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野球小僧がドロップアウトしてから音楽業界で働くようになるまでのお話を書いてみる。
最近電源もwifiもあって快適なので上島珈琲によくお邪魔するのですが、そこでたまたま就活生の女の子2人組が僕と向き合うように座る形になりまして。あれやこれやと就活の話が必然的に耳に入ってくるんですけど、とにかくキラキラしておりました。
自分は10数年音楽業界で働いたり会社作ったりしてからの、1年は休もうと思って会社を辞めてもうすぐ半年。まだしばらくお休みモードなのですが、まさに人生の岐路にある若いひとたちを目の前にして、なんとなく次のnoteは自分の経歴でもまとめてみるか…と思って書き始めてみることにします。
記憶が合ってるか定かではないくらい昔のお話。たぶん長くなる☚(꒪ټ꒪☚)
僕が生まれたのは横浜の色街にほど近いエリア。
横浜といっても、まだみなとみらいは存在してすらなく寿町には日雇いの人たちがたくさんいてホームレスや船に住んでる人もまだいた時代。
昼間から営業している飲み屋、合法・違法が混在する風俗店。
後に日本を揺るがす大事件を起こすことになる新興宗教団体の支部。
銭湯に行けば彫り物がしっかり入ったその筋の方々とだいたい一緒に入る。
そんな”おしゃれ”という言葉とは無縁のディープな横浜エリアに生まれ育ち、マーチングバンドに所属していた6歳離れた兄の影響から「銀色のトランペットを吹く!」と言っていたのに、なぜか家族親族見回しても誰もやっていない野球をやりはじめたのは小学校2年生の春。
どうしてそうなったのか全く記憶にもないのだけれど通っていた小学校のグランドで練習していた少年野球チームに突如として紛れ込み野球人生がスタート。
先輩どころか友達も知り合いすらも1人もいないチームで、たいして強くもないから有名なわけでもない。今振り返っても本当に意味が分からない。突発的な謎の行動力はこの頃から今もあまり変わっていないのだと思われる。
早生まれで身体が小さいわりに低学年から高学年チームの試合に出てたけど、小学校3年時に横浜市内でお引っ越し。転校もするくらいには離れてたし普通ならチームも転籍するはずが、あんまり人がいなかった弱小チームの要望に親が折れて監督の家の居候という意味不明な登録でチームに残留。そのせいでおかんやらじいちゃんに送ってもらったりすることになってしまい、いま振り返るとすごい申し訳ないことをしてたなあと実感…。
その後キャプテンになったり、後からわかったけどなんかの選抜みたいなやつに行ってプレーしたり。昭和末期の子供たちの人気職業そのままに、プロ野球選手になることを夢見るクソガキとして成長。正確には高校野球の聖地”甲子園”には出るものと思っていたし、プロ野球選手には”なりたい”のではなく”なるもの”だと信じて疑わなかった。とはいえたいした選手でもなかったので非常におめでたい脳みそだった模様。
小学校卒業後、地元の公立中学校には野球部がなかったので当時の野球仲間に誘われるがまま硬式野球のクラブチームへ入団。振り返ればここが大きな分岐点だった。
つづく。
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