正直、全部十把一絡げにして「寂しそう!!!」と結論付けてしまえば、楽なのではあるが、今回の主旨を貫き通すためには、そんなことも言ってはいられない。ならばもう実際に調べてみる他ないのだろう。

 そこで、私は普段愛用している小学館刊行の大辞泉から、各々の言葉を実際に引いてみた。その結果を今から記していこう。

「孤独」(1)仲間や身寄りがなく、ひとりぼっちであること。思うことを語ったり、心を通い合わせたりする人が一人もなく寂しいこと。また、そのさま。「―な生活」「天涯―」(2)みなしごと、年老いて子のない独り者。「窮民―の飢ゑをたすくるにも非ず」
「孤高」俗世間から離れて、ひとり自分の志を守ること。また、そのさま。「―を持(じ)する」「―な(の)人」
「孤立」(1)一つまたは一人だけ他から離れて、つながりや助けのないこと。「敵に包囲されて―する」「―無援」(2)対立するものがないこと。「―義務」
「疎外」(1)嫌ってのけものにすること。「新参者を―する」(2)人間がみずから作り出した事物や社会関係・思想などが、逆に人間を支配するような疎遠な力として現出すること。また、その中での、人間が本来あるべき自己の本質を喪失した非人間的状態。
「隔離」(1)へだたること。へだて離すこと。「小さい私と広い世の中とを―している此硝子戸(ガラスど)の中へ、時々人が入って来る」〈漱石・硝子戸の中〉(2)伝染病感染者などを他の人たちから引き離して接触を避けること。「コレラ患者を―する」(3)交配の可能な生物集団が、地理的あるいは生理的・遺伝的な条件の違いによって交配ができず、また交配しても次世代ができにくくなり、遺伝子の交流が妨げられる現象。

 いかがだっただろうか? 単調な言葉のように思えて、実は意味は多岐にわたっているのが分かるだろう。中には寂しさ・孤独感とはほぼほ関係のない意味内容も載ってはいたが、それはさして問題ではない。とにかくまずは、太字で印をつけたところに注目をしてほしい。これが今回の「孤独」という感情の解剖において、必要不可欠なメス達だ。

孤独の解剖 実践編

 ただいま私達の両手には言葉の意味内容という世界を切り拓くためのメスがある。今一度そのメスをじっくりと呑み込み、感じてほしい。孤独という概念がもたらす数多の感情が体中を巡るだろう……って、え? 巡っているのは飲み込んだメスの方だって? いやいや比喩表現だって。実際に飲み込んだりなんかしたら、胃長の何処かにぶっ刺さって出血多量で死んでしまうよ……いや、例え比喩表現でも孤独なんかを全身で味わっていたら、それはそれで死にたくなりそうだが。

 まあ冗談はさておき、本題に入っていこうか。上記の言葉たちを見比べてみて私たちは最終的に、①主観的・精神的な孤独と②客観的・物理的な孤独の二つに大別することが出来たのではないだろうか? 勿論もっと詳しく見てみれば、それ以上に細かく分類することは出来そうだが、今回はあくまでこの2つを主軸に孤独感を掘り下げてみることにしよう。

 一つ目は【主観的・精神的な孤独】だ。寂しいと思ったときに感じる孤独。いや孤独だから寂しいのか? 何はともあれ、この孤独は単純明快にして、素直な孤独だ。そう、それこそ個人が個人の価値観で寂しいと思ったときに感じる孤独ともいえる。だからこの孤独には物理的な孤独さは必要ない。例え大好きなペットを目いっぱい撫でている時でも、クリスマスの夜に恋人と手を繋いでイルミネーションを見ている時でも、何かの手違いで寂しさを感じてしまったらそれはもうもはや孤独なのだ。

 二つ目は【客観的・物理的な孤独】だ。こちらはこちらで、一つ目にはない明快さがある。それは、世間もしくは他者から隔絶され、物理的に一人でいるということだ。実に分かりやすい。だから、この場合本人がいくら満たされた感情で完結された生活を送っていたとしても、本人は逃げようのない孤独と常に向き合っているわけであり、それを感じていないのは、ただただ内在する孤独感をも上回る何かしらがあるだけなのだ。見えていないだけで、孤独感は確かに心のうちに存在している。

 上記二項目を読んでみてどう思っただろうか? 一口に孤独といっても、見方次第ではどうやらこれほどまでに解釈を変えることが出来るようだ。なんともまあ、面倒くさい感情といえる。

 ただ、今回は説明のために相当例を極端にしたという手前、実際に上記のような状況の孤独が存在するとは必ずしも言えない。それでも、可能性はゼロではない。ある程度の蓋然性がそこにはある。故に私たちは常に何処かで孤独という感情を日常に溶け込ませながら、側に忍ばせながら生きているのだろう。

孤独の解剖 結論

 さて、ここまで孤独を主観的且つ客観的に分析をしてきたわけだが、今一度一番最初の疑問・命題に立ち返って考えてみよう。

 そう、「孤独とは一体何であろうか?」 という疑問だ。

 折角冗長に意味内容まで調べ、尚且つ種類分けしたのだ。どうにかしてこの曖昧な概念・感情を明文化したいところ。

 そこで、私はこの結論付けに際して。最後にある一文を導き出した。幾度の推論や、意味内容に煩悶し、得たモノだ。正直自身の思考力や言語力が足りていなかったせいで、未だ曖昧さは拭いきれないままだが、それでも、比較的簡潔にはまとめられた気がするので、良ければ聞いてくれると嬉しい。

 つまるところ、”孤独とは、他者と社会との繋がりようによって顕現し、そして時には鳴りを潜める辛さ・苦しさ全般の事なのではないか?”

おわりに

 上記の結論を踏まえて、私はひどく落ち込んだ。自己解釈で落ち込むだなんて、本末転倒ではないか。でも実際に落ち込んだ。虚無感を覚えた。何より、救いなんてものはないのだと、絶望した。

 あー大げさすぎるって? そうか、いやそうなんだろう。自分でもわかってはいるさ、一介の感情にここまで動揺させられるだなんて。それこそ、私がこの孤独感を分析しようと思ったのは、ひとえに感情に人生を狂わされないためだったからな。それが、こんなにも書いていて動揺するのであれば、最初からするべきことではなかったのだろう。

 でも、実際に考えてみればわかる。私たちはどう生きたって孤独というものからは逃げられない。当たり前だ。だって、私達は社会性を身に着けてしまったから。自己以外に他者がいることを当たり前のように認識しているから。どれだけ自分の世界で充実した思いをしていても、その外に自分だけでは認識しきれない社会があることを心の何処かで知ってしまっているから。

 私たちは、どうにも中途半端に社会性を身につけてしまったようだ。他者と関わる事を是としてしまった。

 だからこそ、私はふと思うのだ。もし、真っ白で、自分以外誰もいないような部屋で生まれ育ったら。他者という存在を一切認識することなく、育つことが出来たのなら。

 不謹慎なことは分かっている。それが人道的に許されないことも。

 でも、私は人が孤独という感情から脱するためには、もはやこうして最初から他者や社会との繋がりを断ち切って生まれてくるしかないのだろうと、思わずには……いられない。


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