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私にとって、言葉とは

#ことば展覧会 に寄せて

これはこの記事の続編になります。

私にとって言葉とは、世界を捉え、表現するための手段。

私は日々、物事やそれを捉えた自分の感性に一番ぴたっとくる言葉を探す。それはとてもエキサイティングな仕事。趣味か遊びのようでもあり、その中にこそ人生があるとも思える。

言葉を探し、選ぶことは、世界を見つめることであり、自分自身をみつめることでもある。しかし、瞼の裏に残る光の残像のように、目で追おうとすると消えてしまい、本当のど真ん中は、いつも見えない。

生まれた言葉は、そぎ落とし、磨いていくほどに、その事象の輪郭にしっとり沿うものに変化するが、生まれたての新鮮なざらざらした断面のほうがかえってそのものの本質をすっぱと切ってさらけ出す、一つの断面であるのかもしれない。

その時の感性で紡ぎだした言葉は、決まって、時間が過ぎてから読み返したときにはもうしっくりこなくなる。みなさんもそうだろうか。私の推敲が足らないからだろうか。言葉が古くなっていくのは、発した「わたし」が歩き続けているせいなのだろう。

世界の物事はすべて、シンプルに存在しているのだと思う。複雑な存在など一つもなくて、ただシンプルに存在し、シンプルに、そうであるだけ。それを言葉で理解するのに、ぴったりな言葉がないためにいくつも重ねなければならない事象が、「複雑」に見えるだけ。物事を、言葉でなく理解するのは「悟る」というのだろう。

言葉と言えば、この人・・・、「言葉おばさん」の私の母

ところで私の母は、趣味としてエッセイを書く人であった。数年前に閉刊したが、長年にわたり仲間たちと同人誌を出し続けた。その継続はすごいなと思う。私は一度だけ頼まれて寄稿したことがあった。同人になることを誘われもしたが、子育てに忙しかった私は定期的に書く自信がなかった。

そんな母は自分のことを自ら「言葉おばさん」とあだ名しているだけあって、言葉にはうるさかった。研究者であった父も言葉の選び方にはとっても慎重な人で、よく二人で言葉についていつまでも議論しあっていた。それを当たり前の光景として育った私は、もちろんそれが当たり前ではないことに大人になって気づき、私の身の周りの人たちが言葉にそれほど興味がないことを悲嘆し、両親の関係を羨んだものだった。

「言葉おばさん」な母の誕生日プレゼントに、一方に「ことば」もう一方に「おばさん」と名入れした箸を贈ったこともある。名入れ文字のセンスとしてはどうかと思うけれど、もらった母はたいそう気に入ってくれた様子だった。

母とは今でも、「言葉」に関することでふと連絡をすることがあるが、他の要件よりもすぐに返事が来る。母という人の中身を知りすぎているためだろうか、私は母の文章のファンというほどではない。しかし彼女の表現人生がどこへ行きつくのか、少しは興味を持って見ている。

私は「言葉おばさん」の娘であった。

私は言葉への思いを息子の名前に込めた・・・

私には3人の息子がいるが、次男の名前は私がつけた。

私は次男の名前を、「言葉」を「耕す」で「耕詩」または「耕詞」とつけたかったが、「耕」も「詩(詞)」もどちらも左右に分かれる字の造りをしていて見た目にバラバラ感があり、ぴんと来なかったので、「耕史(こうし)」とつけた。「言葉を耕す」はずが、「歴史を耕す」と、だいぶ大きくなった。

息子に「こう生きてほしい」と願うほどに、「言葉を耕す」ことは、私にとって生きることに他ならなかった。

自閉症スペクトラム障害を持って生まれた次男については、noteの自己紹介記事よりも前にフライングで書いたこちらの記事に最近の様子を綴っている。


そんな次男の言葉との付き合いは、やはりどこか独特かもしれない。幼いうちは語彙を順調に獲得していったので発達の遅れを感じられなかったが、それが一向にキャッチボールになっていかないことに「変だ」と気が付いたのが2歳過ぎてしばらくしてからだった。そのことが、3歳児検診という早い段階で自閉症スペクトラムの診断を受けるに至った一番の要因になったけれど。

その後、口から言葉が出ない人の脳幹から、思っていることを言葉として紡ぎだす「指談」というものに出会ったり、彼自身の言葉がだんだん育ってくると、例えば「食べる」ことを「食う」って言うのは嫌とか、「緊張する」という言葉は使わないで「ドキドキする」と言ってほしいなどというような「言葉狩り」が激しくなったりなど、様々な時期を経てきた。

思春期真っただ中の今の彼は、新鮮に言葉と出会いながら、世界への認識を深めている。彼の穢れない感性から発せられる言葉には、息をのむことがある。

そして、たどり着いたnote

話すことが壊滅的に苦手な私にとって、文字で綴ることは比較的得意分野で、命綱でもあった。しかし、「上には上がいる」という思いから、日々の必要を満たす以上には追求をしてこなかった。追求すればこんなに楽しく、魂が喜ぶ、ということにnoteを始めて改めて気がついたのだった。

物事と対峙して言葉を紡ごうとすることは、私を成長させるが、より豊かに高次に紡ぎあげられた言葉に触れることは、私の内面を耕し、引き上げてくれる。そのことに気づいたのもnoteを通してであった。いかに私は、作品レベルの文章を読んでこなかったのだろうか。

そんな私が、ずっと後回しにしていたnoteを始める後押しをしたのは、思いがけないきっかけ、「ノンフィクション小説を書こう」だった。

大変だ。書き方も分からなければ、小説もこれまでほとんど読んで来なかった!

膨大で良質なインプットと、あまり考えこまずにこまめなアウトプットを。

楽しい修行の始まりです。


もうとっくに締め切られているこちらの企画を見つけての、独り言でした。

みなさんのすばらしい作品はこちらから読めます!!


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