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政治とは、暮らしの中の関係性や場を耕しておくこと

 読書会5冊目は、文化人類学者・松村圭一郎さんの『くらしのアナキズム』(2021, ミシマ社)。

 わたし個人として、この1年ほどで探求したいテーマがある。それは「コモンズ」。「みんなでつくる」と言い換えてもいい。特に、お金や権力がないとつくれないと思われるものを、どうやったら自分たちの手に取り戻すことができるのかを考えている。『『忘れられた日本人』をひらく ─宮本常一と「世間」のデモクラシー』(若林恵・畑中章宏, 2023, 黒鳥社)を読む中で、この本も登場し、今読むべき本のように思ったのがきっかけ。(この中で本書がどのように引用されていたかは、いま手元にないので確かめられない。)


 「アナキズム」ってあまり馴染みがない。無政府主義と訳されると、無秩序でカオスな感じがする。だけど最近まで、隣町の広島県尾道市でアナキストを名乗る青年がやっていたドーナツ屋の名前は「アナーキー・イン・ザ・ドーナッツ」(2年ほど前に閉店、ドーナツは別のお店に引き継がれている)だったし、なんとなく自分たちの手でまちをつくっている人たちとアナキズムは相性がいいのかも、というのは感じている。

 災害時に政府や行政が機能しなくなる可能性もある。実際、2018年の西日本豪雨で尾道市はおよそ2週間の断水に見舞われた。行政の給水車だけでは到底賄いきれず、人々は井戸水情報を共有して分け合って乗り切った。
 災害時だけではない。過疎地域に住んでいる者としては、自分たちの暮らしに必要だと思うものは自分たちでどうにかできるようにしておくことが、生存戦略として必要だと感じる。平成の大合併で大きくなった自治体は、周辺部のことまで気が回らない(予算も回ってこない)。だから、できることはまず自分たちでやるというマインドがあるように思う(本来はそれが真っ当なあり方だとも思う)。

 本書では、文化人類学的に国家がどのように生まれていったのかを辿る。そして、政治とは、民主主義とは、経済とはそもそも何なのかを再考していく。

 いつからか、政治が政治家だけのやる仕事だと、限定された領域に押しこめられてきた。(中略)いわば、暮らしから政治が奪われてしまっている。政治は、ぼくらの直面している問題への対処のことだ。それなら政治はむしろ暮らしそのものだったはずだ。
 政治と暮らしを分け隔てている境界は、そんなに固定的なのか。その領分を犯さないことにどれほどの意味があるのか。(中略)政治と暮らしが連続線上にあることを自覚する。政治を政治家まかせにしてもなにも変わらない。政治をぼくらの手の届かないものにしてしまった固定的な境界を揺さぶり、越境し、自分たちの日々の生活が政治そのものであると意識する。生活者が政治を暮らしのなかでみずからやること。それが「くらしのアナキズム」の核心にある。

p.60-61

 「政治」という言葉そもそもの意味に立ち返ったとき、必ずしも国を治めることだけを示す言葉ではないことに気づかされる。

ぼくらは選挙で政策に対する賛否を決めたり、政治家が決断を下したりすることが「政治」だと考えてきた。だがそうした「政策」がうまく機能するためには、その意思決定の手前で、時間をかけて政治の現場である暮らしのなかの関係性や場を耕しておくことが欠かせない

p.175-176

 今、職場であるまちづくりの中間支援センターで取り組んで3年目になる対話の場は、まさに「耕しておく」活動のひとつだ。そこには年齢も性別も価値観も住んでいる地域もさまざまな人たちが集い、その場限りの対話を楽しんでいる。時にお互いの価値観の違いが明らかになる場面もあるが、喧嘩したりしないし、どちらが正しいかを決めたりしない。ただ「そういう考え方もあるんだ」と受け止めあって、影響しあっている。

 こういう多様な人と出会う場があること、日常的に政治についてフラットに語れる場があることが、まちを着実に豊かにしていくと信じて続けている。おかげで同僚も含めて、移住したまちに真面目なことも気負わずに話せる仲間が少しずつ増えている。今年4月の市議選では投票率をあげようと、候補者一覧ウェブサイトを有志でつくったり、つい先日は鳥取県湯梨浜町の汽水空港・モリテツヤさんと一緒に、それぞれの身近な困りごとを語りあうワークショップも開催した。今、これらの活動を記録するzineも制作中だ。


 国家が自分の手柄であるかのような顔をしている「民主主義」や「自由」、「平等」といった価値は、国家内部の動きから実現したものではない。むしろそれへの抵抗や逸脱の結果として生まれた。だからこそ、ぼくらがよりよき状態に向けて動けるようになるには、既存の国家がおしつける「常識」から距離をとり、そこでのあたりまえをずらしていく姿勢が欠かせない。国家は暮らしのための道具にすぎない

p.223-224

 私たちはもっともっと社会のあたりまえを疑い、「そもそもそれって何だったっけ?」と考え直したほうがいいんじゃないだろうか。過疎地域で暮らしている人たちの中には「こんな方法もあるんじゃない?」と、自分たちの手に暮らしを取り戻すこと自体を軽やかに楽しんでいる人たちも多くいるように見える。

 この本を読んでみた当初、私以外の東京に住む2人はピンときていないようだった。「言いたいことはわかるし、そりゃそうなったらいいだろうなとは思うけど、クーデターでも起こさない限り無理なのでは?」という雰囲気だった。そのギャップを感じたのは、新鮮だったしおもしろかった。だけど、読み終わった時には、できることからはじめようという気持ちになったんじゃないかなと思う。たぶん。

 わたしはこれからも、自分の中に小さなアナキストを住まわせて、自分の手で暮らしをつくる試みを、瀬戸内の小さな島で続けていきたい。

この記事を書いた人:中尾圭
現在は瀬戸内の小さな島に移住し、夫婦で「港の編集室」として、島の暮らしをもっと楽しくする実験中。公私共に、まちづくり業界にどっぷり浸かっている。


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