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本当に『ねこに未来はない』のか。

『ペンギンの憂鬱』『カモメに飛ぶことを教えた猫』と、なんだか動物モノがつづくなぁ、と思っていたら『ねこに未来はない』(長田 弘著)である。

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ユング先生、これは、あれですか、シンクロニシティ。それとも本の魔力?

僕は猫と暮らしたことがありません。
嫌いなわけではないし、その“生き方”にはシンパシーを感じています。
つまり、猫のように勝手気ままに生きるってかっこいい!と思っているのです。

遠くで暮らす妹のまわりにはいつも猫や犬がいます。
最後に飼っていた老犬が母の膝で息を引き取り、母が妹に抱かれて旅立ってからは、もう、犬も猫も飼わないと言っていたのに、“リン”と名付けた迷い猫と暮らして6年が経ちます。

家人も相当な猫好きですが、飼えばいいのに、といくら水をむけても、「猫がいたら外出なんかしなくなる」とか、「もう年齢的に飼うのは無理だから」と答えはしりすぼみです。
確かに、僕らの歳では保護犬や猫の譲渡は無理なんだろうな、こんな時に年齢を実感させられますね...

さて、『ねこに未来はない』のお話です。

表紙のイラストは、大好きな長心太さん。こんなねこがいたら是非お近づきになりたい、なんて思いながら、長田弘さんが考えたタイトルが“ねこの未来”だし、表紙も挿絵も長心太さんと来ると、きっと、ねこ嫌いの「殺ねこ鬼集団」が国中のねこを一網打尽にして殺してしまう話なのだろうか、とか、「ねこ族教」の教祖様が天啓にしたがって、みんなを引き連れて海へ、海へと猛突進してしまうような話か、なんて想像してみたり。
見当外れもいいところでしたが。

本作は、雑誌『新婦人』の1968年1月号から69年6月号まで連載されたもので、主人公は、新婚ほやほやの長田さんと奥様のような若い夫婦です。

洗面所が共同の六畳のアパートは、それでも日の当たる楽しい我が家。

―結婚してはじめての胸おどる朝食、目玉やき二コとつめたいミルクとやきたてのバタつきパンのおいしそうな匂いをまえにして、なりたてのほやほやのおいしそうな奥さんは(中略)「ねえ、わたしたち、なによりもまず、ねこを飼いましょうね」―

と、早々に宣言。
こうして、ねこ嫌いのぼくと、はじめてねこを飼う奥さんと、麻雀好きな詩人の先輩から貰ってきた“チイ”(ポン、ロン、チイのチイです)の生活がはじまります。

ところが、アパートに動物を飼えない決まりがあったり、共働き夫婦の昼間の不在などが重なって、ある日チイは出て行ったっきり帰ってきません。
食卓にチイの好物を並べてひたすら帰りを待つふたりだったのですが、

―いまとんで戻ってこないならば、もうチイは戻ってこないだろうことを、ふたりとも知っていたのです。
さびしい夕食でした。ぼくがねこをほんとうにしたわしい存在に感じたのは、チイのいなくなったその夜のことでしたー

人生って、本当にままなりませんね。
サヨナラの後になって、やっと愛おしさがやってくるなんて。

ふたりは、ねこのいる暮らしをあきらめません。すぐにねこ可の家に引っ越し、電柱に≪かわいい仔ねこください、きっとかわいがります≫という小さな貼り紙を出します。
すると効果テキメン!近所に住む“ねこおばさん”が生まれたてのかわいい仔ねこを見せにやってきます。これが二代目チイです。

猫を飼ったことがない僕はちょっとびっくりしました。
ふたりはチイ用のミルクを口に含んでひと肌にしたり、焼き魚の身も咀嚼してから与えていたり、人間の赤ちゃん同様の慈しみをみせる姿に感涙ものの共感を覚えるのでした。

やがてチイも妙齢、女盛りとなって仔ねこを産みます。残念ながらクマと名付けた仔ねこだけが生き残りました。
それでもふたりは“あんか”のようにあったかい母子と幸せに暮らします。
が、好事魔多し!
初代チイのように二匹そろって消えてしまいます。
このときは町内のねこの半分がおなじように消えてしまい、近くの大きな放送センターの技術研究のモルモットねこにされたとか、お定まりの三味線の皮説が飛び出したりします。

いっこうに真相が解き明かされないまま1か月と10日がたったころ、ねこおばさんが運んできてくれたのが三代目となるジジでした。
元気いっぱいの少年ジジは、怖いもの知らず、掟知らずに動き回ります。
そうなると町内の古参ねこたちは面白くありません。
ついにジジは深手を負います。親切な獣医さんに手当をしてもらいひと安心。
治療が終わって獣医さんはこう言います。「三日もすれば、かなり自由に歩けるようになりますがね、ほんとうはそのころから一週間ぐらいがいちばん危ない。体力がないので、外でまたすぐ咬まれてしまうことがおおいのです...」
獣医さんの心配は的中してしまいます。
ジジは、大家さんの玄関脇の溝で死んでいたそうです。

物語が終わりに近づくころ登場する脳医学のえらい先生によると、
<ねこには未来というものがない、なぜなら、ねこには未来を知覚する能力がないから…>
ねこには未来を感じる前頭葉がないのだから、未来もないのだ、と。

「ねこに未来はない」は、「ねこには、もともと未来はない」だったのですね。

うーん、そうなんでしょうか。
まず、猫の名誉のために言っておきますが、猫にも前頭葉はあります。ただ、犬に比べるとちょっと...というだけです。

あなたとねこが暮らしてきた歳月。
部屋中、わちゃわちゃだったり、おしっこが匂ったり、温かかったり、行方をくらましたり、それでも猫がそばにいてくれた時間は確かに存在していました。
そして、いってしまった猫たちの姿や、思い出が、あなたのこころの奥底にあるかぎり、“ねこに未来はある”、そう思うのです。

文庫版も出ていますから、是非!

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