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異語り 096 禁足地

コトガタリ 096 キンソクチ

20年ほど前、北海道の阿寒湖畔の土産物屋でアルバイトをしていた。
温泉もあり、ホテルも多い観光地なので日中よりは夕方から夜が来客のピークになる。
たまの休みに自然豊かな公園内(阿寒湖周辺は国立公園)を散策する時はとても静かで過ごしやすかった。

自然散策のツアーやトレッキングコースもあったけれど、時間やコースをずらせば簡単に大自然を貸切にできてしまう。
ビジターセンターでは周辺の地図などが無料でもらえ、徒歩で行ける程近いスキー場を登れば、阿寒湖が見渡せた。
湖には遊覧船や貸しボート、釣りポイントなど都会から来た者には魅力的なアクティビティーが山のようにあり、とても1日では体験しきれない。

阿寒湖畔が特に賑わうのは、ゴールデンウィークから秋頃まで。
土産物屋に住み込むのは約半年ほど。

初めは目移りするほどの大自然も、数ヶ月もいるとメジャーどころは行きつくしてしまう。
そうなると一日に数本のバスに乗って釧路や北見の街に出るか、本当にあまり人の入らない獣道へ足を伸ばすか……

広大な国立公園なので野生動物も普通に出没する。
もちろん熊などの出没情報はすぐに周知されるが、鹿やキツネなどは観光客が遭遇して大喜びするぐらいで生活している者たちには珍しくもないような環境。

自然を愛でるためにしっかりした遊歩道も作られていたけれど、大部分はちょっと分かりやすい獣道レベルの山道のような感じなので、天気が悪い時や遅い時間などは本気で遭難する危険もある。

だからこそ、自分だけのお気に入り散歩コースを探すのもそれほど苦労しない。

その日の休みはぼっち予定だったので、湖畔に沿って行けるところまで行ってみようと思い獣道を歩き始めた。
年に数度はマリモの調査やアイヌの儀式のために人が通っているはずだけど、夏草の成長速度は速いらしく道は埋もれかけていた。


数十分ほど歩くと、周り全てから人の痕跡が消えていた。
少しずれれば目印用のテープなどが木に付けられているのが見えはずだけど、その時自分が足を止めたところからは右手に湖、前後左は深い森だけが広がっているように見えた。


少し気温が下がったような気がする


水筒から水を一口含んで、まら歩き始めた。


数分も行かぬうちに森の色が変わった気がした。より濃く、深くなったような……

鮮やかな新芽もあちこちにあるものの、視界が重く感じられる。


パキンッ

パキンッ


薮を踏む音が聞こえ、ギクリと足が止まった。


熊に遭遇した時の対処法を脳内に展開しながら、音源を探す。



湖のそばの苔むした巨木の陰から大きな鹿が現れた。

ホッと詰めていた息を吐き出す。
距離にして、10メートルも離れていない。すごく近い。

毛並みや角の模様まで見えた。


とても立派な角を持った大きな雄鹿がこちらを向いて立ち止まる。

静かな目で見つめられ、再び呼吸を忘れそうになった。


雄鹿のはいた息がものすごく大きく聞こえた。

その瞬間、ぶわっと圧を感じるほどの風が吹き抜けた。


反射的に思わず手を合わせ深く頭を下げていた。


その状態でじっと固まる。
サクサクと下草を踏む音がして、雄鹿は森の奥へと消えていった。


調子に乗って少し奥まで入り込みすぎたのかもしれない。

多分この先は人間の世界ではないのだろうと感じた。
何もいなくなった森にもう一度頭を下げてきた道を引き返した。

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