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謹呈「弥勒シリーズ」最新刊『花下に舞う』(あさのあつこ著/2021年3月31日・光文社刊)

ぞくり、とさせるのは信次郎なのか?著者なのか?それとも、われらひとなのか?

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いっきに読み終えた。
もう一度、浚うように読み返した。
ぞくり、と来る。 

あれっ、下手人はこいつか、と謎解きのとば口を捕まえたと思ったら、  そいつはするっと見事に消えてなくなる。

今度こそ、と思ってもいつの間にか四周を高壁に囲まれて身動きひとつ出来ない。

そんな繰り返しが続く。

木暮信次郎は、飛び切りの同心だが、自分をお上などと思ってはいない。
ただの“人殺し”、“ひと死”には目もくれず、欠伸ひとつ残してさっさと消える。生きることに退屈しているのだ。

信次郎が本気になるのは、ひとがその身に潜ませた鬼や蛇を解き放った時。
そして小間物屋・遠野屋清之介に向き合った時くらいだろう。
清之介は、実の父親がおのれの権勢欲を満たすため殺人マシーンに育て上げた凄腕の暗殺者。二人とも異形である。

あさのさんは、シリーズとなる前の第一巻『弥勒の月』を書き終えて、自らが造形した信次郎と清之介のことがよく解らなくなったとぼくのインタビューに答えている。
そして、だから書き続けているのだとも。

前作『鬼を待つ』が文庫化されるにあたり解説を書くように仰せつかった。
解説ではなく著者へのファンレターでよければと引き受けた。
ぼくは、そこにこう書いている。

―容赦のない尋問によって信次郎の手札が一枚、また一枚と揃いはじめる。謎解きの答えはぎりぎりまで信次郎の中で熟成しつづける。       伊佐治も清之介もその瞬間を待つしか手がない。それは私にしても毎回同じなのだが、それもこのシリーズを読む楽しみのひとつなのだ。

そうなのだ。
信次郎の手元に伊佐治親分が掘り起こし、かき集めてきた謎解きパズルの欠片が揃うのをいつも待っている。

じりじりしながら、清之介も、伊佐治も、ぼくも、ひとか鬼なのか、もののけなのか、信次郎があぶり出し、ほらよっ、と目の前に放り投げてくれるのを、よだれを垂らしながら待っている。自分のなかにも潜んでいるそいつを待っている。

それにしても、本作は最後の最後まで待つ身の三人を、まるでいたぶるように待たせてくれた。

もう一度読み直す。

その解説に、こうも書いた。

―(嵐の夜、信次郎の役宅で伊佐治と話し込む場面)ふっと頭に浮かんだ。信次郎の母親は、どんな人だったのだろうか。こんな時、丁寧に淹れたお茶を二人の前にそっと置いていってくれる。その人は、弥勒のような人だったかもしれない。

信次郎が幼い頃亡くなった母は瑞穂といった。             舞の名手だったそうだ。
ぼくは知らなかったのだが、本書にその瑞穂が登場する。
弥勒なのか、そうではないのか、いまのところ定かではない。

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