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もう会わなくても大切にするということ

3月が終わる。やっと終わる。わたしはお正月を終えた1月から3月までのこの時期が本当に苦手だ。寒いくせになにも楽しいことがなくて、来たる4月に向けて周りはなんとなくざわざわしていて、みんななにかしらの準備をしているような気がして変化のない自分に焦る。この時期は息を止めて過ごしているようなしんどさがある。

そして、満身創痍の自分が退職した3年前を思い出してしまう。まだ思い出すとヒリヒリするけれど、3年経ってやっと客観的に見ることができるようになった面もある。ちょっとずつちょっとずつ思い出して、最近気づいたことを書こうと思う。


わたしは助産師学校を卒業して、新卒で総合病院に就職した。なかなか厳しい環境ではあったが、先輩はとてもよくしてくれた。
しかし、3年目の終わり、色々なことが重なり職場に行くことができなくなってしまった。(それをきっかけにnoteをはじめた)

先輩たちが優しかったからこそ「ここで頑張れなかった自分」をすごく責めた。
いじめられていたわけでも虐げられていたわけでもない。ごく普通に、むしろとても可愛がってもらっていた。もっと辛くても頑張っている人はたくさんいるのに、どうしてわたしは頑張れないんだろうと、自分に問いかけ続けた。しかし最後はこれが自分を守る方法だと思って退職した。今考えても、それしかなかったと思っている。

職場の先輩たちはわたしが退職したあとも連絡をくれた。
職場の先輩としてではなくて、ひとりの人として心を配ってくれているのが強く強く伝わってきて、嬉しかった。本当に大切にしてもらっているんだなと思った。


そして1年前の3月。前の職場でかなり仲良くしていた先輩が退職するということで、その送別会にわたしも呼んでもらった。
声をかけてもらった時は純粋に嬉しかった。まだ自分のことを忘れないでいてくれていることも、会いたいと思ってくれていることも。だからわたしは出席の返事をした。久しぶりに皆さんに会えることを楽しみにしています、という言葉まで付けて。

よく来てくれたねとみんな言ってくれたし、わたしが元気に助産師をしていることを喜んでくれた。お酒を飲んで話した。笑っていたし、たくさん喋った。感謝の言葉まで伝えられた。

しかし、帰ってからもうなんだかものすごい疲労感。目が冴えて全然眠れない。心臓はずっとバクバクしている。お酒を飲んだけど、酔っ払っていることは全然違う身体の違和感。眠れないのに体を起こせない。
他の先輩と何度か個人的に会った時も、帰ってから同じような違和感と疲労感があった。


本当によくしてくれた人たち。
わたしのことを好きでいてくれていて、わたしもその人たちのことが好き。それは変わっていないはずだった。

それでももう会えない。わたしの身体が会えないと言っている。もうこれ以上は無理だと言っている。

これまでわたしは会いたいと思う人には積極的に自分から連絡して縁を繋ぎ止める努力をしてきた。人を大切にするってそういうことだと思っていた。
しかし、大事にしている・感謝している=会う というわけではないのかもしれない。

前の職場の人たちにはもう積極的に会うことはないと思う。会おうと言われても断ってしまうかもしれない。

それでも感謝している。何もしれないわたしを受け入れてくれたこと。助産師として認めてくれたこと。教えてくれた技術。
それはわたしの中にずっと残る。

例えばその残るものはわたしがこれから会う人たちに優しくできる原動力になるし、教えてもらったケア方法は実践し続けて、お母さんたちに喜んでもらっている。


会えないから、優しくしてもらったことが消えるわけはない。
感謝している気持ちがなくなるわけではない。

人と人には、好きでいられる距離感があるんだと思う。今わたしがその人たちを大切にする方法は、これ以上距離を近くしないこと、会わないことなのかもしれない。その人たちを好きでいるために。
それを失礼というひともいるもしれないけど、これがわたしなりの人を大切にする術だ。

最近聴いてないけれど、昔聴いていた音楽が急に頭の中を流れるように。学生時代に先生がわたしを叱った理由がやっとわかるように。

そうやって、わたしの中に残るものをわたしは大切にして、今近くにいられる人に想いを伝えていきたいなと思う。会えなくても想いは続く。

こうやって人に会えなくなることもあると、大人になって知った。
冷たい言い方かもしれないけど、頻繁に会って、好きだと伝えられるキャパシティには物理的に限界がある。今近くにいる大好きな人たちに、いつ会えなくなってもいいように(そんなこと考えたくないけれど)想いを伝えたいね。

今日の一曲
劇場 ヒグチアイ

もう 会わない人よ
もう 会えないと決めた人よ
あなたの劇場で しあわせでいて

目に入ったもの全てが
わたしの身体の一部になるの
例外はなく あなたも

わたしが存在する意味はわからないのに
あなたが存在する意味はこんなに胸に溢れている
出会いや別れを肯定や否定で色づけしたくない
息をするように 当たり前に わたしがいる

ステージの上 一本のスポットライトが射す
客席には誰1人座っていない
無音の劇場 わたしは一人歌い踊る
あなたからもらったもので わたしはできてる

さみしいけど孤独じゃないの
愛してくれてありがとう

わたしはこの曲、文字通り"劇場"に立つ人
舞台に立つ人、人に見られる仕事をする人と
オーディエンスやファンの歌だと思ってしばらく聴いていた。

それだけじゃなくて、1人の人生の歌なんだと、ライブで聴いて初めて気づいた。恥ずかしながら。(気づいた時本当に恥ずかしかった、自分の読解力の陳腐さを自覚して)

これはわたしのうたじゃないかと。
当然ながらわたしだけではないけれど、今この年齢で今この経験をしたからこの曲のことがわかった。

もう会わないと決めていたとしても、しあわせでいてほしい。そんなかたちの愛があるなんて10代のわたしではわからなかっただろうなあ。

どうしても会いたい人との縁を繋ぎ止めるために全力を尽くすことも、もう会えない人からもらったものを心の中で大切にすることも、どちらも愛なんだと、わかっていたい。





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