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本という善良ぶった劇薬について

今年の7月に芥川賞を受賞した『ハンチバック』を読んだ。
のっけから性的な描写が登場し、面食らった。
読み終えるころに感じたのは、本という媒体における表現の自由さである。

昨今、「テレビがつまらない」という言葉をよく耳にする。
それは、テレビがマスメディアであり、できるだけ多くの人に見てもらわうことを前提として作られているからだと思う。
それはつまり、表現の幅を狭めることにつながる。
例えば、先に挙げた性的な描写など、今では深夜テレビでもお目にかかれなくなった。

それに比べて、本である。
のっけから性的な描写全開の作品が、最も権威のある賞を受賞するのである。
本は表現の多様性が最も認められている媒体だと思う。
一人で、低コストで作れるため、スポンサーの意向を気にする必要がない。
年間約7万冊もの本が出版されているため、他の本との違いが求められる。
読書という行為自体、本と読者、一対一の世界で完結する閉じられたものである。
本という媒体は、その性質からして多様性を前提としているのである。

よく大人が子どもに「本はいいもの」として勧めている場面を見かける。
それは喜ばしい場面ではあるが、同時に悲しさも感じる。
本は決して”いいもの”なんかじゃないからだ。

私は『恋は雨上がりのように』というマンガが好きなのだが、その中にこんなセリフがある。

文学ってのは毒なんだ…
こんな大衆に媚びたクソみてぇなモンじゃなく…

『恋は雨上がりのように』

私はこのセリフが本という媒体の本質を表しているように見える。
私は、本というのは”善良ぶった劇薬”だと思う。

そんな本を、大人から「いいものだから読みなさい」なんて買い与えられたところで、子どもは嘘の匂いを嗅ぎ取って興味を失くしてしまう。
そして、「本=大人がすすめるダサいもの」という認識になり、読書からしばらく離れてしまうだろう。
それよりも、「本は毒で劇薬だから読むかどうかは自分で決めろ」と言ったほうが、よっぽど読みたくなると思う。

最後に『ハンチバック』を読んで、私がくらった毒を紹介してこのnoteを終わりにしたい。
障害者の主人公が、厚くて重い紙の本を読むのに苦心する気持ちを表した一節である。

アメリカの大学ではADAに基づき、電子教科書が普及済みどころか、箱から出して視覚障害者がすぐ使える仕様の端末でなければ配布物として採用されない。
日本では社会に障害者はいないことになっているのでそんなアグレッシブな配慮はない。
本に苦しむせむし(ハンチバック)の怪物の姿など日本の健常者は想像もしたことがないのだろう。
こちらは紙の本を1冊読むたび少しずつ背骨が潰れていく気がするというのに、紙の匂いが好き、とかページをめくる感触が好き、などと宣い電子書籍を貶める健常者は呑気でいい。

『ハンチバック』

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