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デジタル全体主義を乗り越えるために

フィルターバブルに閉じ込められた私たち

オンライン環境がインフラと化した世界に生きている我々は常時オンラインに接続された状態におり、オフラインとオンラインの境界線が溶け合った現実を形成している。

その様な現代においては、主体性を伴った主観的な選択をするということが相対的に希薄化している。「自分はこの選択が良い」と実感に基づいた判断の機会が減少しているのだ。会ったこともない誰かがネットワーク上で良いと言ったコト、モノ(果たして本人が実感に伴って良いと言っているのかは別)に基づいた判断を下す、あるいはアルゴリズムによる提示されたコト、モノを選択するという機会が増加。

フィルターバブルと呼ばれる、いわばインターネットに閉じこめられた状態を『閉じこもるインターネット』著者イーライ・パリサーが次のように論じている。

新しいインターネットの中核をなす基本コードはとてもシンプルだ。フィルターをインターネットにしかけ、あなたが好んでいるらしいもの——あなたが実際にしたことやあなたのような人が好きなこと——を観察し、それをもとに推測する。わたしはこれをフィルターバブルと呼ぶが、その登場により、我々がアイデアや情報と遭遇する形は根底から変化した。

過去の検索履歴に基づいた広告が出てくるのであればまだわかりやすいが、検索している情報そのものが、過去の膨大なデータによってフィルターをかけられたものであったとしたら、もはやそれに気づくことさえ困難だ。なぜそれを選んだのかと自身の意思を確認するまでもなく、瞬時に提示されたコト、モノに対して欲望が喚起される。パリサーは、フィルターバブルによって大きく3つの問題が生じると指摘する。①ひとりずつ孤立しているという問題 ②フィルターバブルは見えないという問題 ③フィルターバブルは、そこにいることを我々が選んだわけではないという問題だ。現実として、自身の意思とは反する形で物理空間に閉じ込められている(例えば部屋に閉じ込められる)というのであれば大変な問題であるが、身体的には自由でありながら、サイバー空間に閉じ込められているのが問題の根深さだ。

20世紀型とは異なる現代の全体主義とは

全体主義とは、私的な領域と公的な領域の境界線が破壊されている状態を表す。人々の内面という私的な領域を支配することにあった。かつての全体主義の体制の例を出すと、中国の文化大革命や戦前の日本の全体主義、ナチスドイツの独裁体制などだ。これらの体制下における特徴としては、特別警察による思想信条の調査や密告の奨励などが典型だ。子供は親を告発し、誰もが教師や隣人を告発する様になった。公的な権力が私的な領域に浸透していった。

今進行している全体主義の核心はデジタル化である。つまりテクノロジーそのものとそれを操るGAFAを代表格とするソフトウェア企業群が全体主義的な「超帝国」を形成している。

今日では、私たちは自発的に私的な領域をさらしている。世界中の人々が、SNSを通じて、自分のプライベートな事柄をネット空間に直接的かつ瞬時にアップしている。人々は自分のやっていることを写真や動画に撮り、それらをTwitter、Facebook、Instagram、TikTokなどのソーシャルメディア上に公開する。人々が自ら進んで公と私の境界線を破壊して喜んでいる状態なのである。

デジタル全体主義時代の消費

差異は資本主義の基盤である。「ここではないどこか」や「ここにはない何か」等といった現実との時間的・空間的な差異を喚起させて人々を消費に駆り出す。

人々は差異を生み出し、それを消費するサイクルを永遠に回すことを求められています。ところが、現代の資本主義では差異の過剰消費に苦しんでいて、次々に無理に差異を作り出しては、廃棄しています。

世の中は、モノで満たされる様になったことで資本主義はコトに向かう。違いを作り出し、それを経験する出来事自体が差異として消費される様になった。「ここではないどこか」という幻想を追い求める資本主義の象徴的な事例がこれだ。

なぜエコノミークラスの席にたどり着くために、ビジネスクラスを通過しなければならないのか。それは、その結果、エコノミークラスの人々がビジネスクラスの人々が乗りたがる様になるためです。「きっとあの乗客たちは・・・・」とビジネスクラスのサービスを想像して、刺激されてしまうんですね。それに対して、ビジネスクラスの人は、自分たちのステータスを誇らしく感じ、エコノミークラスの人たちを貧しい人々だと見下すようになります。しかし、その一方で、ファーストクラスというのは、ビジネスクラスやエコノミークラスからは見えないんですね。ここでは見えないことが、差異を生んでいます。それによってビジネスクラスの人は、ファーストクラスに憧れを抱くわけです。では、ファーストクラスは頂点でしょうか。そうではありません。彼らは、プライベートジェットを持っていないからです。そのため、ファーストクラスの人もプライベートジェットを持っている人からは、差別されている様に感じるのです。

この様に、消費を通して「劣等感を埋め合わせる」ことや、「優越的地位を獲得する」という承認欲求と結びついたコトがあらゆる局面で起きている事象であろう。そして「ここではないどこか」という幻想領域は、上に記してきた様に、フィルターバブルやデジタル全体主義によって益々加速して行くばかりだ。

モノに溢れ、選択肢が多様になった中で常に「満たされない私たち」であり続けることを強いられている。

デジタル全体主義を乗り越えるを考える

全体主義の社会では人々は単なる「群れ」として扱われる。私たち一人ひとりがどのような人間であるかは無視され、「その人」としては扱われない。テクノロジーの進化により、あらゆる面での快適さが増大していることは否定しようが無い。ただし、無自覚にそこに身を委ねるということはアルゴリズムによって私たちがコントロールされるということを許容するということである。自己の存在根拠の希薄化が進行している現代、その根拠をデジタル領域に求め、その幻想から抜け出せないことに起因し、精神の領域が危機的状況に晒されている。デジタル全体主義を乗り越えるためには、デジタル全体主義の及ばない場所、すなわちオフラインにおける価値を認識し身を置く必要がある。他者とともに形成された自らの経験、予定調和ではなく偶発的なパーソナルな体験を「主体的に選ぶ」というある種の快適さから抜け出た時間と空間にこそ自己の存在根拠があるはずだ。

※参考文献


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