言葉は厳密さが足りない
右脳と左脳ってあるじゃないですか。
脳の機能自体は確かに、
言語情報の処理は左脳
視覚や聴覚情報の処理は右脳
と分かれているらしいのですが、人間の性格や考え方のタイプとして、
「右脳タイプ」「左脳タイプ」
っていうのは無く、どんな人でも左脳と右脳をバランス良く使い分けているのだそうです。
それと、よく
「理系は理屈を考えるので左脳をよく使う」
と言われるのも、当たっていないですね。
もちろん、理論や数式を考えたりするのは左脳を使っていそうです。しかし、
具体的な現象を抽象化して数式を立てる
ときは絵を使います。また逆に、
抽象化された数式からどういう現象が起こるか
というのをイメージすることも必要です。
プログラミングをする人も、アルゴリズムを考えるときは、頭の中では言語による説明が浮かぶよりも、絵が動いている事が多いのではないでしょうか。
なぜなら、言葉というのは、数学のような厳密さを求めるには曖昧過ぎて、圧倒的に不便だからです。マッハも同じことを言っています。
ということで、マッハの思想の続きです。
●マッハとレーニン
「マッハ力学」の原著「力学」は、初版の序文が1883年付です。そこからいくつか版が重ねられているのですが、エルンスト・マッハ本人の手で序文が書かれているのは第7版が最後で、それが1912年です。
そこで、この本のロシア語版が出たということが書かれています。
ロシアでは丁度その頃、ウラジミール・レーニン率いるロシア革命の真っ最中でした。労働者たちが集結して帝政を倒し、史上初の社会主義国家である、「ソビエト連邦」を誕生させた革命です。
レーニンの行った事は、いわゆる「マルクス主義」のロシアにおける実践でした。マルクス主義は「史的唯物論」をもとにした思想です。
(この辺の話は前提知識が要ると思いますが、私は哲学が専門でもないですし、ここで思想を解説するのは目的ではないので簡単に述べるに留めます。個々思想に関する解釈は色々あると思いますが、「マッハ主義」を中心として、私が調べた範囲で持った印象です。)
マッハ主義の思想は、「感覚要素一元論」とも呼ばれています。これは、
「初めに感覚ありき」
という立場で、
「物事の実体は、人間の持つ感覚的要素の集合があって、初めて認められるべきものだ。」
という思想です。
それに対し、史的唯物論とは「唯物論」をもとした歴史観で、唯物論とは
「初めに物ありき」
という立場の思想です。言い換えると、人間の精神や意識を全て物質に還元する捉え方で、
「物があってそれに対する認識が生まれる。物があるから意識がある。」
という考え方です。なので、史的唯物論は、
「人類の歴史は物を生産してきた歴史である。歴史の主役は生産者なのだ。」
という事になります。
ところで、マッハと同様、ニュートンが「絶対時間、絶対空間」の考え方を示した頃、マッハとは別の立場で(より思想的な観点で)それを批判した人物が居ました。ジョージ・バークレーという哲学者です。
バークレーの思想は、「主観的観念論」というもので、
「物は、私があると思うから存在するのだ。」
というものです。これは、「唯物論」に最も対峙する思想です。
つまり、時間とか空間とかも、
自分がその中にいて、自分が認識しているものしか実在しないのだ
という、物理学の観点から見たらちょっと「ぶっ飛んだ」発想ですね。
尚、このバークレーの思想がマッハやアインシュタインの先駆けだという人もいますが、科学的な見地を伴って示したのは、マッハが最初だと思います。
マッハ主義も、物の実体を前提にしないところでは、マルクス主義の唯物論に反します。ただマッハ当人は、唯物論と観念論の対峙を超えた思想だと主張しています。
●マッハ主義とロシア革命
さて、「マッハ力学」のロシア語版が出ると、ロシア革命を進める社会民主労働党の内部にも「マッハの信奉者」が増えて行きました。彼らは唯物論から離れ、マッハの思想をよりどころにして、マルクス主義を捉えなおそうとしました。
レーニンはこれを「修正主義」と非難しました。(尚、「修正主義」とはこれとは別の「トロッキズム」も含むようです。)
マッハ主義はその後も広まり。一時期は「マッハ主義者」が党の大半を占めるまでになってしまいました。これは、マルクスの史的唯物論を実践して、階級闘争により革命を押し進めようとするレーニンにとっては、非常に都合の悪いことだったのです。
また、本の後書きで伏見康治氏は、
ボグダノフとルナチャルスキーがマッハの影響を受けてその哲学を宣伝したのに腹を立てたのであろう。
とも書いています。この二人はどうも、ロシア語のラテン語化を巡っても、レーニンと一悶着あったみたいです。
そこでレーニンは、この「マッハ流の思想」を、
「バークレーと同じ主観的観念論であり、独我論だ。」
として、彼の著書「唯物論と経験批判論」で徹底的に批判します。
「経験批判論」とは、マッハ流の思想である「実証主義的経験批判論」を指しています。これは、
「(科学的に)実証不可能な、感覚的に経験できない形而上学的な存在は認めない」
というもので、レーニンの批判は明らかに的が外れています。
まず、マッハは科学の方法論を述べているのであり、個人的な主客を分けるのはナンセンスなのです。強いて言えば、むしろ「客観」に属するでしょう。
また、マッハの場合はバークレーと違って、もっと「具体的かつ一般的な感覚」を問題にしています。
これらの思想の違いを、もう少し感覚的に捉えてみたいと思います。例えば、火を認識する事を考えます。
レーニンの「唯物論」の立場では、
「まず火という実体が存在し、我々の中に、それが火であるという認識が生まれる。」
と言うでしょう。
バークレーの「主観的観念論」ならば、
「私がそこに火があると認識したから、そこに火が存在するのだ。」
と言うことになります。
しかし、マッハの立場では、
「そこには熱い、赤い、といった感覚や、物が燃えるといった記憶、経験のの再現があって、それを我々は火と呼ぶ。」
と言うものです。
それは、マッハの科学における「思惟経済」からの帰結としての思想なのであり、この思想自体が何らかの政治的意味を持っているものでは無かったと考えられます。むしろこれは、もっと哲学の基本となる、我々が何か物事を考えるときに、より本質に迫るための方法を示唆していると考えます。
●ソビエトで国禁となったマッハ主義
しかし、レーニンはマッハのこの主張を、「唯物論への批判」と取り違えてしまったのです。この後、1914年に「サラエボ事件」を切っ掛けとして第一次世界大戦が始まり、ロシアでは食糧難などの、いわゆる「社会矛盾」が深刻化します。
そうすると、社会民主労働党を中心とした革命の気運が高まり、マッハ主義者の影はだんだん薄くなっていきました。そして1917年、「三月革命」と「十一月革命」によりソビエト政権が樹立され、レーニンの政治家としての名が確立されると、マッハ主義は「国禁」とされてしまったのです。
ちなみにこの後、「アインシュタインの相対性理論」も、同じくソビエト政権下で国禁的な扱いを受けることになります。
これらの出来事は、当時社会主義に傾倒していた国々に、多大な影響を与えました。そして日本も、そのうちの一つだったのです。
■やっぱり言葉は不便
慣れない思想史の話をしたので、いささか疲れました。
しかし、マッハがレーニンにやっつけられた経緯を説明する為にはどうしても必要なので、こうなってしまいました。
数学ならば、記号が厳密に体系化されているので曖昧さが生じる事は無く、言葉は補助的な説明として添えるだけでいいのです。しかし哲学は、全てを言葉で正確に説明する必要があるので大変です。
マッハの言葉を借りると、日常語は現在のところ、十分な厳密性を持つまでに発達していないのです。
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