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『ほとんど記憶のない女』について



ここ二年くらい、好きな本を聞かれた時は『ほとんど記憶のない女』ということにしている。


よく見るとえっちだ



詳しく考えたなら『断片的なものの社会学』や『海をあげる』などあるけれど、これは短編集で、短編集には思い入れがあるので特にといわれたらこの本ということにしている。

ということにしている、というのは、わたしは無責任で移ろいやすく、好きな本はなんですかという問いにすら正しく答えることができないからだ。

リディア・デイヴィス × (訳)岸本佐知子の本はどれも好きだけれど、特にこの本は気持ちが入る文章が多くて気に入っている。

長さもバラバラな五十一つの文章の中で、特に好きなものを抜き出す。

引用が多々あります。ネタバレに感じる人もいるかもしれないので、読んだことない方が読む際お気をつけください。
今後も追記していく予定です。




○二度めのチャンス

何か失敗をして、どうすればよかったのかを学習する、そして次こそうまくやろうと心構えをしていると、次の出来事は前のとはまるでちがっていて、また判断をまちがえる、そして今回のことについてはここ心構えができるが、同じことが繰り返されることは二度となく、けっきょく何の心構えもできないまま、また次の出来事が起こる。




○面白いこと

何かがなくなってそれから見つかるほうが、自分がどこにいるのか最初からわかっているよりも面白い。

物書きが面白い話が書けないことに悩んでいるところから文章ははじまる。そこからは物書きの書いた内容が「面白いかどうか」だけを軸に進んでいく。行くと言ってこなかったり行かないと言ってきたり、約束とは正反対の行動をする男に振り回される女。感情の共有ができない彼に落胆しながら、家路につく。
「だが、彼がつねに彼女の期待に反することをし、彼女にもそれがわかっているなら、どうして彼が何かをやると言ったときには絶対にそれをやらないと、前もって予測がつかなかったのだろう?」
本来鍵括弧ではない疑問は、きっと書き手のものだ。そして、すごく無粋だと思う。
彼女は二日酔いで気分が悪い中でさえ「あれほどたくさん酒を飲んだのに翌日何ともなければ、そのほうが気分が悪いより面白かった」と思う。苦痛な恋愛関係を続けること、突然終止符を打つこと。外から見ればここに書かれる「面白さ」が「裏切り(予想外の出来事)」であることに気づくことができる。驚きと面白さがごちゃごちゃになってしまうのは、ふたつが元々近いところにあるからな気はする。
読んで、これは仕方ないと目を伏せる。人に合わせる側の彼女は猛獣使いのように見えて、実際のところ猛獣は彼女なのだから。
(何回も書いてごめんだけど)人は身体内に猛獣が生まれると、猛獣使いのふりをし出すように思う。似たものを隣に置いておくことで、じぶんが猛獣であらずに済む。そうして、相対的にそう見えるということではなく、もうしてくれている人がいるからしなくていいというじぶんのストッパーになり、まともな状態であることができる。(かなりうろ覚えだが、樹木希林のNHK特集で映った手紙に似たようなことが書いてあった気がする。)
こういった話の時に必ず、生活が退屈だからではないか?という野次が出るが、その声を聞くたびに、しっくりこなさを感じていた。中にあるものは同じだけど、蓋がちがう。蓋がちがうんだよ、としかいまはまだ言えない… 退屈で異常に惹かれることと、身体内に猛獣を飼って(堂々ともしくは隠して)生きることは個体そのものの状態が明確にちがうんだよ、ちがうけど言語化できていない。
先ほど問いに対してすごく無粋と書いた。胸焦がれるような恋でなくとも、恋人には、恋人でなくとも人間関係というのは?少なからず相手に期待するものだと思う。しかし、この文章の読後に限っていえば、言わなかった答えは「諦めずに信じ続けた方が面白いから」いや、「諦めずに信じ続けて裏切られ続けた方が面白いから」。
彼女が彼の元からいなくなったときは、愛想を尽かしたのではなく、面白くなくなったからなんだろう。




○大学教師

自分のために書かれた歌ではないと知りつつ、カーラジオでカントリー・ウェスタンを聴いたりしだした。

カウボーイと結婚したい大学教師の話。

彼女はカウボーイと結婚したいことを「何がいけないというんだろう」と強く主張しながら「だが、カウボーイが私みたいな女に何の用事があるんだろう――大学の英文学の教師で、父親もやはり大学の英文学の教師で、くだけたところのあまりない、私のような女に?」と疑問を抱く。
この視点がすごく好きだ。他人の意見では左右されないけれど、矛盾の可能性を無視することができず、つい整合性をとろうとしてしまう、ロマンチスト。ロマンチックなリアリスト。(一般的には定規や測定器を使って妄想することを“究極のロマンチスト”という言うんだろうけど、わたしが描くロマンチック・ロマンチストはもう少し脆くて、つつかれたら成り立たない。意味としてはわかるのだが、夢想家との区別が曖昧である)。きっとどちらかに振り切っている人たちよりも信じられるものは少ない。だから彼女は「考えすぎる自分にうんざり」している。どこか生きにくそうで、ここだけを切り取ってもカウボーイに恋心を持つ説明になっている。(考えすぎるカウボーイもいると思うけどね)
続いて彼女はいまじぶんの周囲にあるものを捨てて砂漠の真ん中にさすらいに出る想像をする。「砂漠に連れていくのにちょうどいい男の子なら、一人心当たりがあった。」で脳内にceroの『Orphans』がかかる。
「♪彼は無口な上にオートバイを持っていたから」
砂漠に連れて行くのにちょうどいい男の子の選出理由も、そんな好意とは別のものなのだろう。

立ち止まって、砂漠に連れて行くのにちょうどいい人ってどんな人だろうと考える。たしかに好きで好きでたまらない相手を砂漠に連れて行くのは気が引ける気がする。
炎天下の中、不必要に暑いって口に出さない人?どこまでも続く砂山の中おもしろい話をして気を紛らわせてくれる人?みず・くさ・こおりタイプ?わからないけれど、この一文を読んでからわたしは、誰かの特別な人になれないかもしれないけど誰かにとって砂漠に連れて行くのにちょうどいい女の子ではあれるかもしれない、と思って気分がよくなる時がある。口数は多いけど、運転はできるから。
彼女はここでも「実際問題、もしアル中のカウボーイが私の人生と深くかかわることになったら、きっと私は彼の飲酒癖をこっぴどく責めて、愛想を尽かされるにちがいなかった」とカウボーイとの生活をたのしみ切れずにいる。そうして時は経ち、これ生活とカウボーイの関係は現状-理想ではなく、どちらも現実であり理想である関係性に変わっていく。きっとがんばってモーテルをいい感じにしている彼女も、部屋を整えながら「正しさに迷いがなく、だから生徒たちも疑わない」立派な教師である彼女を想像する。
こうやって考えながら年を重ねて、地に足をつけていくのだと知る。理想のように思える。まだ現実と理想の境ははっきりしている。
わたしにとってのカウボーイとはなんだろうか。カウボーイがわたしといるメリットはあるだろうか。そうやって考えすぎて生きていけば、いつか理想が現実に寄り、現実が理想に寄る日もくるのかもしれない。彼女が西部の街にそう思ったように「美しさに気づくのに苦労したぶん、こんどは離れがたくなってきた」と思ってくれる人にも出会えるのかもしれない。妄想は西へ西へ膨らむ。



○肉と夫

「どうして俺の好きなものを作ってくれないんだ」
「どうして私が作ったものを好きになってくれないのよ」



○出ていけ

もし彼がただ「僕はきみに対してとても怒っている」としか言わなかったら、あなたは今ほど傷つかないか、あるいはまったく傷つかなかっただろう。

彼が「出ていけ」と言ったことについて、言われた側の頭の中の整理のような文章が書かれている。特に特に好きな一編。
この文章のテーマ「出ていけ」は出ていけということを伝えたいのではない、もしくは口に出している時はそうであったとしても永遠にということを伝えたいのではない、ということ自体は発見ではなかった。言葉の真意を見るのは得意分野だ、身についている。
気になっていたのは、そうであるにもかかわらず「出ていけ」と言ってしまう人とそうであるにもかかわらず「出ていけ」と言われなければ怒っていることに親身になれない言われている人の方だった。
この文章では前者の表現を「文字どおりの意味で言うつもりのない言葉を使うことでしか言い表せない種類の怒り」とし、後者を「つまりあなたが傷つくのは(中略)彼が“もう永遠にも戻ってきてはならない”ということを意味する言葉を、文字どおりの意味で言うつもりがないのに、その言葉を文字どおりの意味で言えるのはその言葉だけなのに、選ぶという、その事実になのだ」としていて、腑に落ちた。この本がかけがえのない本に変わった瞬間だった。
「出ていけ」は一緒に住んでいる人の喧嘩なので、ひとり暮らしのわたしが考えるときにその代用となる言葉は「会いたくない」、もっと極端にいえば「別れたい」だと思う。
わたしは、喧嘩をしてひどいことを言うことでじぶんがひどく傷ついていることを伝えたいと思ってしまった時(そういう時もある)、言わないで済めば言わないで済むに越したことはないのだが、せめて、気づいたあとからでも、一緒にじぶんの状況を説明するようにしている。
「わたしはいまこういうことで拗ねているので、会いたくないって言っている、ほんとうは会いたくないわけではない」とそのまま相手に伝える。そうすると相手は裏に隠れた真意を探るステップを省いて、拗ねていること自体を面倒だと思うか、説教くさくて敵わんと思うか、わかりやすくてよかったと思うかできる。わたしの方もいろんなことを後悔しなくてよくなる。
どちらが面倒かは人によると思う。言葉数多い方が楽な人も、そういうことをいちいち話し合う方が面倒な人も。いくところまでいったら出ていけと言ってしまえる関係性の日常はきっと、出ていけと言えないふたりよりも窮屈ではなかったりするのだろう。こういうのは相性で正解はない。でもどちらにせよ、普段出ていけと言わない人が出ていけと言った時に、出ていけと言われたじぶんの傷にしかフォーカスできないような人ではありたくないと思う。



○共感

あるいは私たちがすでに考えていたことを、より明確な形で私たちに示してくれるから。(中略)あるいは遅かれ早かれ考えていたであろうことを。

共感とは、について。
ああ、これだよ。これこれ。とページを捲っていくと五十一個目の短編にこんなことが書かれていて、ずるい。




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