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調子が悪いときは銭湯に行く

私は調子が悪くなると銭湯に行く。
5年ほど前、仕事になじめずこの先どうしたらいいかわからなくなっていたときも、毎週のように銭湯に行っていた。
銭湯でお湯につかることでどうしようもない現実から少し距離を取ることができる。
現実から切り離された避難所のような場所を「アジール」と呼ぶらしいが、私にとっては銭湯がまさにそんな場所だった。
服を脱ぐことで一時的に社会との縁を切り、動物のように何も考えずただお湯に浮いていれる場所。
そんな銭湯でゆっくりすることで、また数日間をなんとか過ごせるようになった。

「何も考えない」
調子が悪いときはその時間が必要なんだと思う。
悪い思考がまた悪い思考を呼ぶ無限ループの嵐から、なんの思考もない無風地帯に避難する。
そうすることで身体もほぐれるし、自らの思考を客観的に見る余裕が出てくる。

最近、私は夜な夜なwiiをプレイしている。
任天堂の数世代前のゲーム機の、あのwiiである。
ゲームがしたくなったがswitchを買うお金はなく、とりあえず実家に眠っていたwiiを取り寄せたのだ。
数世代前のゲーム機ということでソフトが安くなっており、「ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス」「ゼノブレイド」といった往年の名作をメルカリで数百円で買い、壮大な物語に身を浸しながら数多の世界を救ってきた。

子どものころは純粋に楽しむためにゲームをしていたが、今はちょっと違うように感じている。
楽しむという目的ももちろんあるが、それ以上に何も考えないようにするため、という目的がある。
ゲームに夢中になっている間は、煩わしい現実のことを何も考えずに済む。
つまり、ゲームにも銭湯と同じような効果があると思う。

そんなことを考えていたら、古本屋で『テレビゲームと癒し』というそのものずばりな本を見つけたので、さっそく買って読んでみた。
なるほど、中にはこんなことが書いてある。

つまり、ゲームをするということによって、心は大まかに次のふたつのプロセスを踏むと考えられるのです。まず、ある世界に暖かく迎えられ、「自分が受け入れられている」という体験をする。それからゲームそのものに没頭することによって、「新しい世界への強い参加の感覚」を味わう。
受容と参加。しかも、現実の生活では体験できないほどの強さで、それらを実感する。
テレビゲームが持つ心の癒しの機能とは、プレイヤーがこのふたつの強い感覚を、直接、与えられることなのです。

『テレビゲームと癒し』

仕事をしていると、まるで社会から拒絶されているかのように、理不尽なことばかりが起きる。
そして、社内の人間関係にも疲れ果て、「誰も私のことをわかってくれない」という気持ちにさいなまれる。
それがゲームの中では、主人公として世界から必要とされ、「魔王を倒す」という目標に向かって信頼できる仲間と旅をすることができる。
思い通りにいかない現実から逃避し、受容と参加を与えてくれるゲームの世界に身を浸す。
その経験こそがまさに「アジール」となり、癒しにつながるだろう。

さて、銭湯通いを続けるうちに、サウナと水風呂にも入れるようになった。
サウナはすごい。私は脳疲労、眼精疲労、肩こりによく悩まされるのだが、それらがまるで体から溶け出すように解消される。
熱い密室でおっさんたちが身を寄せ合い、じりじりと肌を焼きながら、どうでもいいテレビをぼーっと見つめる。
なるほど、確かにサウナの中にも奇妙な一体感があり、「受容と参加」の要素があるのかもしれない。
人生が長くなってくると、そんな自分なりのアジールが増えていく。

生きていくのは確かにしんどい。
ここまで文明が発達しているのに、どうしてこんなにつらい思いをして働かないといけないのかわからない。
そんな中をときどき自分なりのアジールに立ち寄りながら、なんとかやっていくのである。

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