【全文公開】鬱になったダメサラリーマンが、下着を変えたことから人生が好転し、起業までしてしまった話。
【2024年。新たにロングパンツを買う予定が「少しでも」あるあなたへ】
11月11日(土)11:10〜makuakeにて渾身の新作発表!
是非、下記のページをご覧ください!
中川ケイジといいます。
自分で事業を立ち上げてから10年目に突入したのですが、実は6年前に書籍を出させて頂いています。鬱になってしまったダメサラリーマンが、お金もコネも何もないところから、ビジネスを作り出す起業ストーリーです。
#2月14日はふんどしの日 ということで、今回、出版社のご好意で、期間限定で全文公開させていただくことになりました。
(※現在、出版社の担当者さんに、全文公開の期間延長について検討して頂いています!検討中の期間は無料公開継続します!)
なぜ、誰も見向きもしなかった「ふんどし」を少しずつ広めることができているのか。なぜお金もないのにたくさんの人に応援してもらえ、メディアも巻き込むことができているのか…
そんなことをリアルに書きつつも、最終的にはそれを支えたパートナー(妻)がすごいね!という感想が一番多い本です。
ちなみにこんなブランドを展開しています。
みなさん「まさか自分がノーパンなんて…ふんどしなんて…」と思われているでしょうけど、これの快眠効果すごいです!忙しくて睡眠時間がなかなか確保できない人、騙されたと思って就寝時だけでも試す価値はあります。快眠できなかったら返金します。
ノーパンなんて、ふんどしなんて誰もしないと思うでしょ?
でも実は「冷え」や「むくみ」、なかなか良い睡眠が取りにくい人に口コミでじわじわと広がっています。しかも経営者には愛用者多いです!健康効果(特に下半身!)+話のネタになることが理由です。なおかつパンツと違ってゴムが伸びることもないので長年使えてコスパ最高。
、、、すみません。「夜ふん」オススメしたすぎて脱線してしまいました。
それでは本文をお楽しみください。さささーっと15分くらいで読めます。
『人生はふんどし1枚で変えられる』
目次
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はじめに
サラリーマン時代、僕はうつになりました。
人には向いていることと
向いていないことがある。
僕は、決定的に、
サラリーマンに向いていませんでした。
朝、そして会議の前に
強い眠気覚ましの薬を飲んでも、
会議になると一瞬で
気絶したように眠ってしまう。
朝起きると、パジャマがチョコレートだらけに
なっていたこともありました。
夜中に起き出し
アイスをバリバリ食べていたというのです。
(僕にそんな記憶は、まったくありませんでした)
これもうつの症状でした。
そんな時出会ったのが「ふんどし」です。
ふんどしを締めれば自信がもてる
ふんどしを締めれば運気が上がる
わらをもつかみたい、苦しさの中にいた時
そう言ってふんどしをすすめてくれた人がいました。
初めて締めたふんどしは、
とてもとても快適でした。
通気性と包み込まれるような安心感。
本能が直感しました。
僕はこのふんどしを日本中、世界中に広めていくんだ。
これをビジネスにして、起業するんだと。
エリートじゃなくていい
不器用でいい
でも、何かを変えたいと思っている。
そんな僕みたいな人に
夢中になれる何かに取り組むことが
こんなにも幸せで、意味のあることだと伝えたい。
大切な家族や仲間、
応援してくれる人がいる人生の素晴らしさを
伝えたいと思いました。
「あいつにもできるんだから俺(私)だって!」
そんな風に、本書が誰かの人生を、
ほんの少し変えるきっかけとなれば幸いです。
中川ケイジ
第1章 仕事のできない男
美容師からの転職
都内の大学を卒業した後、僕は29歳まで地元神戸で美容師をしていました。
のほほんと暮らしていた大学時代。氷河期ど真ん中の年に就職活動をしていましたが、ことごとく全敗していました。
やりたいことがある訳でもなかった僕は、「結局自分は何がやりたいんだろう」と悶々(もん もん)と過ごす日々。そんな時、たまたま出会った美容師さんにカットしてもらったことがきっかけで、自分のセンスと腕ひとつで勝負できる「美容師」という職業に強くひかれていきました。
ちょうどTVで木村拓哉さん主演の『ビューティフルライフ』(カリスマ美容師が主人公の大ヒットドラマ)が放送されていたこともあり、きっとドラマの影響をモロに受けたバカと思われていたのでしょう。まわりの友人たちには「大学まで出て美容師になるなんて!」とあきれられました。もちろんドラマからも多少の影響は受けていましたが(受けてたのか(笑))、家族は僕の想いを理解してくれて、反対することなく応援してくれました。
美容師になるといっても、大卒で24歳。高卒で美容学校にすすんだ人とは、すでに大きな差がついていました。年齢のことで焦っていた僕は、少しでも早く技術を身につけたいと、昼間の美容専門学校に入学するのではなく、直接美容室に就職し、働きながら通信教育で美容師免許を取得することに決めました。
そうなるとまた、美容室への就職活動がはじまるわけですが、大学を卒業してからなので年齢的なこと、そして専門学校卒業時に取得することが当たり前の美容師免許ももっていない、という大きなハンディを抱えてのスタートでした。
いつもの僕であれば、「ハンディがあるから無理だろう……」と後ろ向きな姿勢になってしまうところでしたが、自分が心からやりたいと思っていたことだったからなのか、不思議と積極的に行動することができました。
このハンディをどうすればプラスに変えられるか。
美容室側がほしい人材はどんな人材なのか。どんなサプライズを用意すれば自分に興味をもってもらえるか。徹底的に考えアイデアを出し、行動に移しました。
たとえば街ゆく女性に、今、行っている美容室と、これから行ってみたい美容室、さらには髪型で参考にしている芸能人は? などのアンケートを取ってまとめた「街頭100人アンケート」。また、雑誌やTVで紹介される東京の有名サロンを見学し、そのすべてをレポートにまとめた「有名サロン30店㊙レポート」。さらには自分がお店に入店すれば、お店にどんな影響を与えることができ、何年後にはこうしてみせるということを書いた「未来予想図作文」などを用意しました。
この3つの資料をもっていくと、「今年の面接はもう終わったから」と門前払いされたはずのお店から、後日「うちに入社してほしい」と電話をいただけることもありました。年齢的なこと、美容師免許をもっていないというハンディを、他の人がやらないちょっとした工夫をすることで、ひっくり返すことができたのです。
最終的には、神戸で最も勢いのあった第1希望のお店に、お世話になることに決めました。
学生時代、就職活動で全敗したにもかかわらず、美容室への就職活動では相手の喜ぶお土産を用意したことで、多くのお店から必要とされるようになった自分。
何をすれば相手が喜ぶのかを徹底的に考えて行動する。そして、本気でやりたいと思えることを見つけることさえできたら、自分でも信じられないほどの行動力が湧き起こってくるものなんだなということを、この時初めて知ったように思います。
美容室に入社してからはすべての時間を仕事に費やしました。特にスタイリスト(カットができる人)になるまでの修業期間は、がむしゃらにがんばりました。
最初の頃は使用する道具の名前もわからず、先輩たちに叱られながら苦労もしましたが、「神戸でNO.1の美容師になるんだ!」という目標のもと、不器用ながらも毎日朝一番に出社し、いつも最後になるまで居残り、休日も返上して練習につぐ練習を続けた結果、3年半後には同期の仲間に大きく差をつけてスタイリストに昇格しました。
スタイリストに昇格する半年も前から、最低でも毎日1人はカットモデルの髪を切ると決めて実行していたこともあり、スタイリストデビュー初月に100人近いお客様に来てもらうことができました。神戸でも指折りの高い技術のお店だったのですが、この記録は今でも破られていないようです。
こうして天職だと思っていた美容師を続けていましたが、美容師になってから5年後の2005年、東京で会社を経営している兄から「東京で一緒にビジネスをしないか」という誘いを受けました。
11歳年の離れた兄は、昔からクレバーかつ器用に生きている人で、僕にとってのまさにヒーロー。いつかは憧れの兄と一緒に仕事がしてみたいと思っていました。しかし、美容師という職業を選んだ以上、それは叶わぬ夢だとあきらめていました。
ですので最初はこの誘いを断っていたのですが、心が激しく揺れ動くのを感じずにはいられませんでした。せっかく美容師としての僕を指名してくれるお客様が増えてきているんだから、今ここで投げ出すわけにはいかない。でも兄の力になりたい、一緒に仕事をしたいという、2つの思いの板挟み状態。
──本当に胃潰瘍になるまで悩みました。
ですが、結局、兄の下でビジネスを学び、そしていつか美容室をプロデュースする側に成長するんだ! と決意しました。
こうして僕は、
ハサミを置く決断をしたのです。
売れない営業マン
2006年の1月1日。元旦。
最低限の荷物とつくり立てのスーツ3着をもって、僕は、大学時代を過ごした東京にまた戻ってきました。新居は6畳1間のワンルーム。
仕事に没頭するため、ただ寝るためだけに帰る部屋を選びました。TVも何も置かず、ストイックに仕事にはげむことができる環境をつくったのです。
「俺はここでデキるビジネスマンへと成長していくんだ!」と、数年後にはカッコよく高級スーツを着こなす姿を夢見て、気持ちは高ぶっていました。
肩書きは「取締役」でしたが、もちろん一番の新人。新卒2年目のスタッフと同様、数字を上げてなんぼの営業部門に配属されました。
会社は企業のコンサルティングを主な業務としていました。自分から積極的に営業をかけ、企画をもち込み、仕事を取ってくるというスタイルで、顧客の業種は多種多様でした。
クライアントの収益が上がらなければ、自分たちも報酬を取らない、という究極の成功報酬型スタイルだったため、企画、提案、実行しても、成果を上げることができなければリターンがないという、難しい環境でした。
クライアントの会社は、ミネラルウォーター、太陽光パネル、美容エステ、コロッケ、アイスクリーム、サプリメント……など多岐にわたります。
少しでも個人の売上を獲得するため、水や太陽光パネルなどは資料をもち歩いて飛び込み営業をしたりもしましたが、営業センスがなく、まったくといっていいほど売れなかったので、「社長の弟がこれじゃマズいだろう……」と、自分の小遣いで商品を買って、売上の足しにしたこともありました。
美容師としてのスキルアップだけを考えて、一つのことに集中できていた時とは違い、同時に複数の業界、業種のことを考えなければいけないコンサルティングの仕事は、器用ではない僕にとって、非常に難易度の高いものでした。
また次に何が流行りそうなのか、どういう業界が景気がいいのか、いかにビジネスにつなげていくのかその見極めもできず、空回りの連続でした。
どれだけ時間と頭と足を使って動いてもまったく成果が上がらず、新卒で入った若い新人より数字を上げることができない、自分の給料分すら稼げないという情けない状況が続きました。
どうすれば仕事で成果を上げることができるのだろう……。
朝一番に出社し終電で家に帰る生活。
休日も取らず、給与のほとんどをビジネス書や勉強会、異業種交流会に費やし、同時に資格があれば状況が変わるかもしれないと、中小企業診断士の資格取得の勉強もしたりしましたが、仕事での成果を出すことはできませんでした。
焦るばかりで少しはあった自分への自信もなくなり、その焦りや不安から、さらに仕事の成果が出ない、というまさに負のループが日に日に大きくなっていきました。
「どうしたらいいんだ……」
東京に来てすでに5年が経過し、成果の上がらない〝社長の弟〟へのまわりの視線も次第に厳しくなっているようでした。
少なからずあったはずの自分への期待も、もはや「あきらめ」に変わっている、そんなどうしようもない空気。ますます焦るものの、またそれが余計におかしなことになっていく……。とても苦しい時間が流れました。
会社で成果を上げることができず、焦りまくっていた時、社長に「お前のことは信用してるけど信頼はしていない」と言われたことがありました。
おそらく「信用してる=裏切ることはない」、「信頼していない=成果は期待していない」という意味だと思います。社長は兄弟という関係なので、他の社員よりも厳しく接しつつも、ずっと温かい目で見守ってきてくれていましたが、まさか弟がここまでふがいないとは思ってもいなかったのかもしれません。僕を奮起させるために言ってくれた言葉なのですが、兄弟として情けない思いをさせてしまっていることを知り、恥ずかしい思いでいっぱいになりました。
この一言はショックでしたが、「このまま恥をかかせるわけにはいかない。なんとか結果を出さなければ……」と僕は、あらためて奮起することになりました。
社会人として「がんばる」のは当たり前、プロとして「成果」を上げなければ意味がない。社内での、そして兄からの「信頼」を取り戻すため、「甘ったれた雇われ根性をたたき直してがんばるんだ!」と、文字通り心を入れ替えてますます仕事に専念しました。
奮起した僕は、1年以内に成果を上げることができなければ会社を辞める覚悟を決め、今まで以上に、すべてをかけて仕事に没頭していきました。
上海でのチャンスも逃す
一念発起し、今まで以上に仕事に全力で取り組むものの、相変わらずまったく成果が出ない日々。これまでの失敗の反省を活かして、さまざまな案件を抱え込むのではなく、自分の得意な分野に特化した新事業をつくることはできないものか……。
そんなことを思っていた矢先、会社が新しく上海事務所をつくることになりました。日本企業の上海進出をサポートする業務が追加されたのです。
上海に事務所をつくるには、当然、東京と上海を往復する人間が必要でした。
「これからの時代は中国だ」とさまざまなニュースやビジネス雑誌が取り上げていたこともあり、どうすれば成果を上げられるか模索し続けていた僕は、上海に行くチャンスにかけてみたいと思い、強く志願しました。
「これでダメなら、もう会社にはいられない」という覚悟を決めていました。
2010年の秋、初めて上海に行くようになってから、翌2011年の2月までの約半年間、月の半分を上海で過ごすようになりました。
上海の現地スタッフと共に、上海進出を希望するクライアントのアテンドをしながら、新規案件獲得のためにさまざまな企業を訪問し、何かビジネスにならないか模索する日々。東京よりも冷え込む上海で、最も安いビジネスホテルに泊まる生活に少し寂しさもありましたが、それよりも「自分にしかできない何かを見つけて、きっと成果を出してみせるんだ」という意気込みが強く、メラメラと燃えていました。上海でも焦り、そして必死だったのです。
そんな中「これは!」と思うチャンスが巡ってきました。
六本木(東京)にある大型美容室が、上海に出店するというのです。しかもこのお店の顔とも言える人物は、美容業界では知らない人はいない有名なN氏。
N氏は、僕が美容業界に入るきっかけともなった元祖カリスマ美容師でした。
「彼と一緒に仕事がしたい!」
美容業界であれば自分の経歴も活かせるはず。何より心からの興味がある。上海の事情に強く、美容のことにも精通する自分なら、出店にかかわるさまざまな業務を一手に引き受けることができるかもしれない! と勝手に盛り上がっていました。
本人に直接志願しようと、N氏に会うために1回1万5000円もするヘアカットに何度も通いました。その度に、自分がどれほどN氏に影響を受けてきたか、そして自分たちがかかわれば、上海のお店にとってどれほどプラスになるかを熱く伝えました。
熱意が伝わったのか、N氏ご本人にはとても気に入ってもらえ、運営会社に強く推薦してみると言ってくれました。ご本人と実際のスポンサーである運営会社の役割が違っていることは理解しつつ、会社にとっても、自分にとっても、最大のチャンスに思えた僕は、かすかな希望をそこに感じ、正式発注の確約もないままに、事前準備をすすめることにしました。
「正式な受注もしていないのに時間と経費をかけるな」と社内では反対されていましたが、「必ずモノにするからどうしてもやらせてほしい」と社内で何度も説得し、押し通しました。僕は大きな「賭け」であることを知りつつも、進退をかけてこのチャンスにかける決心をしたのです。まさに背水の陣でした。
その後の上海出張では、日系美容室が上海に出店するための、あらゆる業務について調査し、細かい業務を委託するための現地企業も訪問、スタッフの採用から日本式サービスの教育、商材の調達など、それぞれのプロフェッショナルに声をかけ事前準備をすすめていました。
実際に、N氏および新店舗の運営会社から正式に委託されたわけでもないのに、このチャンスを逃してしまえば、自分の存在意義がなくなってしまうという必死さから、自分なりの万全の体制を整えました。
うちに任せてもらえればすべてが上手くいく。
これ以上ない準備ができた僕は、珍しく興奮していました。
意気揚々と日本に帰国し、真っ先にN氏に報告したところ、運営会社がすべて行うので今回は一緒に仕事はできないとのことでした。見切り発車もいいところで、数ヶ月も本件に時間と経費をかけていたのが、一瞬にして水の泡と消えました。あっけない幕切れ。またしてもビジネスをつくり出すことはできず、会社には余計な時間と経費だけを使わせてしまった結果となりました。
今回は「もしかして……」と少なからず、僕に期待してくれていた社内に「またか」「結局ダメだな」という空気が流れているのを強く感じました。お金も時間もドブに捨て、仲間からの信頼もますます失ってしまいました。
僕は「賭け」に負けたのです。
目の前に天狗の子どもが!? 深夜の幻影
上海での失敗にうなだれながらも、日々の業務に追われる日々。
業務時間を終えてからは、新規ビジネスを立ち上げるためのアイデア出しを自分に課していました。存在意義を見つけるために冷や汗をかきながら、どうしたら一発逆転のホームランを打てるのか、焦りまくっていたのです。
今までヒットすら打ったこともないくせに。
ちょうどこの頃、終電も逃した深夜、いつものように社内に残ってアイデア出しをしていると、よほど疲れていたのか目がかすんで視界がぼんやりとしてきました。四六時中パソコンの前で固まっているので、当然、目も疲れます。目薬を差し、目をこすっても、このぼんやりは消えません。
誰もいないオフィス。
なんだか空気がひんやりしてきました。いつもと明らかに空気が違いました。
誰か人がいるような気配……。
かすんだ視界の先に何かが動くのを感じました。
その影が本棚の奥から出たり入ったりしている! 子どものような背丈。
こっちを見ては引っ込んで、またそぉっとこっちを見て、引っ込んで……。
「え! 誰!?」
いよいよオフィスに幽霊が出た!
……はずなのに、あれ? 不思議と怖くない。
お化けとか霊とかそういうものが昔から大の苦手の僕ですが、なぜか恐怖を感じませんでした。それよりも正体が何なのか見てみたい。
目をこすりこすりしていると、ようやく視点を合わせて見ることができました。そこにいたのは、「天狗」の子ども! この世にいないはずのものですが、その時ハッキリと目の前に「天狗」が現れたのです。
一本下駄をはいて、手には大きな葉っぱをもち、大きくて丸い玉の首飾り。
もちろん鼻は赤くて高い。ニコニコした表情で「ばれちゃった」と言わんばかりに本棚に隠れたり、そっとこちらを見たりしています。
本やTVで見たことのある、まさにイメージ通りの天狗です。
その子どもが「おいらと遊んでくれよ」と言っている、そう感じました。
その時、天狗が変わった下着を身に着けていることが気になりました。
明らかにパンツではない腰巻きのような形。長く膝まで垂れた白い布。
「この天狗は一体、何をつけてるんだ?」
天狗に遭遇し、ビックリして怖くて逃げ出すべきところを、なぜか冷静に観察している自分がいました。
しばらくして天狗はパッと消えていなくなり、ハッと我に返りました。
もう「いろんな意味でヤバいな」と急に怖くなって、タクシーで帰宅しましたが、その後も彼の下着が心のどこかで気になっていました。
その時はまだ、ふんどしに対して予備知識もなかった僕ですが、あの時の彼は白い「越中(えっ ちゅう)ふんどし」を締めていたのではないかと、後になって知ることになります。
このことが将来、ふんどしに命を捧げる覚悟をすることと結びつくかどうかは別として、当時は幻影を見るほどまで自分を追いつめて仕事に向き合っていたのです。
部下からの一言
上海の案件でも結果を出せず、すっかり肩を落としていた時、会社での僕の立場を思い知らされることがありました。
上海出張期間中に、部下に指示をしていたことがあったのですが、帰国後、その内容を見ると、とてもお粗末なものが仕上がっていました。
上海での失敗でひどく落ち込んでいた僕は、自分の指示の仕方の悪さを考える余裕もなく、その部下を近くの喫茶店に呼び出し叱りつけていました。
「なんでこの地図にマークするように指示しておいたお店が、これだけしかないんだよ!」
「ちゃんと指示されたようにしましたよ」
「お客様に提出する資料なんだから、これじゃダメだってわかるでしょ!」
仕事ができず、社内評価の低い上司(僕)に注意されたことが気に入らない様子の彼女。感情を隠すことなく顔に出しています。
10秒ほどの沈黙があった後、「ふぅーーーーーー」と大きくため息をついたかと思うと、「だったら、最初からそう言ってくださいよ! これまでケイジさんのこと、かばってきてあげましたけど、もうガッカリです。ホント、みんなの言う通りダメな人ですね!」
「???」
急に逆上する彼女に驚いたというより、「みんなの言う通りダメ」って何??
頭に「?」がついている僕に彼女はこう続けます。
「社長の弟なのに、あの人は本当に仕事ができないよねってみんな言ってるのを、これでも私はかばってきたつもりなんです。ケイジさんだって一生懸命がんばってるんだからって! でもそんなケイジさんにこんなことで注意されるなんて心外です」
この一言は、グサッと刺さりました。
社長の弟だということでまわりに気を遣わせていることも、仕事ができないことも自分が一番よく知っていました。実力がないのに「取締役」という肩書きに、社内外も含めて笑い者なのも簡単に予測できました。丸5年間、何も成果を出せていないんだから、バカな僕でもそれくらいはよくわかっています。
今まで仕事で成果を上げるため、生活のすべてを捧げてきたつもりでしたが、「もうどれだけがんばってもダメかもしれない……」と思わせるには十分な一言でした。
結局、誰の役にも立てていない
会社に在籍してから今まで、誰かに「ありがとう」と言われたことってあったかな……。社内外問わず、誰からも必要とされていない事実に、なんだかすべての力が抜け落ちてしまいました。僕にしかできないはずだった上海の美容室の案件もなくなり、いよいよ誰の役にも立てていない自分。
そんな時、某大手企業でエリートコースを歩む、10歳年上の方と食事をする機会がありました。多くの部下を抱える経験豊富な人生の先輩に、今の自分の状況を説明し、客観的なアドバイスをもらいたかったのです。
「一度や二度の失敗で、自分に自信がないとか、やりたいことがわからないなんて甘いこと言うなよ。そんなこと言ってると、いつまでも仕事のできない男のままだぞ。とにかく結果を出せるよう、くよくよせずにがんばれよケイジ君。なっ!」
やっぱりがんばるしかないのか……。
今までの僕であれば、こういったアドバイスを受けたら「よし! とにかくがんばろう!」と奮起していたと思いますが、精神的に追いつめられていて、もう何をどうがんばればいいのか、わからなくなっていました。
もう、これ以上、無理かもしれない……。
自分には何もできない。これ以上、会社にも迷惑をかけたくない……。
この頃から、体調に異変を感じるようになりました。
震災、そして体調の異変
今までも慢性的に頭痛がある体質ではありましたが、この頃から毎朝、出社時刻になると激しい頭痛とめまいで布団から起き上がることが難しくなっていました。
時に吐き気をもよおす症状は、市販のあらゆる頭痛薬でも効かず、毎朝布団の上でのたうち回る僕を見て、妻はとても心配していました。
ある時、朝目覚めたら、パジャマがチョコレートまみれになっていたことがありました。「おかしいな」と思っていたら、妻が、「ケイちゃん(←僕の呼び名)、夜中に突然むくっと起き出して、ヨーロピアンシュガーコーン(チョコレートアイス)をバリバリ食べてたよ。すっごく怖かったんだけど、おなか減ってたの? え? 覚えてないの?」と状況を教えてくれました。
まったく身に覚えはないけれど、どうやら夜中に無意識に冷凍庫を開けて、何かを食べているようで、しかもこれは一度や二度ではありませんでした。
心配した妻は、さまざまな検査を受けるようすすめてくれました。
頭痛外来、脳外科での精密検査、人間ドック、睡眠外来、などなど。
しかし、どの検査でも異常はどこにも見当たりませんでした。
身体的な異常はないのに、毎日続く頭痛やめまい、夜中の奇行。
でも「今日は休みます」と会社に電話を入れた途端、緩和していく症状。
今であれば精神的なものかもとすぐに疑えますが、その時は「まさか自分が」という思いもあり、この身体の異状はどこからくるのかわからないままでした。
2011年3月11日。
そんな時、東北の大震災が起こりました。
東京で初めて経験する大きな地震。
この日はなんとか会社に出社していました。
1日社内にいる日だったので、地震の時は自分のデスクにいたのですが、地震直後に社内はパニックになり、同じビルで働く他の会社の人たちは、ぞろぞろとビルの外に出ていました。誰もがただごとでない揺れに驚愕していました。
すぐに妻に電話をしましたが、地震直後で電話はつながらず、不安はより大きくなる一方。ぞろぞろと帰宅する人々の波に飲まれ、道すがらさまざまなことを考えました。ただごとではない規模の震災に、1995年1月に起きた阪神・淡路大震災のことがフラッシュバックしてよみがえります。当時、高校3年生だった僕は、阪神・淡路大震災を震源地ど真ん中で被災。幸い身内は無事でしたが、自宅は全壊、同級生も亡くなるという恐怖を体験していました。
あの時、自分は生かされたんだから、自分にしかできないことをして生きよう。わがままにでも自分の強みを活かして、人の役に立つ人間になろうと、亡くなった人の前で心に誓ったはずでした。
しかし今の自分はどうだろうか。
あの時の誓いを守るどころか、誰の役にも立てていないじゃないか。
自宅へ足をすすめながら、今回の地震で被災した人がどうなってしまうんだろうという心配と、自分の不甲斐なさが混じり合って、情けない自分へのやり場のない怒りが、ふつふつと湧いてきました。
5時間かかってようやく家に着くと、幸い、妻も先に帰宅できていて、自宅の本棚が倒れたり食器が割れたりと多少の被害はあったものの、なんとか無事であったことを、手を取り合って喜びました。
しかし日に日にあらわになる悲惨な状況を、TVやインターネットで目の当たりにし、なんとも言えない虚無感を感じる日々。
なぜ必要とされる人が亡くなり、自分は生き残ってしまったのか、またも生かされたのか。これからの生き方、価値観、自分の使命、後悔、働き方……など複雑な感情を整理できなくなり、考え込むことが増え、体調はますます悪化していきました。この症状が精神的な部分に原因があることに気づいたのは、ここからまだ2ヶ月も先のことでした。
第2章 運命的なふんどしとの出会い
事件は会議室で起きている
体調が悪い中、重い足を引きずりながらも僕はなんとか出社し、今までの失敗を返上するため新たな業務もすすめていました。
そんな時島根県でサプリメントの販売を行う会社から、インターネットでの通信販売サイトの制作および運営を依頼されました。
その会社の社長である松浦さんは、若くしてさまざまな事業を展開し、成功を収めてきた人。社長でありながらいつも気さくに接してくれ、会議中もすすんで冗談を言っては、場を盛り上げてくれる。そんな松浦さんを僕は尊敬していました。その松浦さんが会議中の雑談で、急に変なことを言い出しました。
「中川君、実は俺、ふんどし締めてるんだよ」
ちょっと意味がわからなかったので、「ふんどし?? 松浦さんどうしちゃったんですか? お祭りにでも出るんですか? あれ? もしかして変な趣味ですか?」
「変な趣味ってなんだよ! 違うよ、越中(えっ ちゅう)ふんどしにハマってるんだよ」
やっぱり意味がわからず「エッチなふんどし?? やっぱり変な趣味じゃないですか!」
「違う! 違う! 越中(えっちゅう)、越中ふんどしだよ。パンツから越中ふんどしに変えた途端、〝朝の元気〟がすごいんだよ」
「朝の元気?」
「フフフ……」
「朝の元気ってもしかして!?」
「フフフ……、その通りだよ。中川君も試してみたら?」
「僕がふんどしですか!? 嫌ですよ! そんなダサイもの。めんどくさそうだし、大体、恥ずかしくて奥さんに見せられないですよ」
「そう言うと思ったよ。君は越中ふんどしを知らないだろう?」
「あのお祭りの人がする、ねじねじでキュッと締めつけてて、お尻がTバックの白いやつでしょう?」
僕がふんどしを否定した瞬間、松浦さんはおもむろに立ち上がり、「違う! 越中ふんどしというのはこういうもんだ!」
!!!!!!
はいていたジーパンをガッと下ろしたかと思いきや、腰に手を当てて仁王立ち状態の松浦さん。どや顔がすごい。
「ええええ~~~~~~!! 松浦さん、なんですか! それは!」
「中川君、越中ふんどしとはこういうもんだよ。見たことない?」
「ないです! ないです! イヒヒ……(笑いをこらえるのに必死)。で、でも、初めて見ました、そ、そんなふんどし。そんなのもあるんですね」
初めて見た形のふんどしが、思っていたものと全然違ったこと、尊敬する経営者が、目の前であられもない姿になっていること、しかもこれは、会社の会議室で起こっていること……。すべてがシュールでした。
いろんな要素が重なって、気づけば久しぶりに大声を出して笑っていました。
はて? こんなにも笑ったのはいつぶりだろうか。
この後の彼の話に、僕の運命が大きく揺さぶられることになろうとは、この時点では想像もできませんでした。
尊敬する経営者の告白
「越中ふんどしは、ゴムで締めつけないから、血の流れがスムーズになるんだよ」その場で一回転して越中ふんどし姿を披露する松浦さん。何やら誇らしげだ(まだジーパンを上げないのかな……)。
「血の流れ? どういうことですか?」
「パンツだと、腰にゴムのあとがつくだろう? ゴムのあとがつくっていうことは、実は、細い血管が圧迫されていて、血の流れをさえぎっているんだよ。さえぎってしまうと、下半身に血が巡らなくなる。そうすると、ほら、そのあれだよ。わかるだろ?」
「え? どうなるんですか?」
答えはなんとなくわかっていましたが、あえて聞いてみました。
「だから、その……。お、おちんちんにも血が流れにくくなるんだよ!」
「ええ! そうなんですか? パンツのゴムで! へええ!」
「へええ~じゃないよ! これ、結構、大事なことなんだぜ。越中ふんどしはパンツと違って、腰紐をおなかの前でチョウチョ結びするだけだから、ゆるさも自分で調整できる。布だからゴムのあともつかない。血流やリンパをさえぎらないってわけさ。ムスコも毎朝超元気だよ。フフフ」
「チョウチョ結び? ふんどしってネジネジに締め上げるんじゃないんですか?」
「お祭りでよく見る〝六尺ふんどし〟というふんどしは、ネジネジに締め上げるんだよ。だけど日本人が日常的に使ってきたふんどしは、この〝越中ふんどし〟。手ぬぐいサイズの生地と腰紐だけだから、紐をおなかの前でチョウチョ結びするだけで簡単なんだよ。お尻もほら! ネジネジになってないだろう?」
お尻をぷりぷりと見せつけてくる松浦さん。
「本当ですね! 確かにお尻がネジネジになってない」
その場でもう一度一回転して、お尻がTバックになっていないことを見せてくれました(まだジーパンは上げないのかな……)。
腰の横の部分が紐だけなので、多少の違和感があるけれど、確かに思っていたふんどしとはまったく違っていました。おそらく夏はこの開放感が気持ちいいんだろうなぁ。
ジーパンを上げない松浦さんはさらに続けます。
「見ての通り、風通しがとてもいい。だからとっても快適なんだ。意外や意外、女性用もあるんだぜ」
「え!? 女性用ですか? 本当に? それはどうせエッチなやつなんでしょう?」
女性用のふんどしなんてあり得ない。どうせマニアックなコスチュームとしてだろう……。
「違う違う! 一部のナチュラル志向の女性には、受け入れられているみたいだよ。ほら、最近布ナプキンも流行ってるだろ。3年ほど前に「女性用ふんどし」が話題になったこともある。女性も着物の時代、というかパンツがなかった時代には、生理のタイミングもコントロールできていたみたいなんだよ。それが締めつけの強いパンツが普及してから、そういった本来の生理機能を制御できなくなった、とも言われているくらいだよ。ふんどしは血やリンパの流れをさえぎらないから、「冷え」や「むくみ」の改善にもつながるし、デリケートゾーンのかゆみやトラブルにも効果的なんだぜ。男性も精子が減ってると言われてるだろう? パンツになってから男女とも生理機能が衰えてしまったという話だよ。あとね……」
さすがは健康食品を扱う会社の社長だけあって、なぜ健康にいいのかの情報が抜かりない。もうそろそろジーパンを上げてもいいのでは? とツッコミを入れたいところでしたが、真面目に語る松浦さんを前に何も言えずにいました。
ふんどし姿の松浦さんは続けます。
「ふんどしにすると運気が上がるよ」
「ええ!?」
わらをもすがる思いの僕に、運気アップの話はとても興味深い。
「ふんどしの生地にもよるんだけど、麻がオススメ。麻は昔から神様の行事、〝神事〟に使われていた神聖な生地なんだ。その麻を身体の中心に巻くことで、運気が上がるという話もある。それにおなかの丹田の前で、紐をキュッと締める行為そのものにも意味があるようなんだ。ほら、着物や浴衣でも帯を締めると気持ちが引き締まるだろ? それと同じだよ。これって日本人のDNAと関係してるのかもしれないなぁ」
どこからこれらの情報を手に入れたのかよくわからなかったのですが、気がつけば松浦さんの話に興味をもっている自分がいました。
快適で身体にもいいふんどし。しかも運気まで上がる……。
何よりたったふんどし1枚の話で、ここまで会話(コミュニケーション)が生まれるなんて、これは話のネタとして試すだけでも価値はあるな。そう思いました。
「おもしろいですね! 僕もふんどし試してみます。ところでどこで買えるんですか?」
「それがなかなか売ってないんだよ。ネットで探して買ってみて」
確かにふんどしを売っているお店を知りません。デパートの下着売り場、無印良品、ユニクロでも見たことがない。そもそも僕のまわりでふんどしを着用してる人なんていない。
「いやーハマるよ。中川君も試してみな。ぐっすり寝れるから」
「試してみます!」
それにしても越中ふんどしには、試したくなる要素が多い。
血流、リンパをさえぎらないことによる効果効能。
ふんどしを締める、という行為そのものの意味。
何よりふんどし1枚で、ここまでコミュニケーションが生まれたこと。
久しぶりに大声で笑ったこともあって、気分が少し高揚していました。
よし! 話のネタに1枚買ってみるか。
「ところで松浦さん。一ついいですか」
「おう! なんだい?」
「もうそろそろ、ジーパンを上げてください」
「……」
興味深い効能
「実は俺、自分に自信がなかったんだよ」
やっとジーパンをはき直した松浦さんは、続けて話をしてくれました。
「実は俺、もうかれこれ10年くらい、下半身、ほら、男の下半身方面の元気がなかったんだよ。だけど越中ふんどしに変えただけで、自分でもビックリするほど、すこぶる元気になった。あまりにも元気になったから、初日はそれで飛び起きたくらいだよ。越中ふんどしに変えてから、自分に自信がよみがえった。パンツ時代には自分に自信がなかったんだよ……」
ビジネスで成功を収め、普段は家族と車をこよなく愛する経営者が、自分に自信がない!? そんなバカな(だいたいパンツ時代ってなんなんだ……)。
「中川君にはまだわからないかもしれないけど、下半身の衰えって、俺たちおじさんたちにとっては、大問題なんだぜ」
男性機能の衰えというものは、男の自信に直結するものなのか。
仕事で大活躍しているこの社長も、男としての衰えに自信をなくしていたと言う。そんな彼をたった1枚の越中ふんどしが「救った」のだとしたら……。
今までなぜまだ存在するのか不思議だったほどのふんどしでしたが、ちゃんとどこかで誰かの役に立っていて、存在し続ける理由があることを知りました。
ふんどしがもっと広まれば、世の男性を元気にできるかもしれない……。
ただでさえ、東北の震災で日本中がどんよりと暗くなっている今、日本古来の文化であるふんどしが、日本人に元気を取り戻してくれるかもしれない。
もしそうなれば、これはとてもおもしろい。
まだふんどしを試してもいないけれど、このストーリーをイメージするだけで、なんだかワクワクしている自分がいました。
衝撃の快適さ
松浦さんから話を聞いた日、帰宅後、すぐにインターネットでふんどしを探しました。紹介された麻のふんどしを買うとは決めていましたが、他にどんなブランドがあるのか知りたくていろいろ探してみましたが、なかなかありません。
通販で買えるお店ってやっぱり少ないんだな。
小さいお店はいくつかあっても、大手下着メーカーでの取り扱いは皆無でした。
どのお店もまさに〝男〟を強調した見せ方で、商品モデルはでっぷりと体格のいいお兄さんが「どうだ!」と言わんばかりで、お祭りのコスチュームを思わせます。
普段使いの下着っぽく見せているところはなく、なぜふんどしが身体にいいのか、松浦さんから受けた説明のようなものも、見つけることはできませんでした。結局、すすめられたお店で、赤い麻のふんどしを注文。といっても赤か白しか選択肢がありませんでした。
3日後に届いた初めてのふんどし。
手ぬぐいサイズの長方形の生地に腰紐がついているだけ。なんとも潔い。
なるほど、広げるとこんな形なのか。
早速、同梱されていた「締め方」のイラスト通りに締めてみる。
人生初の越中ふんどしでした。
な、なんなんだ! この快適さは!!
素っ裸なんじゃないか! と思えるほど、身につけている感がない軽快さ。
風が股の間を自由自在に通り抜ける通気性。
大切な部分をやさしく包み込んでくれている安心感。
これはただごとではないぞ!
本能が直感しました。
そして、おなかの前でチョウチョ結びをするこの所作が、なんだかとても新鮮です。締め方も予想以上に簡単でした。なんだか難しくて、めんどくさそうなイメージしかなかったふんどしが、こんなにも簡単なものだとは知りませんでした。
5月、風呂上がりの蒸し暑さに越中ふんどしの快適さは、際立って感じました。話のネタにしては意外すぎる快適さ。早速、ふんどし姿をiPhoneで写真に撮って二人にメールで送りました。
一人目の松浦さんは、「お! いいね! 似合ってるよ!」とすぐに返信をくれました。
「ケイジ、おもしろいね! 俺も試してみる!」。二人目の斎藤弘剛(さい とう ひろ たか)さんからも、すぐに返信がありました。この斎藤さんが、将来、ふんどしビジネスで強力なパートナーになるのです。
第3章 うつの発症
電車に乗れない
震災後の東京はそれまでとは違い、どんよりと重い空気に包まれていました。節電のために飲食店から明かりが消え、渋谷の街がまったく別の顔をしていました。引き続き強い余震が幾度もあり、みんなが不安とやり場のない焦燥感を抱えているようでした。
僕自身も明らかに体調が悪くなっていて、以前から続く毎朝の頭痛だけでなく、日中に激しい眠気が襲ってくるようになっていました。睡眠障害でした。
この眠気が襲ってくるともう自制は利かなくなり、一瞬のうちに気を失ったように眠りに落ちてしまう。そして数分後「ハッ!」と目が覚める。実にやっかいな症状でした。
それは仕事中に何度も襲ってきました。会議でこの症状が襲ってきたら最後、一瞬で気を失ったかのように数分間、眠りに落ちてしまうのです。
毎日、朝と会議の直前に、強い眠気覚ましの薬を飲んでいるにもかかわらず、瞬間的に襲いかかる睡魔に負けて、クライアントの前でいねむりしてしまうという、大失態をおかしたこともありました。
会議に参加したメンバーは、「あいつはたるんでいる」とあきれていたと思います。会議中にいねむりしているのですから当然です。
仕事に対するモチベーションも高く、すべての時間を費やしてがんばっているはずなのに、なぜこんなことになってしまうのか……。情けなくて、情けなくて、「自分はなんてダメな人間なんだ」と自己嫌悪に陥っていました。
日がたつにつれ、次第に電車にも乗りづらくなりました。
改札を経てホームまでたどりつくのですが、来ている電車になぜか乗れないのです。足がすすまない。何本か電車を見送った後、「えいや!」と勇気を振り絞って、なんとか乗ることができました。
しかし数日後には電車に乗ることさえも難しくなり、ホームまでは来たものの、家に引き返すことが増えました。
そして、ついに会社に行けなくなりました。
まさか自分が……うつの診断
「遷延性(せん えん せい)うつ病です。中川さん、自宅もしくは一番気持ちの安らぐような場所、そうですね、ご実家とかでゆっくり療養してください。ゆっくり焦らず治療していきましょう」
もしかして、精神的なものが原因なのかもしれない……。
いっこうに治まらない症状に、心療内科の門を叩いた時、こう診断されました。正直、当時は「うつ病は、弱い人間がなるものだ」と思っていたので、とてもショックでした。
カウンセリングでは、仕事ができず誰の役にも立てていないこと、成果を出せていないから自分の意見すら言えないこと、自分は何をやってもダメだと信じ込んでしまっていることを素直に話しました。
先生は「うんうん」とうなずきながら、やさしく丁寧に話を聞いてくれました。
妻にも話せなかった情けない自分の本心を語るうちに、蓋をしてきた感情が一気にあふれ出し、大粒の涙があふれてきました。
普段、感動的な映画を観てもそれほど涙の出ない自分が、人前でこんなに泣くことになるとは思ってもいませんでしたが、恥ずかしくありつつも、少し気持ちがほぐれてきて、なんとも言えない不思議な感覚でした。
「でも、先生……休むって会社をですか?」
「もちろんそうです。とりあえず来月から最低でも数ヶ月、会社をお休みしてください。場合によっては、半年くらいはかかるかもしれません。今、診断書を書きますので」
「……先生、本当に、う、うつ? で、ですか? ぼ、僕が?」
「はい。そう診断せざるを得ません。ゆっくり治療していきましょう」
「い、いや、そういうわけにはいきません。今、会社を休んだら会社の……」
会社のみんなが困る……と言いかけて止めました。
「困る!」と自信をもって言えませんでした。
「中川さん。あなたは責任感が強いようだから、ハッキリ言いますね。これはドクターストップです。休むことが今の中川さんにとって重要な〝仕事〟です。だからここで十分に休息してください」
「いや、先生。僕はまだ何もできてなくて……」
「中川さん。ここまでがんばってきた自分を責めてはいけません。むしろこんなにがんばった自分を褒めてあげてください。気持ちはよくわかる。だけどもう、身体が悲鳴をあげてるんですよ。身体が休みたいって、ゆっくりしたいって。身体の声に正直に耳を傾けてあげてください。あなたはまだまだ若い。体調がよくなってから、また挽回すればいい。いくらでもできますよ、中川さんなら」
これからの生活はどうすればいいんだろう……。
会社にはどう説明すればいいんだろう……。
僕がうつ?
結婚して間もないのに、旦那がうつで働けないなんて、妻はどう思うんだろう……。
でも不思議なことに、心のどこかで「これで明日から会社に行かなくてもいいんだ」という安堵感を感じたのも事実です。この頭痛などの症状は精神的なものかもしれないとうっすらと気づいていたものの、弱い自分を認めたくなくて、今まで自分の心の声とは向き合ってこなかった。それを医師に指摘されたまでのことでした。
社長には面と向かって説明できる自信がなかったので、まずはメールで症状と休職の希望を伝えました。その後、「わかった。みんなには時機を見て話しておく。会社のことは心配しなくていい。ゆっくり休みなさい」と言ってくれました。細かく根掘り葉掘り聞いてこないやさしさを、本当にありがたく思いました。
最低限の荷物整理をして、同じプロジェクトにかかわっていた先輩にだけ、自宅療養に入ることを伝えました。「最近、様子がおかしいと思ってたんだよ。心配しないでゆっくり休んでよ」と先輩もやさしい声をかけてくれました。
会社に行かなくてもいいとホッとしている自分もいながら、同時に社会を生き抜くスキルなんて何ももち合わせていない僕は、「これからどう生きていけばいいんだろう」という絶望にも似た感情でいっぱいでした。仕事もできない人間が、半年間も自宅療養なんてしたら、もう会社に自分の居場所なんてなくなるだろうと感じていたのです。こうして2011年6月から、自宅療養期間に入ることになりました。混乱と情けなさと、かすかに安堵感を感じながら。
自宅療養の日々
「大丈夫。ケイちゃんはゆっくりしてていいんだよ。私も働いているんだから、贅沢しなきゃなんとかやっていけるよ。ケイちゃんは何もしない。ね! わかった?」
自宅療養に入ってから、毎朝のように妻が、言葉を選んで励ましてくれました。僕の思いを察してくれるやさしさに、救われていました。
数ヶ月、いや、もしかしたらもっと長い期間、自宅療養をせざるを得ないという診断でしたので、これ以上、会社に迷惑はかけられないと、その間の給与をストップしてもらうよう会社に申し出ました。またいつか復職できたら、その時はお願いしますと。ですので療養中は、実質、妻の稼ぎだけで生活をしていかなければなりませんでした。
朝、妻の出勤を見送ってから、特に何もしない生活。何もする気が起きません。おなかがすいたら適当に昨夜の残りものと冷凍ご飯をチンして食べる。
ベランダに出てはマンションの下を通る人を指折り数えてみたり、1日に何度も植木に水をあげたり、お昼のワイドショーを流しながら昼寝をしたりして過ごしていました。そんなまさしく「何もしない」生活を、しばらく続けていました。
何かを吸収しようという意思ももてず、手もち無沙汰感と無気力感しかなく、まさに抜け殻状態でした。お医者さんにも自然に何かしたいという感情が出てくるまで、何もせずにただただゆっくりしてください、と忠告されていたので、「きっとこれでいいんだ」と無理矢理自分を納得させていました。
自宅で療養しはじめて間もない頃は、何もしない生活を送っている自分を責めていました。「仕事ができない上に精神力も弱いからうつ病になった。もう社会復帰すらできないに違いない」と、そう思い込んでいたのです。
こんな情けない人間が、この先、一人前の社会人としてやっていけるのか?
病気が治ったとしても、誰の役にも立てず、家族すら食べさせてやれないのではないか? 気がつけばネガティブなことばかり想像してしまって、将来を明るく前向きにイメージすることなんてできませんでした。
逃げていいんだ
そんな時、自身を「連続起業家」と名乗る、家入一真さんのツイート(Twitterのつぶやき)に励まされていました。
「自分を犠牲にして追いつめられるくらいなら、いつだって今の場所から逃げてもいいんだよ」と語る家入さんは、高校中退から大学受験に失敗、にもかかわらずIT企業を立ち上げ、短期間で、しかも最年少記録で上場を果たしたIT業界のカリスマです。
震災後ということもあり、みんなが生きること、働くこと、これからの将来に対しての価値観が大きく変わりつつある、そんな状況の中で、家入さんの「逃げていい」というメッセージが心に響きました。
「そうか、今の現状から逃げ出してもいいのかもしれない……」。家入さんからの力強いメッセージは、僕の心を確実に軽くしてくれました。
自宅療養も1ヶ月が過ぎ、7月の上旬になると、少しだけ「本を読みたい」と思えるようになってきました。単純に写真や絵など、仕事に関係のないものなら見てみたいという欲求でした。
近所の図書館にふらふらと行っては、パラパラと新聞を読んだり、ファッション雑誌をめくったり、手塚治虫の漫画を読んだりしました。
図書館で思いつくままに好きなものを〝めくる〟行為をしてみると、自然と本来の読書の楽しい感覚がよみがえってきて、その時間だけは穏やかに過ごせたのです。
その後、少しずつですが、図書館以外の場所にも歩いて行けるようになってきました。最初は近所のスーパーに夕食の買い物をしに行く程度でしたが、慣れてくるとわざわざ少し遠くの魚屋に寄ってみたり、おばあちゃんたちで賑わう巣鴨の「とげ抜き地蔵」まで散歩することが日課となりました。
気持ちが安定している時は、小さなお花を買って帰るようにもなりました。少しずつではありましたが、生活に色を添えたいと思えるようになっていたのです。当初と比べると大きな変化でした。
その頃、図書館での読書にも変化が起こっていました。
最初は新聞や雑誌をぱらぱらとめくるだけだったのに、日を追うごとに少しずつではありましたが、小説や「働き方」に関する本にも手が伸びるようになっていました。特に後にご縁をいただくことになる、脚本家であり放送作家の小山薫堂さんや、面白法人カヤックの柳澤大輔社長の書籍は何度も読みました。アイデアの出し方や、楽しく働くためのヒントがたくさん詰まっていたからです。
相変わらず自己批判の感情はもちつつも、「これからは自分の力で生きていかなければ」と少しずつ前向きに考えることができるようになっていました。
「うつ」になる人は特別弱いわけではなく、誰だって患う可能性がある病気だということも、この頃知りました。だとしたら「うつ」を患った自分を「これも個性なんだ」と受け止め、この個性を活かしてどう生きていくかを模索したいと、思えるようになりました。
会社に行けなくなったのは「病気」だったからなんだと、無理をしていた自分をかばう感情も少しずつ湧いていました。定期的に通っている心療内科の先生も「これは大きな一歩ですよ。中川さん、とてもいいですよ!」と褒めてくれました。
まわりのことが見えず、盲目的な仕事の取り組み方をしていた僕は、ただ漠然と会社に必要な人間になるために、どうすればいいのかだけを考えてきました。
しかし自分の性格上、組織に属すこと自体が性に合っていなかったのではないか……。振り返れば昔から、一人で活動する方が力を発揮できていたじゃないか。療養期間をぼんやりと過ごす中で、少しずつ、客観的に自己分析ができるようになっていました。自分のすすみたい道と、選んだ道との間に大きなギャップがあったことが、根本原因としてあったのかもしれない。冷静さがよみがえり、うつになった原因と、その解決策を見つけられたような気がしました。
ふんどしがくれたワクワク感
図書館での時間、本との出会いが、僕を少しずつ変えてくれていました。
何か新しいこと、自分にしかできないようなことを見つけたい、とぼんやり考えるようになっていました。思考が少しずつ前向きになっていることも自覚できました。
ある時ふと思い出し、以前買ったふんどしを締めてみることにしました。
実は一度締めてみたものの、ついいつものクセで、その後はパンツをはいていたのです。久しぶりに締める越中ふんどしは、やっぱり快適でした。お風呂上がりだったこともあり、以前より断然快適なのです。
日中にはいているパンツを脱いで、お風呂上がりからは越中ふんどし。
快適さもさることながら、1日のONとOFFとのメリハリが、この着替えを境に生まれることにグッときました。34歳にして初めて生活に取り入れるふんどしにワクワクしていたのです。
しばらくお風呂上がりの越中ふんどしを続けようと、追加の注文をするため、インターネットのあらゆる通販サイトでふんどしを探しました。
「ふんどしって商品自体が全然ないんだなぁ」。いくつかショップはありましたが、デザインも種類もとても少ないのです。それぞれのお店から数枚注文してみましたが、強く感じたことがありました。
「もっとおしゃれなふんどしがあればいいのに」
ふんどしの既存の凝り固まったイメージを払拭することができるくらい、おしゃれなものをつくることができたら、ふんどしは世の中に広がるんじゃないか。この快適さは間違いないし、きっと受け入れられる。ひょっとしたらふんどしはビジネスになるかもしれない。直感的にビビビッと感じました。
ほぼゼロに近いふんどし人口の将来性って、実は計り知れないほど大きなものなのではないか? たまたままだ誰も気づいていないだけで、このビジネスチャンスに誰かが本気で動き出してしまったら、きっと先を越されてしまう。
そのうち大手が圧倒的な資本力で席巻してしまうかもしれない。
誰かがやりはじめる前に、1日でも早くはじめなければ。
「おしゃれなふんどし」を世に出したい。
世の中的には、まったく注目されていなかったふんどしの可能性を知ってしまった僕は、急にいてもたってもいられないほどの焦りを感じました。
人生で一番大きな決断
自宅療養期間も2ケ月が過ぎた8月の末、新たな一歩を踏み出したいという気持ちと、おしゃれなふんどしを世に出したいという思いが強くなり、抑えきれなくなっていました。
ただ、体調がよくなり復帰できるようになったとしても、会社に戻るのではなく個人で活動していこうという、ハッキリとした意思もありました。
しっかりとした売上を上げることなんて、いつになるかわからないような事業を会社でできるわけがない。そしてもう一つは、この直感的な思いつきはスピード感が命で、だとしたら僕自身が即行動に移せる環境でなければ成功しないと思ったからです。
退職し、起業する。
自分ができること、本当にやりたいこと、そしてそのことで、誰かが喜んでくれることをやって生きていくんだ。すなわち「ふんどし」ビジネスに挑戦するんだ!と揺るぎなく強い決心をしました。
退職し起業するなんてもちろん大きなリスクですが、このまま会社に残ってもそれはそれでリスクがあります。どうせ同じリスクを負うなら、すべての責任を自分で背負える独立を選ぼう。働くことすべての責任とリスクを、自分で背負う覚悟を決めました。
自分ならこの埋もれていたふんどしのよさをきっと世界に広められる。
ふんどしに助けられた僕がやることに大きな意味があるんだ。
組織を離れる決心をした途端、「きっと自分ならできる」と、根拠のない自信が芽生えはじめていました。
お墓の上で舞うヒバリ
自宅療養で少しずつ回復の兆しが見えてきた頃、妻を東京に残し、一人で1週間ほど、兵庫県の実家に帰ることにしました。
母親には「急に休みが取れたから」と嘘をつきました。
普段は年に一度帰るか帰らないかのくせに、急に1週間も帰る、しかも一人で、と言うので、両親は「妻と何かあったのではないか」と心配していたようですが、その心配がないことがわかると、特に何を聞くわけでもなく、やさしく受け入れてくれました。
今回の帰省は、骨休めとお墓参りに行くことが目的でした。父方の両親、母方の両親が眠るお墓に、初めて一人で行くことにしたのです。
母方の祖父母のお墓は、実家からかなり離れた神戸の端っこにあります。電車を乗り継ぎ、やっと駅に着いても、墓地までのバスは平日に3本ほどしかありませんでした。
駅に着くとその日のバスはもうないことがわかったので、墓地まで歩いていくことにしました。ゆうに1時間は歩く距離ですが、幸い時間だけはたっぷりあったので、澄んだ空気の田舎道をゆっくり散歩することにしました。
山あいにあるこの墓地は、広大で見晴らしもよく、ピクニックができるような場所でした。平日の昼間なので、広大な敷地には僕くらいしかいません。
じっくりと時間をかけて墓石を拭き、草むしりをし、母から手渡された祖母の好きだった美味しいラスクと、祖父の好きな日本酒をお供えしました。
たくさんの従兄弟がいる中で飛び抜けて年下だった僕は、母方の祖父母にとても可愛がってもらいました。じっくりと話すことのないまま他界してしまったけれど、大きな決断をしようとしている今、僕の話を聞いてほしいと思ったのです。
「おじいちゃん。おばあちゃん。心から挑戦したいことができた。ふんどしだよ。あのふんどし。ふんどしで僕が元気をもらったように、きっとたくさんの人を元気にできると信じてる。僕にしかできないことを、初めて見つけた気がしてるんだ。お兄ちゃんの役には立てなかったし、迷惑しかかけてないけど、これからは一人で挑戦したいと思ってる。ねえ、おじいちゃん。家族にひびが入らないように見守ってもらえないかな? ねえ、おばあちゃん。僕の挑戦を応援してくれないかな?」
誰もいない広大な墓地で誰に遠慮するでもなく、墓石に語りかけました。自分の決心をしっかりと報告しておきたかったのです。
10分くらいたった頃でしょうか。
「ピーチュル、ピーチュル」と鳥のさえずりが聞こえてきました。
空を見上げれば澄み切った青空に、一羽のヒバリが円を描くように飛んでいました。
僕は、その場で仰向けになって、しばらくそのヒバリを眺めていました。
「ケイジの決断は間違ってないよ。家族だって大丈夫。だから安心して思うようにやってごらんなさい」。そんな声が聞こえてきたような気がしました。
思いもよらなかった妻の一言
退職、そして独立への思いが日に日に強くなっていた頃、妻が「有休を取るから旅行にでも一緒に行かない?」と提案してくれました。
「国内でもいいけど、平日なら安いから、のんびりと美味しいものを食べに韓国なんてどう?」と妻。
「行きたいけど、お金が……」と言いかけた僕を制するように「私のへそくりが少しあるから心配しないで」と妻は笑ってくれました。気分転換という意味はもちろん、妻に自分の気持ちをしっかりと伝えるいい機会だと思いました。
結局、二人で韓国のリゾート地、済州(チェジュ)島に、2泊3日で行くことに決めました。自然が多く、海の幸も美味しいとのこと。そして何より旅費が安いのです。
現地ではガイドさんの車にゆられ、絶景ポイントや観光スポットを案内してもらいました。天気もよかったのでプチ登山をしたりして、久しぶりにしっかりと身体を動かしました。もちろん楽しみにしていた、美味しい焼き肉やアワビのおかゆ、海鮮鍋なども堪能しました。
旅行中は久しぶりに二人でよく笑いました。写真もたくさん撮って、これ以上の気分転換はありませんでした。
ですが心のどこかで不安もありました。
今晩、彼女に話す、会社を辞めて独立するという決意。
しかも転職ならまだしも、お金もない、人脈やノウハウもない上、「ふんどしで起業したい」と言うのです。
僕の決意を話せば、現実的で堅実な彼女はきっと大反対するだろう。
夕食時は避けよう。きっとせっかく予約までしたサムゲタンの手が止まってしまう。退職のことを言った瞬間から、口をきいてくれない可能性もある。せめて今晩の夕食くらいは2人で楽しく美味しく食べよう。
食事を終えた時、意を決して「甘いものでも食べようか」と妻をカフェへと誘いました。反対されても、もう決めたこと。誠心誠意伝えよう。それしかありませんでした。
「実は、今後のことで話したいことがあるんだけど……」
ケーキはとっくに食べ終わり、コーヒーも飲んだ。もうホテルに帰ってもいいくらいのタイミングでやっと切り出すことができました。
妻は黙ってこっちを見ています。
「じ、じ、実は、か、かい、会社をや、うゃ、や、、辞めようと思う」
僕は続けます。
「お、俺は、組織の中にいるんじゃなくて、個人名で勝負できるような、そんな働き方をしていきたい。うつになって、自分のことがよくわかったんだ。し、しばらくは大変だと思う。お金もないし、なんかいろいろ、迷惑もかけると思う。めぐ(奥さんの呼び名)を不安にさせてしまうと思う」
妻は僕の目をじっと見つめたまま聞いています。僕は続けます。
「組織にいる時にはできなかったようなこと、俺がしたことで誰かが笑顔になれるような、そんな仕事をつくりたい。『あの時、大変だったけど、決断してよかったね』って、いつかめぐに言ってもらえるようにがんばる。だから……う~ん……なので……会社を辞めて独立するけど、いいかな?」
妻は何も言わず、少し沈黙がありました。たまらず「ふ、ふんどし。ふんどしで起業したいと思ってる。ふんどしが広まれば、俺や松浦さんが元気になれたように、きっとたくさんの人を笑顔にできると思う。今までのイメージを変えるんだ。めちゃめちゃおしゃれなやつつくって!」
興奮していて、上手く伝わったかどうかなんて、考える余裕はありませんでした。長く感じる短い沈黙。しかし、予想していた妻の反応は意外なものでした。
「いいよ」
「……へ?」
「っていうか、いつ辞めるのかなーって、ずっと思ってたし」
「え? へ?」
「いや、だから、いつ辞めて独立するって言うのかなって。実はずっと前から待ってたんだよ。ほら、こういうのって自分で決めなきゃダメなことでしょう? 私が『もう会社辞めたら』って言う話でもないし。もう十分がんばったよ。無理をして身体まで壊したんだもん。だけどもう限界でしょ? ケイちゃんが決めたのなら、もちろんいいよ。応援するよ」
「???」
「ケイちゃんは組織には向いてないよ。向いてない、向いてない(笑)。組織の中で働くっていうのは、何か違うんだよね。だって頑固だし、こだわりも強いじゃん。人に合わせたり、まとめたり、調整したり苦手でしょ」
「うん」
「一見、マイナスに思える特徴も、裏を返せば長所でもあるんだよ。ケイちゃんの独特のこだわりとか、すごくいいと思うよ、私は」
思っていた反応とまったく違っていました。
僕自身、豆鉄砲を食らった鳩のような顔になっていたのでしょう。妻がやさしく続けます。
「なんでそんなにビックリしてんのよ(笑)。私も働いてるんだし、病気が治ったら自分でやってみればいいじゃん。ふんどしでも何でも、まあ、何とかなるよ」
「そ、そう? ありがとう……。めぐの反応があまりにも思ってたのと違うからビックリしちゃって。本当にありがとう。今が人生の中で一番しんどい時期かもしれない。だけど数年後には、きっと笑って振り返られるようにしてみせるから」
すると、大きくうなずいた彼女はこう言いました。
「ケイちゃんなら大丈夫だよ。あなたは個性を出して輝く人。きっと大丈夫。絶対成功する。私が保証してあげる。大丈夫。必ず成功する」
少しだけ、時が止まったように感じました。
その後、妻は続けて、大きな声で店員を呼びました。
「チェックプリーーズ!(お会計お願いしまーす!)」
カフェを出て、ふと彼女を見ると、晴れ晴れとした表情の中に、肝の据わった目をしていました。
彼女も不安に違いない。だけど、そんな様子を僕に見せまいとしてくれているのを感じました。僕のわがままな決断に、何も詮索することもなく、ただただ背中を押してくれたのです。
彼女を幸せにするためにも、早く安心させるためにも、僕自身がダメだった過去と決別し、生まれ変わる必要がありました。
ホテルへの帰り道、
僕たちはいつもより強く
手をつなぎました。
第4章 たった一人での起業
ステテコだって広まった
「24時間、誰よりもふんどしのことだけを考えて、世界NO.1のふんどしブランドをつくろう!」
自宅療養中にふんどしについていろいろと調べてみると、現状、ふんどしの普及率、愛用者数からしても、ふんどしの販売だけで、ビジネスを成立させているブランドはありませんでした。それなら自分が100%ふんどしオンリーのブランドをつくればいいじゃないか。その方が専門性が出せる。そう考えました。
世界でもまだないふんどしだけのブランドをつくろう。
ふんどしのよさを世界中に広めるんだ!
そこには、とてもわかりやすい成功事例もありました。
おしゃれな「ステテコ」の躍進です。
ステテコもかつては白色しかなく、完全におじさんだけのモノでした。
しかし、今はどうでしょうか。カラフルになり、スタイリッシュな魅せ方をするブランドが誕生した途端、たちまちブームになりました。しかも、一過性のブームで終わるのではなく、夏の必須アイテムとして、確実に日本中に浸透しました。今やユニクロまでもステテコを展開しています。
「同じことをふんどしでも、きっとできる!」。ふんどしだってステテコ同様、新しい価値観を打ち出せば、きっとこのよさをわかってもらえる。ビジネスにできる。
遠山さんからの「手紙」
退職。そして起業。しかもふんどしで。
絶対成功するはずだ! という根拠のない自信。
ですがやっぱり心のどこかでは、不安でしかたがない部分もありました。
前例のないことに挑戦しようとする。この決断は正しいのだろうか。
一人ならまだしも、妻がいる。
現実は、そんなに甘いものではないわけで、一人で舞い上がってしまっているだけなのではないかと、不安に押しつぶされそうな夜もありました。
そんな時、雑誌『Pen』に目がとまりました。
特集は「心を揺さぶる手紙」。
各界の〝手紙名人〟が、誰かに手紙を書いて、公開するという企画でした。
小山薫堂さんやデーブ・スペクターさん、落語家の柳家花緑さん、クリエイティブ・ディレクターの箭内道彦さんなど、各界で活躍する僕の好きな人ばかりが登場し、大切な人に宛てた手紙を公開していました。
その中に僕の尊敬する経営者、株式会社スマイルズの遠山正道社長が、社員のみなさんに宛てた手紙が公開されていました。
遠山さんは食べるスープの専門店「Soup Stock Tokyo」をはじめ、ネクタイブランドの「giraffe」、新しい形のリサイクルショップ「PASS THE BATON」を運営する株式会社スマイルズの社長。
遠山さんの著書『スープで、いきます』(新潮社)は何度も読んでいたし、手軽で安心できるスープ専門店「Soup Stock Tokyo」には、以前から何度も通っていました。
僕はそう、遠山社長の仕掛けることに、いちいちファンにならざるを得ないくらい、そのセンスと既存のイメージをデザインや魅せ方で変えてしまうビジネスのすすめ方に、強い憧れをもっていました。
「いつか遠山さんのような仕事をしてみたい。そしていつか遠山さんと一緒に仕事をしてみたい」そんなことを夢見ていたのです。その遠山さんが社員にどんな手紙を書くのだろうか……。ワクワクしながら、ページをめくりました。
「おつかれさまです。みなさんお元気ですか?」
こうはじまる、やさしい文字で書かれた手紙。
ゆっくりと読みすすめると、彼からのメッセージは、やる気と不安が入り交じる僕の心にすぅーとしみ込んできました。
遠山さん率いるスマイルズ社の社員のみなさんに宛てて書かれたはずのメッセージでしたが、不思議と今の僕自身に宛てられた手紙のように感じました。
退職を決断したこと、そしてふんどしで生きていくと決心したことすべてを肯定し、「その判断は間違ってないよ」とやさしく応援してくれているようでした。読み終える頃には、自然と涙が頬をつたっていました。
自分の決断。そしてそれにともなう大きな不安。
「ふんどしで誰かを元気にしたい」という僕の想いを、本当に実現することができたら、自分だって世の中だってうれしいに決まってる。
新しいことをはじめる不安はもちろんあるけれど、やった人だからこそ得られるものがあるんだ。
何より今が大変でも、信じた一歩を踏み出せば「神さまからのオマケ」がついてくるらしい。自分の決断はやっぱり間違っていないんだ。
遠山さんから、ポンっと背中を押してもらえた僕は、その後、一切の迷いや不安はなくなりました。これ以降、前のめりでふんどしビジネスに突っ走ることになるのです。
勇気をもって
踏み出した
僕の小さな一歩。
わずか30万円の軍資金
独立するといっても、お金なんてありませんでした。
休職中は僕に収入はなく、妻の収入だけで切り詰めた生活をしていました。
月の食費を2万円以内に抑えるため、スーパーで特売品を狙って買いに行ったり、野菜が1円でも安ければ、歩いてでも別のスーパーに行きました。
妻が外で働いてくれている間、僕は家事全般をしていました。まさに主夫です。
切り詰めた生活をしていることを知っていたのか、たまにお互いの実家から、野菜や食べ物が届きました。「生活は大丈夫なのか?」と聞いてくることもなく、さりげないやさしさがとてもありがたかったです。
貯金もすでに底をつく寸前でした。起業するからといって、すでにリタイアした両親に頼るわけにもいかない。そもそも身内や友達にお金を借りることだけはすまいと決めていました。
引越をするために、毎月2人でこつこつと積み立てていた30万円の貯金がありました。結婚してからもずっと一人暮らし用の1Kのアパートに2人で住んでいたので、近い将来、もう少し大きめの部屋に引っ越すためのわずかな貯金でした。
「さすがにこれに手をつけてはいけない」と、何も言わず他の手を模索していましたが、またしても妻が救いの手を差し伸べてくれました。
「この30万円、ケイちゃんに預けるよ。引越はまたお金が貯まったら。でもきっといつか返してね。利子は高いんだからね」
そう言って通帳を僕に預けてくれました。
「1円も無駄にしない。必ず何倍にもしてみせる」
妻と固く約束をし、軍資金30万円の通帳を握りしめました。
元手30万円。ここからはじまる独立起業。
この予算内でビジネスをすすめるしかない状況でしたが、逆にここから展開できれば小さく起業するロールモデルになれると、前向きに考えました。
「お金がないからできない」と言い訳したくなかったのです。
「売れるわけがない!」まわりの反対
療養期間中に退職を決意し、ふんどしビジネスを立ち上げて独立する決心をした僕は、2011年10月末日、正式に会社を退職しました。
今まで仕事上のお付き合いをさせてもらっていた方々に、退職のご挨拶回りをしました。
「ねえ、やっぱり社長と喧嘩しちゃったの?」
「いえいえ、僕のわがままで退社させてもらいました」
「ふぅん、そうなんだ……。で、辞めてどうするの?」
「はい、これからは自分でやっていこうと思います。今、『ふんどし』に可能性を感じていて、ふんどしでビジネスをしようとアイデアを練っています」
「……ふんどし?」
「はい。越中ふんどしというタイプのふんどしがあって、本当に快適なんです。
越中ふんどしというのは、ゴムの締めつけがなくて……」
「いや、ふんどしなんて売れないでしょう。誰が買うのよ」
「はい。ふんどしの快適さを知らない人に向けて発信します。健康やおしゃれに敏感な若い人、僕と同じ世代をターゲットにした……」
まだ説明の途中でしたが、「ケイジ君。今、どこも厳しいんだよ。ふんどしなんて難しいと思うよ。ふんどしなんてしてる人まわりにいるの? いないよね? お祭りの時しかニーズはないでしょう? ちゃんとマーケットを調査した? ちょっと甘いんじゃないかなぁ。奥さんもいるんだからさあ」
「え、いや、はい……」
ほとんどの人からは、「ふんどしなんてビジネスになるわけがない」と反対されました。以前の僕であれば、「そうかなぁ……」とネガティブにとらえたと思いますが、この時は逆に、「これはイケる!」と自信がつきました。
なぜなら反対意見をくれる人たちのうち、誰一人として越中ふんどしの快適さを知らなかったからです。
彼らがもつ、ふんどしへの「快適なはずがない」「お祭りの時だけのコスチューム」「めんどくさい」などのイメージを、大きく覆すことができたら、一度でも試してもらう機会をつくれたら、きっとそのギャップに驚くに違いない。
かつての僕がそうであったように、ふんどしへのハードルが高ければ高いほど、身につけた時の快適さに驚くことを知っていたからです。このギャップにこそ、今後、ふんどしが大きく広がる可能性があると、この時ますます自信を深めたのです。
第5章 おしゃれなふんどし SHAREFUN® 誕生
力強いパートナー
「独立して起業する」と言うとカッコいいですが、資金は30万円、事務所も、お金もコネもないところからのスタートです。
ほぼ何もない状況の中で、一人だけ、この事業のことを相談できそうな人がいました。
斎藤弘剛さんです。
僕が初めてふんどしを締めた時、写真を撮って送った人物です。
彼は6歳年上のお兄さんタイプで、大学時代からの知人。長いおつき合いをさせていただいていました。彼も数年前に一人で事業を立ち上げ、WEBデザインや、飲食店のプロデュースなど、幅広く事業を行っていました。
持ち前の明るい性格で、どんなに苦しい時でもニコニコとまわりの人間を励まし、プロジェクトを成功に導く、仕事ができ、かつ人望のある方です。
そんな彼がさまざまな出会いの中で、京都の老舗和装小物メーカーの取締役に就任し、「ものづくり」に挑戦していたのです。
「斎藤さんならふんどしをおもしろがってくれるかもしれない」
その予感は的中しました。写真を送った後、「おもしろそうだね。一度試してみるよ」と、彼も実際にふんどしを購入し、試してくれていました。
「こんなに快適だなんてビックリした。ケイジ、これは可能性があるよ。もし、これに本気で取り組むなら、製造の面で協力できるかもしれない」
彼が実際に試したその肌感覚で、強い興味をもってくれました。そして僕の決意とふんどしにかける熱意を「うん、うん」と楽しそうに聞いてくれた上で「一緒に挑戦したい」と言ってくれました。
「斎藤さん。どうせやるなら、僕は圧倒的なNO.1のふんどしブランドをつくりたいんです。日本だけでなく世界を目指したい。だから細かいところまで、徹底してこだわりたいんです」
「だったら素材は、リネン(亜麻)が最適だと思う」と、麻の中でも目の細かい最高級のリネンでつくってはどうか、と提案してくれました。さらに「リネンの中でも特にいいのがある」と。
そして早速、京都の職人さんに、サンプルのふんどしを数枚つくってくれるよう指示をしてくれました。
究極の素材「風のリネン」
「これ、す、すごくいいですね!」
斎藤さんがもってきてくれたリネン(亜麻)のふんどしは、今まで試してきたふんどしと比べると、明らかに肌触りがよく、締め心地のいいものでした。
「リネンの中でもこれは特にこだわってる。染色の段階で、何度も何度も風に当てて風合いを出しているんだ。だから同じリネンでも、手芸屋さんで簡単に手に入るような、薄いぺらぺらのものとはまったく違うんだよ。少し値は張るけど世界NO.1のブランドを目指すなら、この〝風のリネン〟がベストだと思う」
確かに他の麻でつくられたふんどしとは、肌ざわりがまったく違いました。つくりたてのサンプルは、意識して何度も何度も洗濯しましたが、その度に柔らかく、肌に馴染んでいくのです。
リネン(linen)は亜麻を原料としてつくられた織物。
麻の仲間ですが、「麻」と呼んでいるものには「ヘンプ」「ジュート」などがあり、その中で一番柔らかく、肌ざわりのよいものが「リネン」です。
リネンは麻と混同されがちですが、麻よりも柔らかく、かつ強靭で上等。
通気性・吸湿性に優れていて、肌触りがいいことから、高級な衣類に使用されることが多い素材です。
リネンはコットンの4倍もあるという吸水性と発散性、防菌や防カビ効果もあり、しかも汚れが落ちやすく、洗濯にも強い耐久性を兼ね備えたまさにふんどしに最高の素材でした。
「ただ資金がなければ生地は買えない。工場も動かせない。ケイジ、資金はどのくらい出せる? 俺もできるだけ用意できるようにするから」
当然、最高の素材を購入する資金と、工賃は必要です。
歴史のあるメーカーでつくってもらうので、生地代と職人さんへの工賃などを合わせれば、まとまった額のお金の準備はあってしかるべきなのです。
だけど、お金はありません。
銀行から融資を受けられる信用もありません。
お金を集める打開策を数日間考えに考えましたが、有効なアイデアは浮かびません。だとしたら方法は、一つしかありませんでした。
老舗メーカーへの熱意のプレゼン
製造メーカーの社長さんに正直にお願いしてみよう。それしかない。
「斎藤さん、京都にいる社長さんに直接会わせてもらえませんか? 事業を一緒に進めるためにプレゼンをさせてほしいんです」
お金もコネもない僕の唯一の武器があるとすれば、「ふんどしへの熱意」しかありません。僕自身に投資してもらうしかないのです。
製造メーカーの社長に僕の本気の熱意を伝えたい。その上で具体的な交渉に臨みたいと考えたのです。日程が決まり、僕たちはすぐに京都に向かいました。
予想に反して社長の平尾さんは、とても若く、斎藤さんよりも年下でした。初対面であったにもかかわらず気さくに接してくれて、真剣に僕の話を聞いてくれました。事前に斎藤さんが僕のことを話してくれてもいたようでした。
自分はふんどしによって助けられたこと。
身体にいいこと、ふんどしのイメージを大きく覆したいこと。
世界NO.1ブランドを目指したいこと。
そして。
ふんどしで日本を元気にしたいということ。
気づけば前のめりで熱く語っていました。
「だけど平尾さん。今は原材料を買うお金の用意がありません。でも必ず売ってみせます。なんとか協力してもらえませんか?」
プレゼンの最後に自分の財政状況を話し、正直にお願いをしました。すると平尾社長は少し考えた後、ぱっと明るい笑顔で、「中川くん。おしゃれなふんどし、うちからもお願いするよ。ぜひ一緒にやらせてほしい。生地の調達も、職人の手配も、縫製も、すべてうちが責任をもってすすめます。お金のことは斎藤さんのところとうちでなんとかするから心配しなくていい。一緒にやりましょう」
こうしてお金もなんの保証もない僕を、京都の歴史ある老舗メーカーが、全面的にバックアップしてくれることが決まりました。
「中川くんの熱い想いが
あれば必ず広まるよ。
おもしろい。
やってやろうじゃないの」
「今夜はパーティナイト」
ブランドの名前は、わかりやすく、広がりやすい名前にしようと考え、〝おしゃれなふんどし〟だから「SHAREFUN(しゃれふん)」にしました。
のちに友人に「これって『シェアファン』って読むの?」と聞かれましたが、聞かれて初めて、SHARE(分かち合う)+FUN(楽しさ)になることに気づきました。ふんどしを広めたいという想いと、ブランド名が重なり、偶然にも2つの意味をもたせたネーミングをつけることに成功したというわけです。
「しゃれふん」は平尾さんのご厚意に甘え、まず最初に全10種、計100枚つくっていただくことになりました。
各アイテムには、下着らしからぬ名前をつけました。たとえば「恋はミントチョコレートのように」とか「今夜はパーティナイト」、「真夜中の危険な恋」「風に吹かれて気分屋男」……など。名前は適当につけたわけではありません。生地の色と帯柄を何百通りの中から、ああでもない、こうでもないと頭を悩ませながら組み合わせて、そこに生まれるイメージをネーミングに落とし込みました。
京都でサンプルはつくったけれど、納得がいかず泣く泣く商品にしなかったものもありました。いざ、ふんどしの形状になって戻ってくると、どうしてもイメージとは違っている場合があったのです。
京都のメーカーには迷惑をかけてしまいましたが、平尾社長は「中川君が納得いくものだけを販売すればいい」と言ってくださいました。
厳しいダメ出しから感じた愛情
かつて、雑誌『BRUTUS』で著名人や経営者へのインタビューが掲載されていたことがありました。著名人それぞれが、同じ質問に回答していく企画です。そしてその最後の質問は「あなたに会うにはどうすればいいですか?」というものでした。
その中で僕の憧れの存在である遠山正道社長の回答は、「チャーミングなことをしていればいつか会えるでしょう」というものでした。さすがだなと思いました。さらっとこんなことを言える大人になりたいとも思いました。そして僕は本気にしたのです。チャーミングなことをしていたら、本当に、遠山さんに会えるかもしれないと。そして何より「チャーミング」という言葉にグッときました。
かわいいでも、かっこいいでも、おしゃれとも違うチャーミングという響き。
実は、ここから社名をいただき、『プラスチャーミング』と名づけました。
世の中をほんの少しチャーミングにしたい、という意味を込めた社名です。
おしゃれなふんどしブランドをはじめること、そして日本中にふんどしを普及することは、間違いなくチャーミングなことだと自信をもっていたので、きっといつか遠山さんとお会いできると信じていました。
するとなんとある日、奇跡が起きたのです。
東京、表参道にある遠山さんの経営するお店「PASS THE BATON」に遊びに行ったところ、いらっしゃるじゃないですか! 遠山さんが!
普段お店に立たないはずなのに、なぜだろう……。
店員さんをつかまえて確認しました。
「あ、あ、あの方、遠山社長で、で、ですよね?」
「そうですよ、ご存知なんですか?」
「い、い、いや、知り合いではないですけど、フ、ファンなんです」
そう伝えると、
「そうでしたか! では、ご紹介しますね」
と、なんと遠山さんに挨拶させてもらえる機会をつくってくれました。
「やあ、どうも」とやさしく挨拶してくれる遠山さんに、緊張しながらも感謝の気持ちを伝えました。
著書『スープで、いきます』で勉強させてもらったこと。
雑誌『Pen』の手紙に感動して涙したこと。
そして『BRUTUS』の記事を読んで、「チャーミングなことをしていたら、いつか会える」と信じていたこと。そう伝えると、「そうでしたか。それはそれは」とやさしい笑顔の遠山さん。
ふんどしで起業することを決意し、その準備をしていることを伝えました。
このビジネスできっと世の中をチャーミングにしてみせると。
記念にいただいたサインには、ふんどしの絵を描いてくれました。憧れの、そして恩人の人とこうして出会えるなんて、まさに神さまからのオマケだと感じました。
話はこれで終わりではありません。
その後、また偶然にも遠山さんにバッタリ会うことがありました。
「やあ、あの時の」とにこやかに挨拶をしてくれた時、思い切って、「自分のふんどしブランドを見てもらいたい」とお願いしてみました。そしてなんと後日、遠山社長のオフィスで、貴重なお時間を頂戴できたのです。
「うーん、僕はこれじゃあ、やらないな」。できたばかりのしゃれふんをお見せしたところ、いくつかの厳しい意見をいただきました。商品自体はともかく、パッケージのデザインがよくない。ロゴも好きではない、など。
厳しいことばかりではなく、「もっとこうしてみたらどう?」と、デスクにあるデザイン雑誌から、素敵な商品の写真を見せてくれたり、「知り合いのアートディレクターを紹介しようか?」とおっしゃってくださったり、貴重なアドバイスをたくさんいただきました。とにかく魅せ方が大事であるということも教えてくださいました。
パッケージデザインに関して再検討することを約束し、せっかくなのでしゃれふんを試してみてほしいと数枚プレゼントして、素敵な時間は終わりました。緊張していたせいか、打ち合わせが終わった時には放心状態でした。
すぐに御礼のお手紙をしたため、ポストに投函しました。すると後日、こんなメッセージをいただいたのです。
憧れの人に、「イケる気がする」と言ってもらえたことが、今後の活動への大きな自信となりました。
販売開始に向けて
しゃれふんの販売は、インターネット上の通信販売からと考えていました。
ここでしっかりお客さんの支持を得ることができれば、百貨店やセレクトショップへの道も開けると考えていたからです。
ただオンラインショップの構築も、予算がないので制作会社に発注することができません。そこでコストが比較的安く抑えられる、フリーで活躍しているデザイナーさんを見つけて依頼しました。
当初、デザイナーさんから上がってきたホームページのデザインが、思っていたものと違っていたため、僕が構成からバナーデザイン、文字のフォントまで細かく指示をし直して、入れ替えてもらいました。
かなりの手間でしたが自分でやったからこそ学べた部分も多く、多少の技術が身につきました。僕は決して「これでいいや」では気がすまない性格なので、デザイナーさんも大変だったと思います。
結局、ホームページには20万円をつぎ込みました。30万円しかない僕にとって大きな出費でしたが、クレジットカードの決済などにもかかわる大事なシステムなので、これでも十分安い方だとよしとしました。
商品の撮影はプロのカメラマンで友人の、木村雄司くんにお願いしました。彼も同じタイミングで独立を果たした同志で、忙しい中、僕の独立祝いとしてすべてのビジュアルを、なんと無料で撮影してくれました。
通信販売をする以上、キレイな画像は売上に直結するので、このイメージ画像や商品撮影は重要なポイントでした。
木村君のおかげで他のメーカーよりも、一歩も二歩も先ゆく素晴らしい写真ができあがり、これからはじまる新しいブランドにワクワクが止まりませんでした。
第6章 パンツを捨てて、ふんどしを仕掛ける!
芽生えた使命感
しゃれふんの販売開始を目前にしていた頃、ふんどしがじわじわ世の中に広がっていくことを考えるたびに、楽しくてワクワクしている自分がいました。
僕を病から救ってくれたふんどし。
その普及を自分が担っていけるなんて、こんなに素晴らしいことはないじゃないか! 早くみんなに伝えたい! この快適さを知ってもらいたい!
初めて味わうワクワク感に興奮していました。
僕はふんどしをただ快適な下着としてではなく、もっと高尚なものととらえていました。なぜなら、ふんどしを締めると気持ちがシャンとすることを体感していたからです。
おなかの前の丹田でキュッと紐を締める、この行為自体に意味を見出していたのです。きっと日本人のDNAに刻み込まれた「何か」があると感じていました。
「ふんどしを締める」という、ほとんどの人が今までしたことのなかった行為自体を生活に取り入れる。このワクワク感を広めたい。
大切な日本の文化を救えるのは僕しかいない。
ふんどしに救われた僕がやるからこそ、意味があるんだ。
僕には危機感にも似た、強い使命感が宿っていました。
それと同時に、今はマイナスな状況にあるからこそ、イメージを覆すことができれば、ふんどしメーカーにとってこれほどのビジネスチャンスはない! と直感してもいたのです。
中立的な立場
しゃれふんブランドの構想を練っている時から、一つの商品を打ち出すのではなく、「ふんどし業界」全体の底上げができないかをいつも模索していました。
市場を見ても、ふんどしが決して売れているという状況でないことはわかっていましたし、それはふんどしだけの専門店がないことを見ても明らかでした。
お祭りの時に締めるふんどしは、コスチュームとして確立されているので根強いニーズはありますが、日常的に使用するふんどしの認知はほぼゼロに等しいのです。だとしたらそれらの情報を網羅して、世の中に発信、提案していく、中立的な立場があるべきなんじゃないかと思うようになりました。
今までふんどしへのニーズは、和装をする人、お祭りに参加する人などに限られていました。ふんどしの魅せ方も、日焼けした体格のいい男の人が「どうだ!」と言わんばかりに誇らしげにポーズをとっている、そんなイメージが強いのです。
「THE男!」的な見せ方でももちろんいいのですが、その他99・9%の、ふんどしに興味のない人、さらに女性をも振り向かせるためには、今までとはまったく違う魅せ方をしなければ、と感じていました。
しゃれふんが発売されれば、一時的におもしろがってもらえるかもしれませんが、それだけでは広く浸透しない。
熱い想いをもってふんどしをつくっている他のメーカーは、広い目で見ればライバルではなく仲間です。仲間が手を取り合ってふんどしそのものを上手くアピールできるような、そんな立場が取れるような機関をつくりたい。
既存のふんどしメーカーを巻き込めれば、市場自体に少しずつムーブメントが起こせるのでは、と考えていました。
そうすることでしゃれふんはもちろん、他のふんどしメーカーにもメリットがあり、何より業界自体が活性化するはずだと考えました。自分の利益だけを考えてしまえば大きく発展しない。市場全体の底上げを担っていくんだと決意を新たにしました。
模索するうちに、一つの案が思い浮かびました。
「協会」の設立です。
実は、以前から知り合いだった八木宏一郎さんが、数年前、「日本唐揚協会」を立ち上げられ、そのユニークな名刺をもらったことがありました。
そうだ「協会」という立場をつくればいいんだ!
そう思いたつと、すぐに行動に移しました。
幸い「ふんどし」に関しては、どれだけ調べても該当する機関は存在しません。それにもし、すでにあったとしたら、もう少しふんどしは普及しているはずでしょう。「よし! ないなら自分でつくってしまおう!」と、日本ふんどし協会を設立することにしました。そしてふんどしに命をささげるため、もっていたパンツをすべて処分しました。
一人でも協会はつくれる
「協会を設立する」なんて、最初はとても難しそうなイメージでしたが、一般社団法人化しない場合、特に決まりがある訳ではないことがわかりました。
なんと一人でもできるのです。
意外にもあっけなくできてしまうわけですが、協会を名乗る以上、ふんどしに関して日本で一番情報を網羅した機関でなければならないし、ふんどしに関するあらゆる事柄に誠実に対応しなければならないと気を引き締めました。
協会は簡単に設立できてしまう反面、そのキーワードを背負う立場としての責任が重くのしかかるのです。
営利活動も含めて一般社団法人にする場合は、それなりに手続きと費用が必要ですが、1日も早くスタートさせたかったので、まずはホームページの作成に取りかかりました。この時から斎藤さんにも協会に加入してもらい、客観的な意見を出してもらいました。
・コンセプトを十分に検討すること
・ふんどしの歴史や情報はすべて網羅すること
・ふんどしがなぜ身体にいいのかをわかりやすく解説すること
・ふんどしのイメージ向上と、リアルな浸透を目指すこと
・ふんどしメーカーをしっかり紹介し、サポートすること
そのためにやるべきことや、やりたいことをすべて書き出し、具体的な活動内容を練っていきました。
同時に大切なロゴデザインも作成していきました。
ロゴデザインは日本を強く意識したかったので、日の丸をメインのモチーフにすること、そして一目でふんどしとわかるイラストを合わせたものにしました。これも何度もデザイン案をスケッチで描き、パソコンのデザインソフトを操れる友人に頼んで、ふんどしの細かい角度を何度もやり直してもらいました。
協会のロゴはまさに大事なアイコンになるので、ここにはしっかりと時間をかけました。おかげで日本ふんどし協会のロゴは、わかりやすくてインパクトがあると、とても好評を得ています。
ホームページに関しても、記載すべき事項をメモで書き出した後は、細かく調べ上げ、文章に書き起こしていきました。ふんどしの形状から歴史、効果効能などいかに健康にいいか、専門家の意見をまとめ、最初からボリュームのあるサイトにすべく動きました。
協会のホームページは、予算がなかったので一人でつくりました。
素人でも文字を打ち込んではめるだけ、画像も簡単にはめ込むだけで、ホームページができる無料のサービスがあり、それを活用することで専門知識がまったくない僕でも、完成させることができました。
ページの追加や削除も簡単に行えるので、更新をいちいち誰かに頼む必要もないし、もちろん費用もまったくかけずにできるのだから時代はすすんでいます。
協会に関しては、最初からロゴもホームページも、すべて自分でやってみようと決めていました。簡単に自分でできるようなソフトが充実してきたということもありますし、「これを機に少しは勉強してみよう」と思っていました。
今後、何をするにしても誰かに頼めば費用がかかるわけで、やっぱり自分で起業してみるとそういった細かい経費をできるだけかけずにやりたいと思っていました。
「意外に簡単じゃないか!」と思うことがある反面、「こんなに難しいならプロに頼まなきゃ!」というものもありました。やってみて初めてわかることが多かったのですが、少しずつ成長している感があり、楽しみながらすすめていました。
こうして協会のロゴやホームページは10日ほどで完成しました。
パンツとケンカしない
99・9%の人が当たり前のようにパンツをはいています。
そこにふんどしを普及させるにはどうすればいいのか。パンツよりもふんどしの方がいいんだ! と叫ぶこともできますが、パンツにはパンツのよさがあります。パンツを否定したくないのです。
僕自身、三十数年はき続けてきたパンツはとても快適だったし、適度な締めつけも身を引き締めてくれて決して嫌いなわけではありません。
何かを否定して、自分のよさを見せようとする姿勢はとりたくないし、何かと争うことも心身共に疲弊するので嫌いです。
そもそも、僕は24時間ふんどしでなくてもいいと思っていました。
日中はパンツ、夜寝る時だけふんどしでもいいのです。
下着の使い分けを提案できれば、パンツ派の人でもふんどしへのハードルが少し下がるはずです。
また、ふんどしを下着ではなく、あくまでも自宅でリラックスするためのルームウェア、ナイトウェアとして普及すればいいんだ、とも考えました。
そうすればパンツを否定することなく、まったく別ものとしての使い分けができる。そしてそれこそがふんどしが生き残る道なのかもしれない。お互いの市場を奪い合うのではなく、お互いが切磋琢磨し、業界自体の底上げができればいい。
ステテコがズボンの下にはく汗取り下着としてではなく、ルームウェアとしてイメージを変えて浸透したように、ふんどしもリラックスウェアとしてみせよう。そう考えていた時、ふとこんなコピーが浮かんできました。
「パンツとケンカしない」
日中はパンツ。寝る時だけふんどし。
パンツと共存していくのです。この一言で、みんながハッピーになるような仕掛けをしたいという、協会のスタンスを言い表せているような気がしました。これを協会のモットーにすれば、キャッチーなコピーにツッコミを入れたくなる人が出てくるんじゃないか。ふんどしが本当に普及していく、強い確信がもてたような気がしました。
女性にもふんどしを
僕がふんどしと出会う3年ほど前、実はほんの一瞬だけ「女性用のふんどし」が話題になったことがありました。ある女優さんがふんどし愛用者であると告白したり、ワコールが「ななふん」というふんどしを発売したりしたのです。
自分がふんどしのことを調べるまで、こういった動きがあったことすら知りませんでした。ふんどしの快適さは男性だけのものではないことを知り、飛び上がるほどうれしく思いました。
この時はふんどしの話題が長続きしなかったとしても、女性にも需要があること、何より大手下着メーカーのワコールが、ふんどしブランドを立ち上げていたことに、今後の可能性を強く感じました。
越中ふんどしの快適さは男性だけではなく、女性にこそ声を大にしてすすめたかったのです。ゴムの締めつけから解放されることで、血流やリンパをさえぎることなく、女性特有の「冷え」や「むくみ」も緩和されることがわかっていたからです。
最近では生理用の使い捨てナプキンから、洗濯できる布ナプキンに替える人が増えていますし、環境や健康に対して関心が高い層、いわゆる自然派志向の人の間には、絶対にふんどしが広がる自信がありました。
究極の目標は女性の愛用者が増えて、さらに女性から男性にプレゼントしたくなるような、そんな流れをつくること。
そのために、協会が大きな役割を果たしていくのです。
2月14日を「ふんどしの日」にする!
次に「ふんどし」というキーワードを広く世に出すために、特別な記念日があればいいのでは、と考えました。
「ふんどしの日」という記念日があって、これを制定したのが日本ふんどし協会で、「なんだこの協会は!」と少しでも興味をもってくれる人が現れたら、ふんどしの健康面でのよさ、おしゃれなものもたくさんあることをアピールできるはずだと。
そんな考えもあり、「記念日をいつにするか」は、今後のふんどし普及に大きく影響するとても重要な要素でした。
できればその日は毎年、TVや新聞等で取り上げられたい。
話題になりやすい日はどこか。366日(閏年を含む)ある中から、無理矢理選んでもよかったのですが、できれば「ふ」「ん」「ど」「し」を数字に当てはめて、語呂が合う日がベストでした。
「ど」「し」は10を「とう」と読み、4は「し」なので問題ありません。
問題は、「ふ」「ん」。……ん?
ひい(1)、ふぅ(2)、みぃ(3)
ふぅ(2)があるぞ!
「ふう」と「ふん」は似てるから強引に「ふん」と読もう! とすると……、
2(ふぅん)月
10(ど)4(し)日
2月14日=ふんどしの日!
これで決まりだ!
ん!?
2月14日といえば、もしかして……。
そうです。なんとバレンタインデーと同日になってしまったのです!
これには強い衝撃が走りました。
「こ、これは絶対、ふんどしは広く浸透する!」と確信したのです。
なぜならバレンタインデーと同日であれば、必ず毎年TVや雑誌、新聞で、「今年のバレンタイン」と題して、何かしらの報道があるからです。
本命チョコにいくら使うか。社内で義理チョコをあげるかどうか。有名デパートのチョコレート売り場の様子……などは必ずTVで放送されます。
そこに「実は今日、2月14日はふんどしの日でもある」という情報があると、この大きなギャップは必ず話題に上るはずだと予測できました。
頭の中でふんどしの日、そしておしゃれなふんどしたちが、数多くのメディアに取り上げられることがハッキリとイメージできました。
しかもうれしいことに、これは毎年繰り返されるはずなのです。
ふんどし普及においてこの記念日が、クリスマスでもお正月でもなく、バレンタインデーという、女性から男性にプレゼントをする文化がすでに浸透しきっている日と同日になったことは、まさに奇跡です。日本ふんどし協会ではこのことを「ふんどしの奇跡」と呼んでいます。
記念日をただ宣言するだけでなく、正式な記念日として認定させたい。
正式な記念日に認定させるためには、日本記念日協会に申請を出し、審査を通らなければなりません。そして認定費として7万円の費用がかかるとのことでした。
正式認定の箔がついてこの金額は高くはないのですが、当時の僕がこの金額を出すことは、非常に大きな決断を必要としました。
周囲に相談してみるも「高いから今はまだやめとけば? 事業が軌道に乗ったらやればいいじゃない」と止められました。
ですがこの記念日は、その後のメディア戦略に大きく影響を与えると確信していた僕は、妻に相談してみました。すると妻に「すぐに申請しなさい! 7万円くらいでケチケチしない!」と背中を押されました。
30万円中の7万円を使うと、いよいよ事業資金も底をつくので大事な決断でしたが、妻のその一言で申請しました。そしてめでたく正式に、2月14日は「ふんどしの日」として認定され、これがその後のメディアラッシュの引き金になるのです。
「ふんどしの奇跡」
起きる
ベストフンドシスト賞のアイデア
ふんどしの日制定と同時に、何か話題性のあるイベントができないかと考えていました。そんな時TVを見ると、ジーンズの似合う人に毎年贈られる「ベストジーニスト賞」の授賞式の様子が流れていました。
ふんどし普及に貢献してくれた著名人にも、何か賞を授与するのはどうか……。
ベストフンドシスト賞!
ジーンズをはく人がジーニストなら、ふんどしを締める人はフンドシストだろうと、この名前がピンときました。
ただジーンズと違うところは普及率。著名人でふんどしが似合いそうな人は大勢いますが、ふんどしが似合いそうな人に贈るのではなく、実際にふんどしのよさをメディアを通して世に広めてくれた人を選出すると決めました。
どうせやるなら早い方がいい。次の2月14日「ふんどしの日」に発表しよう! 思いついたのが協会設立時だったので、慌ててインターネットで【ふんどし 芸能人】と検索しました。
いろいろと深く調べていくと、いつもネタの途中でふんどし姿になる、お笑い芸人の安田大サーカスの安田団長や、朝の情報番組の温泉巡りコーナーでふんどし姿になる勝俣州和さん。数年前からTVやラジオなどのメディアでふんどしのよさを伝え続けられていた、いとうせいこうさんなどの名前が出てきました。こうした受賞候補者の方々の所属事務所に正式にオファーを出したところ、ほぼ全員が受賞してくれるとのことでした。
まだ設立したばかりの協会で、しかも「ふんどし」で受賞するというイメージ的にどうなのかわからない賞なので、全員に断られるのではないかと予想していましたが、その予想はいい意味で大きく外れてくれました。
2月14日の「ふんどしの日」に、ふんどし普及に貢献された著名人に「ベストフンドシスト賞」を授与する。これは年に一度の大きなイベントになり、メディアを通して「ふんどし」というキーワードを広く世に出す大きなチャンスになると確信しました。
本気も本気 1億2千万人総ふんどし化計画
ある時、ふんどし関連の書籍を読んでいてわかったことなのですが、元々ふんどしは家のおばあちゃんやお母さんが、お父さんや息子のために木綿の生地をチクチク縫ってきたという文化がありました。
お母さんから手渡される愛情のこもったふんどし。男性はそれを大事に身につけるわけです。
この歴史を知った時、ふんどしを愛情を込めて手づくりする文化をつくることができれば、そこに家族間のコミュニケーションが生まれるはずだと感じました。
「はい、今回はこの生地で縫ってあげたよ」
「お母さんありがとう!」
日本中でこの会話をつくりたい。
将来的に日本人全員が、ふんどしを一人1枚もつ時代をつくりたい。
しゃれふんを含め、ふんどしメーカーがつくったふんどしもいいけれど、それだけではなく自作のふんどしが広がることも、大きな意味があると感じました。
日本中にふんどしが広まること、日本人は一人1枚ふんどしをもつ時代。
よし、この計画を「1億2千万人総ふんどし化計画」としよう。
まだふんどしを1枚も売っていないのに、壮大な目標だけは決定しました。
同業者からの反応
協会の具体的な活動内容や仕掛けがある程度固まり、ホームページも充実したタイミングで、全国の主要なふんどしメーカーに、メールやFAX、電話でご挨拶の連絡をしました。
僕たちのふんどし普及への想いをお伝えし、賛同してもらいたかったのです。
インターネット上で調べただけでも、ふんどしの製造販売をしているメーカーは10ブランドほどあり(いやらしいコスチュームとして扱っているところを除きました)そのすべてのブランドには話をしました。
しかし、思いのほか賛同いただけませんでした。
その理由として、協会のホームページも立ち上げたばかりで、協会自体の活動内容が不透明、また会長である僕がどんな人間かも伝わりづらいことが原因でした。メリットを感じることができなかったのかもしれません。
もう一つの理由として、「ふんどしが広く受け入れられるわけがない」「ブームとしてとらえられたくない」という思いがあることを知ることになりました。
「俺らは少ない愛好家に地道に売ってるんだ。何年かに一度、ふんどしは少し注目されるけど、きちんと広まることなんてないよ。ふんどしは難しいんだよ。悪いけど勝手にやってくれ」
表現の差こそあれ、断られる理由の多くが「どうせ広まらない」「今のままでいい」というような意見でした。
また、かわいらしい女性用ふんどしを展開している、唯一の大手下着メーカーにも連絡したところ、「うちの商品は『ふんどし』と言っていません。形状はふんどしそのものですけど、あくまでもショーツという認識なんです。申し訳ございませんがご一緒できません」という回答でした。
ふんどしを扱っているブランドがふんどしと言いたがらない……。
「ふんどし」というキーワードのイメージの悪さが根強いことを知りました。
「今はまだ賛同いただけなくても、よければ日本ふんどし協会の活動を見守っていてください。きっとふんどしを広めます。そうなれば御社も含め、ふんどしメーカーさんが……」
「ガチャ!」
よっぽど怪しかったのか、何かの営業だと思われたのか、途中で電話を切られることも少なくありませんでした。
協会の活動を本格始動して、僕たちの本気度を見てもらい、信用してもらうしかない。少しずつでもふんどしのよさを伝えることができたら、きっとメーカーの意識も変わっていく。根本的な意識改革をする必要があると、ますます使命感を強くしていきました。
第7章 広がりはじめた「ナイスふんどし!」
ついに販売開始!
2011年12月1日。
ついにSHAREFUN®(しゃれふん)オンラインショップが、オープンしました。オープンといっても、もちろん、世の中のまだ誰も知らないお店ですから、当然アクセスはありません。これからどうやってこの商品を知ってもらうか。まずは新聞各紙、ファッション雑誌、合わせて40社ほどに郵送でプレスリリースを出しました。
オンラインショップがオープンして、2日目にシステムをチェックしてみると、「受注1件」の赤文字の表示が。なんと1件の注文が入っていたのです。
「おお! 早速売れた! 注文が入ったぞ!」と一人大騒ぎしていたら、斎藤さんから1本の電話がありました。「試しに買ってみたんだけど、ちゃんと買えてる?」。最初の注文は、彼がシステムチェックのために確認しただけのことでした。
それ以降、「受注」の文字を見ることはありませんでした。すぐに売れないことは覚悟していましたが、3日過ぎ、1週間が過ぎ、2週間も過ぎた頃、どうしても焦らざるを得ませんでした。
その間は、日本ふんどし協会のホームページを試行錯誤しながら自作していた時なので、焦りや不安はそこにぶつけていました。
そんな時、1本の電話がかかってきました。『繊研新聞』というアパレル業界の新聞記者の方からでした。なんと取材の依頼です。プレスリリースを見てくれたのです。「なぜふんどしなのか?」「コンセプトは?」「他のものとどう違うのか?」などの質問に、興奮して熱く語りました。と同時に、うれしさがこみ上げてきました。
自分が考えて行動したことに、興味をもってくれる人がいたことがうれしかったのです。その後、初めて新聞に載った記事を、何度も何度も眺めました。
そして、忘れもしない12月23日。その日はついにやってきました。
「受注1件」と赤文字が表示されていたのです。
「また斎藤さんのテスト購入ではないか?」と疑いましたが違いました。本当の注文が初めて入ったのです。
1枚目のお客様は、埼玉県在住の男性でした。「なぜしゃれふんを知りましたか?」の質問には、「繊研新聞で見た」との記載がありました。
やっぱりメディアに出るということはすごいことなんだなと、改めて再確認しました。まだお会いしたこともない人に、自分の商品を知ってもらえるのですから。当たり前の話ですが感動しました。
「めぐ! 今日、初めて注文が入ったよ! すごいでしょう!」
仕事から帰宅したばかりの妻に、一番に報告しました。
「ええ! ほんと? すごいね! よかったねえ。やったね、ケイちゃん!」
妻も手をたたいて喜んでくれます。
「これからじゃんじゃん売れるといいなあ」
「そうだね、でも焦っちゃダメだよ。少しずつ少しずつね。ケイちゃんはすぐに調子に乗るんだから」
数字だけを見ればたった1枚売れただけでしたが、今まで結果を出せてこなかった僕にとっては大きな一歩でした。
「今日は乾杯しようか!」「そうだね! 冷やしてる〝あれ〟出そうよ」
妻が買ってきたほうれん草のごま和えと、僕のつくった湯豆腐。そして1枚目が売れた日に乾杯しようと取っておいた、1本の「金麦」で乾杯しました。
「どんな人が使ってくれるのかなぁ」「どんな人だろうねぇ」。0が1になった今、やっとスタートラインに立てた気がしました。
入りはじめた取材
もう1つ、いいことが起こりました。
なんとまた取材が入ったのです。『サーチナ』というアジアのニュースがメインのインターネットメディアの記者の方からでした。変わった新商品を紹介するトピックスのコーナーがあるようで、「今、ふんどしを普及させようとしているなんて君は変わってるね!」とおもしろがってくれました。
2011年12月26日に、『サーチナ』でSHAREFUN®(しゃれふん)発売の記事が公開されましたが、なんと同日にこの記事がYahoo!ニュースに転載されたのです。Yahoo!ニュースといえば日本一影響力のあるインターネットメディア。やはりこの効果は大きく、ホームページへのアクセスが激増。販売までにはあまり直結しませんでしたが、掲載後、すぐに複数のメディアから取材依頼が舞い込みました。
その後の取材で特に反響があったのは、ITメディア『ねとらぼ』で掲載された、僕自身へのインタビューでした。
「ふんどしで「元気になれた」──35歳、脱サラして「日本ふんどし協会」に懸ける野望」と題されたこのインタビュー記事は、なぜ僕がふんどしで起業したのかを語ったものでした。
病気の時に出会ったふんどしによって、人生が大きく変わったこと、おしゃれなふんどしブランドにかける想い、そして日本ふんどし協会の設立と、この数ヶ月間の活動をわかりやすく、かつおもしろく記事にしてくれました。
この記事へのアクセスが非常に多く、これをきっかけとして、少しずつしゃれふんの販売数が増えはじめ、日本ふんどし協会へのアクセスも増えていきました。そして何よりこの記事がきっかけとなり、ラジオやTVなど新たなメディアからも、取材依頼が次々とくるようになったのです。
多くのメディアから興味をもってもらえるようになったのは、おそらく商品自体のスペックではなく、その裏に秘められた僕のふんどしへの想いや、ストーリーが変わっていたことがよかったのだと思います。
NYで認められた「枡」
お正月のTV番組で「海外進出を目指す日本人」というようなタイトルのドキュメンタリーが流れていました。
その中で、岐阜県にある枡メーカー「大橋量器」の大橋社長の奮闘がありました。今ニューヨークで和食、特に日本酒が流行っていて、それを枡で飲むことがうけているとのことでした。日本では少しずつ需要が減ってきている枡を、世界で、特にニューヨークで展開させようなんて、その行動力に魅了されました。
海外の人から見れば、釘を使わないにもかかわらず、水が1滴も漏れてこない枡の技術はまさに「made in japan」の代物。
和食店での人気もさることながら、なんと地元の高級時計ブランドが、パッケージとして枡を使っていたのです。なるほど、海外の人から見れば、職人技が光る枡は特別なもので、高級なギフトボックスに見えるようなのです。
「ふんどしを枡にパッケージしたらおもしろいかもしれない」
ふと枡に入ったふんどしが、ピラミッド状に積み上げられて、ニューヨークの高級セレクトショップに並べられるイメージができました。
思いついてしまったので、いてもたってもいられなくなり、お正月にもかかわらず、すぐに大橋量器さんに連絡してしまいました。正月も関係なく工場に出ていた大橋さんをつかまえて、頼み込みました。
「枡がニューヨークで受け入れられたように、ふんどしも世界に広めたいんです!ぜひ、力を貸してください!」と。
お金がないことも正直に話しました。
「今はお金はありません。だけどきっと広めてみせます。枡とふんどしをセットで海外にもっていきます。世界中にふんどしを広めます。しゃれふんを圧倒的な世界NO.1ブランドにします。だからオリジナルの枡を、ぜひともつくってもらえませんか? 売れたらすぐにお支払いします」
大橋さんは了承してくれました。「応援しましょう!」と。
そうして一目でふんどしとわかる、日本ふんどし協会のロゴマークを焼き印にしたオリジナルの枡が完成しました。
枡に入れたふんどしはプレゼントとして人気を博しました。高級感、そして日本を演出した最高のパッケージで、日本人はもちろん、予想通り外国人からの人気がとても高いものとなりました。
じわじわくる「ナイスふんどし!」
2012年1月、公式Twitterをスタートさせました。
ふんどし協会だけに「ふんどしのことしかつぶやかない」という制限を設け、キャッチーな合言葉をつくりたい。
たまたまTVでサッカーの試合を観ていた時、解説者が興奮して「ナイスゴール!」と叫んでいました。それを聞いて「これだ!」と直感的に思いました。
「ナイスふんどし!」って広がりそうだ! と。
ふんどしに出会わなくても、耳に残る語感がSNS(Twitterやfacebookなどのソーシャルネットワーク)に向いています。
最初はフォロワーもいなかったTwitterアカウントも、2月14日の「ふんどしの日」を前に、徐々に増えていきました。きっかけは、やはりこの合言葉でした。
「ナイスふんどし!」
チョコよりふんどし!? バレンタインに勝機あり!
2月14日が「ふんどしの日」と制定されたこと、それを申請したのが聞いたこともない「日本ふんどし協会」であること。そしてふんどしが、実は身体にいいかもしれないという情報は、新聞やネットのニュース等で少しずつ取り上げられていきました。
その効果は明らかで、その日に向けて1月の終わり頃から、徐々にしゃれふんの注文が増えてきました。たった7枚しか売れなかった12月に比べ、1月は200枚ほど売れました。
妻と2人で住んでいた単身者用の24平米の部屋は、ふんどしの在庫であふれかえっていました。ベッド代わりに使っていた1・5畳のロフトも商品ですでにいっぱい。妻が出かけた後、布団をたたむとすぐに、商品が部屋の床ほとんどを埋めてしまいます。
日中は商品製造の確認、ふんどしの日に向けた打ち合わせや、ホームページの更新などさまざまな業務があるため、商品の発送作業は毎日夕方から深夜に及びました。なにぶん一人ですべての発送作業をしていたので、商品の袋詰めや、一人ひとりへの宛名書きなどでてんやわんやでした。
そんな時ありがたいことに、TVの電話取材や、ラジオ出演の依頼が同時に入ったりもし、「チャンスの波が来ている」と睡眠時間を削ってがんばりました。
毎日、身体は疲れているのに高揚していました。つい数ヶ月前にはじめたこの事業が、少しずつ認知されていることがたまらなくうれしくて。
制定されたばかりの記念日「ふんどしの日」が、短期間でこれだけメディアに取り上げてもらえたのも、〝バレンタインデーと同日〟という大きなギャップをおもしろがってもらっているからでした。
誰もが2月14日が「ふんどしの日」だということを知った時、ついつい誰かに話したくなるのです。
メディアに取り上げられたことからはじまり、TVやラジオ、新聞、そしてインターネットで拡散されていく。短期間に一気に認知度が上がった要因は、この「ついつい人に話したくなる要素」にポイントがあったように思います。
それに2月14日に、チョコレートじゃなくてふんどしをプレゼントするとどうなるか。もらう側の男性はきっと「なんで?」とビックリするはずです。すると、あげた側の女性はニコニコしてこう答えるでしょう。「今日はふんどしの日なんだよ。知らなかった? 実はふんどしってね……」。
ふんどしからはじまるコミュニケーションがきっとある。
普及活動を通して、そして商品を通して、このコミュニケーションをつくっているという感覚がたまらなく楽しく、喜びに変わっていきました。
全国のお茶の間に流れた授賞式
2012年2月14日。この日は初めての「ふんどしの日」。また記念すべき第1回目のベストフンドシスト賞を発表することもあり、最も大事な1日でした。
第1回ベストフンドシスト賞の「大賞」は、ふんどしを明るく楽しいイメージで着用していた、お笑い芸人の安田大サーカスの安田団長に受賞いただきました。
授賞式といっても手弁当での運営ですので、イベント会場をおさえる予算もありませんでしたが、安田大サーカスの所属する松竹芸能さんの計らいで、松竹の劇場「角座」(新宿)を、なんと無料で貸してくださいました。そのおかげでイベントに厚みが増し、マスコミへの信頼性が高まりました。
この授賞式を取材いただくために、マスコミ各社にプレスリリースを出したところ、なんと総勢約30社のマスコミ関係者が来場してくださいました。
カメラマンや記者、レポーターの方々が続々と集まってくれるのを見て、熱くこみ上げてくるものがありました。自分が仕掛けたことで興味をもってくれる人たちがこんなにも大勢いる。
授賞式には、TVのワイドショーでおなじみのリポーターの方々もきてくれました。授賞式後の囲み取材では、リポーターと安田大サーカスの3人のやり取りが絶妙におもしろく、会場は笑いの渦となり大いに盛り上がりました。
放送終了後から、日本ふんどし協会へは多くのアクセスがあり、全国放送のTVは影響力があるのだなぁと再認識しました。
今回、こうして全国放送の朝のワイドショーに出たことで、その後の状況は大きく変わっていきました。新たな取材依頼もかなり増えていきました。
商品がふんどしだけに、まだまだ導入ハードルが高く、すぐに売上が激増というわけにはいきませんでしたが、さまざまなメディアに登場させてもらうことで「あ、またふんどしだ」という認知度アップには多大な効果が得られました。
これ以降、「日本ふんどし協会の会長です」と挨拶すると、初対面の方からも「ふんどしって、今、流行ってるんでしょう?」と聞かれることが多くなりました。
きたっ!
マスコミ30社からの
取材!
実現したコラボしゃれふん
しゃれふんでは、ブランドスタート時から、有名人や他のブランドとのコラボレーションふんどしを積極的に行っていきたいと考えていました。自分が買い物をする場合でも、「○○とのコラボレーション」企画はついつい興味が湧いてしまうし、新しいファン層へ啓蒙できるのでは、とイメージしていたからです。
オリジナル感と限定感、そして1+1=2ではなくて、付加価値がついて3にも4にもなる。コラボ企画にはそんな印象をもっていました。
第一弾はベストフンドシスト賞受賞のいとうせいこうさん(以下、せいこうさん)とご一緒させていただきました。
せいこうさんとは、受賞の賞状と記念品のお渡しに、TV局の楽屋にお邪魔したのが初対面でした。以前からバラエティ番組で、MCをしているせいこうさんが大好きでしたので、実際にお会いできてガチガチに緊張していました。そんな僕にせいこうさんは気さくに接してくれました。
「ほんと、ふんどしっていいよね。大の大人がパンツのゴムの跡を腰につけてるなんてみっともないっていうんだよ。俺はもう何年も前からふんどしがいいって言ってきてたんだぜ。でも君たちのおかげで広がるんじゃない? ふんどしも」とせいこうさん。続けてこう言ってくれたのです。
「そうそう、実は俺、つくりたいふんどしがあるんだよ」
「え?」
「季節を感じられるふんどし。春、夏、秋、冬と、それぞれ季節に合ったワンポイントがあるものなんて粋だと思っててさ」
願ってもないお話でした。
「ぜ、ぜひ、僕たちにつくらせていただけませんか?」
「いいよ。やろう! じゃあ俺のデザイン案を後でメールしておくよ」
「はッはい! お待ちしています。ありがとうございます!」
実はこの日、せいこうさんに無理を承知で、ふんどしのデザインをお願いできないか相談しようと思っていたのです。まさに相思相愛、タイミングが合致しました。
その後、せいこうさんにいただいたデザインを元に、京都で何度も試作をし、初めてのコラボレーションふんどし「秋津(あき つ)」と「鹿と紅葉」の2種類を発売することができました。
さりげなくあしらわれた季節を感じることができるワンポイントは、オンラインショップ限定にもかかわらず、大ヒット商品となりました。
特に40代以降の大人の男性、またその年代の人へのプレゼントとして購入される方がとても多いのが特徴で、あらたなファン層を獲得することができたのです。
東急ハンズからのオファー
「ふんどしの日」の盛り上がりが落ち着きだした2月下旬、1本の電話がかかってきました。東急ハンズのバイヤーの方からでした。「ぜひ、しゃれふんを取り扱いたい。一度、商談の時間をもらえないか」と。
後日、渋谷にある東急ハンズ本社を訪ねると、40代後半の男性と20代前半の女性のバイヤーの方がいらっしゃいました。
男性社員の方から「4月にオープンする原宿表参道の東急プラザ店の目玉商品として、ぜひしゃれふんを取り扱わさせていただけませんか?」と熱い依頼をいただきました。しかも店頭で大きなスペースを使って、しゃれふんを販売したい、とまでおっしゃってくださるではありませんか。
東急ハンズ、しかも原宿表参道の新店であれば、しゃれふん初の店頭販売の場所としては申し分ありません。僕は「ぜひ、よろしくお願い致します」と答えました。
「ああ、よかった。これで安心した」と男性社員。後日、聞いたところ、その方の上司である東急ハンズでもかなり偉い人が、たまたまTVでしゃれふんのことを見てくださったようで、直々に彼に指示をしていたとのことでした。「この商品は絶対売れるから、必ず取引を開始するように」と。
これでひとまず商談成立。
では商品展示や納品などの細かい話は彼女とすすめてください、と紹介されたのが、となりにいた20代前半の女性のバイヤーさんでした。
彼女は(本当にこの商品売れるのかしら……)と怪訝(け げん)な顔をしていました。それもそのはず。女性にとって、しかも一連のふんどしニュースを知らない人にとっては、かなり疑わしい商品だったと思います。
僕から「1枚プレゼントするのでぜひお試しください!」とすすめても、かたくなに拒否されました。
でも、だからこそやる気が出ました。彼女のような若い女性にも「私もふんどし試してみようかな」と思わせる説明や魅せ方ができれば、女性にも広がっていく道が見えるはずだと感じたのです。
それからというもの、商品の陳列や説明のPOPに関しては、徹底的に彼女の意見を取り入れました。
スッと手に取りやすいショーケースがいいんじゃないか。
花柄のデザインを増やしてほしい。
POPに女の子のイラストを入れてほしい。
ナチュラルなイメージを出すために、素材のリネン(亜麻)の画像がほしい。
などなど。
今まで斎藤さんと男二人ですすめていたので、初めて女性、しかも外部の方の意見をいただいたことで、多くの気づきがありました。
結果、ハンズビー(東急ハンズ)原宿表参道店でのしゃれふんの販売数は、オープン開始と共に飛躍的に伸びていきました。この結果を元に、全国の東急ハンズへの導入も決まり、しゃれふんは幅広い層に目にしてもらうことになったのです。
全国から届く「ありがとう」
しゃれふん販売開始から2ヶ月ほどたった2月のある日、1枚のFAXが届きました。「ニュースで見て買ってみました。まさかふんどしがこんなにも快適だったなんてと驚きました。就寝時につけたらぐっすり眠れたような気がします。また買います」。
商品に同梱していたアンケートの回答、初めて届いた生の声でした。
「ああよかった。僕たちと同じような感想をもってもらえて本当によかった」と斎藤さんと喜び合いました。その後も、1日1枚はFAXが届くようになり、そのほとんどが「快適さに驚いた」というお声でした。他にも、
・ぐっすり眠れるようになった気がする
・身につけていないような感覚。とにかく軽くて気持ちいい
・朝起きた時に下半身が元気になった
・肌のかゆみが気にならなくなった
・冷え、むくみがやわらいだ
など、身体の変化に対するご意見がほとんどでした。
やっぱりみんな気づいていないだけで、締めつけの強い下着へのストレスがあったんだと再確認できました。男性だけではなく、女性からの声もたくさん届いていました。そして中にはこんな感想もありました。
家族で会話が生まれた、と。
ふんどしをプレゼントして、「なんでふんどし?」から会話が生まれていたのです。まさに僕の広めたかったことでした。
こうして毎日のように、全国からお客様の声は届くようになりました。
病気になるほど人の役に立てていなかった自分が、たくさんの人から「ありがとう」と言ってもらえている。こんなにもうれしいことはありませんでした。
もっともっとふんどしを広めたい。
たくさんの人に喜んでもらいたい。
しゃれふん以外の商品やブランドももっと知ってもらいたい。
お客様からの生の声をいただくうちに、「ふんどしで日本を元気にする!」という使命感がより強く、大きくなっていきました。
第8章 ふんどしブーム前夜
「健康にいい!」 お医者様からのお墨つきをもらう
〝ふんどし〟というキーワードが世の中に出て行くにつれ、協会のおもしろさや目新しさだけでなく、どうすればふんどしが、身体にいいことを知ってもらえるか、頭を悩ませていました。
そんな時、ストレスを抱えていた時に患っていた〝痔〟を見てくださっていた先生の顔を思い出しました。アイビー大腸肛門クリニックの山田麻子先生です。
かつて「切らなければ治らない」と診断された痔の症状が、今や、何も感じないのです。すっかり忘れていたこの症状は、もしかしてふんどしの効果なのではないかと思うようになり、確認すべく山田先生のもとを訪れたのです。
お尻を診られる時、ふんどしだとビックリされるかなと思いきや、そこは何も突っ込まれませんでした。「すごくよくなってるね! もう大丈夫ですよ」と先生。ああ、これで切らなくてすんだとホッと胸をなでおろしました。
そして診察後、先生に思い切って聞いてみたのです。
「先生。ふんどしに変えてから痔がよくなった気がするんです。通気性もよくて血流もいいふんどしは、痔にもいいのではないでしょうか?」
すると先生は、「締めつけの強いパンツだと衛生上よくないから、確かに身体にいいかも!」と言ってくれました。やっぱりそうか、お医者さんがふんどしを認めてくれたら信頼度が増す、とひらめき、ダメモトで聞いてみました。
「実は僕、ふんどしつくってるんです。日本ふんどし協会という協会もつくっていて、ふんどしがいかに健康にいいか啓蒙しているんです。先生、もしよかったら一度詳しく解説いただけませんか? お医者さんの立場からふんどしのよさを語ってほしいんです。インタビューさせてください!」
すると先生は、「いいですよ。試してみます。絶対いいはずよね、ふんどし。うん。患者さんにもすすめてみようかしら。インタビューはまた連絡しますね」と言ってくれました。その後、先生には正式にインタビューをさせていただき、日本ふんどし協会ホームページにその内容を掲載しました。
大きなポイントは5つ。
・締めつけないから血流をさえぎらない
・冷えやむくみに効果が期待できる
・衛生上、風通しがいいことで殺菌効果がある
・ビキニラインの黒ずみ対策になる
・天然素材であれば肌にやさしい
この〝お医者さまからの推薦インタビュー〟が、世のまだふんどしに踏み切れない方々への信憑性を増し、その後のふんどし普及に大きな影響を与えました。特に女性用のふんどしの売れ行きがますます上がってきたのです。
このことは話題となりました。「女性にもふんどしがいい」ということを広く認知させることができ、雑誌『AERA』で「ふんどし特集」も組んでいただけました。
山田先生との出会いが僕にとって、そしてふんどし普及にとっても、とても大きなものとなったのです。
「ふんどし=健康」
壇蜜さんもフンドシスト?
2012年も残すところわずかとなった12月。僕たちは次のベストフンドシストの選考に入っていました。
大賞にはフリーアナウンサーの住吉美紀さん、その他の受賞者は、脚本家で放送作家の小山薫堂さん、クリエイターのいとうせいこうさん、お笑い芸人NONSTYLEの井上裕介さん、声優の山口翔平さん、特別賞として、舞台「押忍!!ふんどし部!」を選出していました。
この方々で正式決定し、プレスリリースを出そうと思っていた時、思わぬビッグニュースが飛び込んできました。
「壇蜜 ふんどし姿でパフォーマンス」
スポーツ紙の1面にデカデカと掲載されていました。
記事を読むと、壇蜜さんの誕生日に、新宿のロボットレストランでイベントがあり、そこでふんどし姿になったと書いてありました。
壇蜜さんが日常的にふんどしをしているかどうかは別として、世に大きくふんどしというキーワードを出してくださったことに感謝し、すぐに所属事務所に連絡しました。賞の授与に関してお願いすると、お受けいただけるとのことでした。
2012年から大ブレイクした檀蜜さんの勢いは、とどまることを知りません。壇蜜さんがベストフンドシストに名を連ねたことが、さらに大きな話題を呼び、2013年2月の授賞式は、瞬く間にニュースとして広がっていきました。
著名人のお力をお借りして、ふんどしへの認知は確実に広がっている、と感じられるようになりました。
奇跡の『笑っていいとも!』 出演
「あ、もしもし、日本ふんどし協会の中川さんですか!? 急で申し訳ないんですが、明後日うちの番組に出てほしいんです。今からお会いしてお話をうかがいたいんですが、ご都合どうでしょう? 申し遅れました。私『笑っていいとも!』担当ADの◯◯です」
誰もが知っている長寿番組『笑っていいとも!』からの出演オファーは、あまりにも突然にやってきました。
僕への出演オファーは、前の週からはじまった「世界お一人さま遺産」という新コーナー。世界におそらく一人しかいないであろう人を紹介し、クイズを出すというものでした。
ふんどし協会の活動内容や、しゃれふんのこと、僕のふんどしへの熱い想いをひとしきりお話しした後、番組プロデューサーが、「おもしろい! ぜひ出てください。コンセプトとも合っている」と出演が正式に決定しました。
「ところでどうやって紹介しようかなあ? 〝世界で一番ふんどしを愛する人〟というタイトルでどうですか?」
プロデューサーの方にこう聞かれたので、一瞬考えてひらめきました。「いや、〝ふんどしブームを巻き起こす人〟と紹介してもらえませんか?」
実際にはまだ、ふんどしは「ブーム」でもなんでもありませんでしたが、僕はこの出演が一つのきっかけになるかもしれないと考えていました。
『笑っていいとも!』のような誰もが知る全国放送の番組で、「ふんどしブーム」というキーワードが出ることに、大きな意味があると思ったのです。もう自分で「ふんどしブームが来ている」と言ってしまおうと。
番組では、日本ふんどし協会の活動や、しゃれふんのことを紹介していただきました。いざ、あの舞台に立つと、不思議と緊張することなく、ふんどしのよさをアピールできました。そしてタモリさん、笑福亭鶴瓶さん、ベッキーさんなど出演者の方々全員が、服の上からふんどしを締めてくださり、大いに盛り上がりました。
控え室に戻り、携帯電話でメールをチェックしてみると、全国からしゃれふんの注文が殺到していました。リアルタイムで入る注文を眺めていると、起業当初に思い描いていたいいイメージが、少し現実のものになった気がして泣けてきました。
まずはふんどしのよさを全国のみなさんに知ってもらうこと。そのためにはふんどし界を代表して、僕自身が積極的に表に出て行くことが、何より重要なんだと気を引き締めました。
増えてきた賛同メーカー
『笑っていいとも!』出演をはじめとして、さまざまなメディアに取り上げてもらってから、少しずつ、まだご縁のなかったふんどしメーカーから、ご連絡をいただけるようになってきました。「自分たちのブランドも協会で紹介してほしい」という依頼が増えたのです。
今まで賛同することに躊躇していたふんどしメーカーも、メディア露出の効果はもちろん、僕が本気で普及しようと奮闘している姿に共感してくださって、少しずつ協会の想いに賛同してくれるようになりました。
僕は「しゃれふん」という自分のブランドだけではなく、さまざまなブランドや、さらに大手の下着メーカーも参入してもらえるような市場の拡大を目指しています。まだまだ少ないふんどし愛用者を各ブランドで取り合うのではなく、ふんどし人口自体を爆発的に増やすことを、いつも念頭において活動しているのです。
ユニクロさんや無印良品さんまでもが、ふんどしを販売するくらいにまでになれば、日本ふんどし協会の普及活動は間違っていなかったと言えると思います。
悔しさに震えた日
ふんどしが多くのメディアで取り上げられるようになり、認知が広がっていくと、それにともないしゃれふんの販売数も少しずつ伸びていきました。しかしまだ商品の発送も、十分一人で対応できる範囲で、一家族がやっと暮らしていけるだけの収入しかありませんでした。
2013年の4月、大阪の近鉄百貨店から取引のオファーがありました。近鉄百貨店あべの店は、関西で一番ステテコを販売したという実績があり、しかもこの年に全面リニューアルを予定していたので、大きな商談になりそうでした。
関西に販路ができ、クールビズの期間で、売上の倍増が見込めるチャンスがきたのです。しかしそのためには、在庫を用意する必要がありました。
数百枚単位であればなんとか用意できましたが、千を超えるオーダーとなると、生地の調達や職人さんの手配など、やはり自分である程度の資金を用意する必要が出てきます。
ここまで自転車操業でなんとかギリギリ食べてきた僕でしたが、この事業拡大のチャンスに向けて、銀行と日本政策金融公庫に小額の融資を相談に行きました。クールビズを乗り切るだけの商品仕入のお金が必要だったからです。
初めて銀行の融資担当者を前にして、会社概要、事業の内容、将来性等をプレゼンしました。今はお金がないだけで、クールビズでブレイクすれば必ず事業は拡大すると熱弁を振るいました。
「本当にふんどしなんて売れるんでしょうかねぇ?」
面談担当者からは疑いの目を向けられました。初年度は売上が極めて小さいので当然です。
ですが僕は、その都度、売上の伸びの推移、メディア露出による広報活動、そして自分自身の「ふんどしを広めて世の中を元気にしたいんだ!」という大義を語りました。どうしてもこのクールビズで結果を出す必要があったし、このチャンスを逃すわけにはいかなかったのです。
数日後、携帯に1本の電話がありました。
「今回は残念ながらゼロ回答で。またの機会によろしくお願いします」
いい返事しか考えていなかったので、ショックでした。
『AERA』で特集され、『笑っていいとも!』でも紹介されたにもかかわらず、減額ではなく、ゼロ回答だとは思ってもみなかったのです。
「今に見とけよ……。1年後にはオセロみたいに全部ひっくり返すから」
会社、自分、商品、そして、ふんどし自体に評価を得られなかったことが悔しくてたまりませんでした。
来年の同じ頃には、ふんどしに対する評価を変えてやる。向こうから「ぜひうちで融資を」と声をかけてもらえるくらいに成長してやると、決意を新たにしたのです。
第9章 そしてこれから
ついに授かった新しい命
「ええぇーーーー!!」
突然、トイレから大声が聞こえたので、何ごとかと思い駆け寄ると、妻が放心状態でした。
「おい、どうしたの? 大丈夫?」
「……」
「どうしたんだよ? 体調悪いの?」
「……」
少しの沈黙の後、「できたみたい……」。
うっすらと涙を浮かべる妻が、さっと何かを差し出しました。
妊娠検査薬でした。確かに妊娠を示す表示に変わったものでした。
待望の赤ちゃんが!
「おお! よかった! よくがんばったね。ありがとう! でもちゃんと病院に行って検査してもらおうね。俺も一緒に行くから」
結婚当初から、二人でずっと願っていた妊娠でした。
独立する時、大幅に世帯収入が減る覚悟をした時、たとえお金がなくても授かる努力は継続しようと二人で決めました。
それでもなかなか授からず、妻も苦しんでいたことをよく知っていたので、この検査結果は喜びよりも、どちらかというとホッとしたという心境でした。
この日から「父親としてしっかり稼ぐ」「家族を養っていくんだ」という意識が芽生えました。出産予定日から逆算して、妻に甘えられる期間はもうそれほど残っていないことを頭に入れ、ますますふんどしの普及活動に邁進していきました。
かっこいいパパでありたい。強い信念と大義をもって、誰かの役に立つ仕事をするパパでありたい。子どもにどんな背中を見せられるのか、そのために何をすべきなのか。妻の妊娠発覚以降、すべての意識が大きく変わっていきました。
子ども向けのふんどし
2013年7月。ふんどし界にうれしいニュースが飛び込んできました。
『ふんどし育児』(春秋社)という書籍が出版されたのです。紙おむつではなく、布おむつを使用するママが増えてきていますが、おむつのかわりにふんどし(のような形状のもの)を使用するという提案です。
ふんどしの形状にすることで、赤ちゃんが本能的にもっている肌感覚を大切にする効果が期待できるとか。紙おむつは吸収力が抜群でサラサラしていることから、おしっこやうんちをしたとしても快適に過ごせるというメリットがある反面、排泄をしたという感覚が鈍り、おむつを取った時にあらたにトイレトレーニングが必要なのです。
一方、ふんどし型のおむつは、排泄しても肌にふれてしまうことから、当然、気持ち悪さを感じ、本来の肌感覚が敏感になるとのこと。
おむつが取れるタイミングも紙おむつの赤ちゃんよりもかなり早く、あらためてしなければならなかったトイレトレーニングも必要なくなる場合が多いという内容が記載されています。
日本ふんどし協会および、しゃれふんにも、「子ども用のふんどしがほしい」との声がとても多いです。これはお子さんがアトピー性皮膚炎などの肌のトラブルに悩むママからの要望がほとんど。
アトピーはパンツのゴムでかゆみを引き起こしてしまうことがあり、子どもにわざとお父さんのぶかぶかのトランクスをはかせたりしていることも少なくないのです。
そういったこともあり、しゃれふんではテスト的にキッズサイズを販売したところ、たちまち多くの注文をいただきました。そしてかゆみが軽減できたと喜びの声も多数いただきました。
今後もキッズサイズのアイテム数を増やしていくつもりですし、他のブランドもおそらく、さまざまな展開を開始すると思います。
個人的には、子どものサイズに合わせてママが手づくりでつくってあげる、そんなムーブメントもつくっていきたいと考えています。
ちなみに肌のトラブルがない子どもでも、パパやママがふんどしをしていれば、「同じものをつけたい」と言うものなので、親子そろってつけられるふんどしなど、これからももっと広げていきたいと思っています。
「ふんどし」から「FUNDOSHI」へ! 海外進出への展望
ふんどしを海外にも浸透させたいという思いは、最初から強く意識していました。
特にSHAREFUN®(しゃれふん)は世界NO.1ブランドとして、近日、必ず進出させます。ニューヨークやパリ、ロンドン、ミラノなど、誰もが知るファッションの地にもっていくにはどうすればいいか、いつも頭の片隅にあるのです。
すでに現地にいる友人には国際郵便で送り、まわりの反応を見てもらっています。予想通り特に枡に入れたしゃれふんは、海外の人の反応がとてもいいようで、実際にいくつかの問い合わせが来ています。
まずはやはり先方から声をかけたくなるように、日本で結果を出すこと、広く浸透させることが、今できる大事なことと考えています。
海外での普及をすすめるために、「kickstarter」というアメリカのクラウドファウンディングにも挑戦しました。
オリジナルの「漫画ふんどし」を枡に入れ、製造するための金額を設定、ほしい人から小額ずつ出資してもらい、目標金額に達すればその金額でふんどしをつくり、出資者にお送りするという挑戦でした。
ふんどしを世界に!
結果はもうちょっとのところで達成できず失敗に終わりましたが、意外にも世界中から小額の出資が集まり、ふんどしへの関心、日本独自のものへの関心の高さを知ることができました。
この挑戦をきっかけに、ニューヨークのメディアから取材依頼が来たりして思わぬ効果を生み出しました。これもやみくもに営業するのではなく、積極的に新たな挑戦をしたことが、多くの人の目にとまった結果だと思います。
ふんどしで日本を元気に
最初に僕にふんどしをすすめてくれた松浦さんは、ふんどしにしてから「自分に自信が出た」と言いました。そしてうつうつとした日々を送っていた僕自身も、ふんどしを締めてワクワク元気になれました。同じように、全国から毎日のように「ふんどしにしてよかった!」の声が届けられています。
僕が一歩踏み出したことで少しずつではあるけれど、ふんどしが誰かを元気にしてくれていることは確かなようです。
たとえ歩みは遅くとも、ふんどしが広まれば日本は元気になる。
いや日本にとどまらず、世界中を元気にしたい。本気でそう思っています。
2020年には、東京でオリンピックが開催されることが正式に決まりました。その時には日本人は当たり前のように、就寝時のリラックスウェアとしてふんどしが浸透しているでしょうし、海外からの来場者には、ぜひともふんどしをお土産に買ってもらえるような仕掛けをしたいと思っています。
大義のあるバカでいたい
サラリーマン時代は、まったくと言っていいほど、仕事で成果を上げることができませんでした。ですが今、本当に少しずつですが、誰かの役に立てていると実感することができ、充実した日々を送っています。「これが広まったらみんなきっと喜ぶぞ!」「これで世界を変えてやるんだ!」と、本気で思っているからです。
では、当時よりも自分の能力が上がったのか? というと、そんなことはありません。僕の好きな言葉の中に、こんなフレーズがあります。
天才は、努力する者に勝てず
努力する者は、楽しむ者に勝てない
僕がことあるごとに思い出す、最も影響を受けた言葉です。
僕は人から「ふんどしなんて……」とバカにされても、まったく気にならないし、それどころかそういう人にどうすればこの素晴らしさをわかってもらえるか、考えて実行することが楽しくて仕方ないのです。おそらく僕は、世界一楽しんでふんどしと向き合っています。
かつては効率よく、そしてスマートに生きることが「カッコいいこと」だと思っていました。そして「自分もそうであらねばならない」と信じていました。
でも今は、まわりからバカだと言われるくらい、何か一つのことにのめり込んで、汗水垂らして愚直に前進している方がかっこいい。そう思えるようになりました。
かつてスティーブ・ジョブスが「10年後に一人1台のパソコンをもつようになる」と言った時、まわりのみんなが「あいつはバカだ」と笑ったそうです。
今、僕が「10年後、日本人は一人1枚ふんどしをもつようになる」と言ったら、おそらく同じように「あいつはバカだ」笑われることでしょう。
今から、10年後。
ふんどしをどこまで浸透させられているか、ぜひともご期待ください。
僕自身も今からワクワクしています。
ナイスふんどし!
おわりに
僕はつくづく幸せ者だと思います。
たまたま出会ったふんどしに魅了され、「世界中に広めたい!」と一歩を踏み出してしまってから、すべてがうまく回りはじめました。まるで「ふんどしの神さま」が背中を押してくれているような、そんな気さえしてしまうほど、多くの人の支えに助けられています。
大学受験で失敗したこと、東京での一人暮らし、就職活動で悩んだこと、美容師になったこと、兄の会社に入ったこと、病気になったこと……。
「あの時に戻れるなら、もっと違うことをしていたのに」と過去の自分を否定ばかりしていた、かつての僕。
ですがそれらの過去の経験たちは、決して失敗なんかではなく、それを通ってきたからこそ今があるんだと知りました。すべての経験が、まさに今、活きているからです。無駄なことなんて何一つなかったのです。
今はまだ、会社の通帳とにらめっこして「今月の給料は大丈夫かな」とハラハラすることばかりです。残念ながらまだサクセスストーリーではないのですが、それでも毎日が充実して、楽しすぎて怖いくらいです。
やりたいことが見つかってそれが実現したら、世の中も自分もうれしいっていうことを全力でできる喜び。これってやっぱりスゴイ。
もし、この本を読んでくれているみなさんが今、かつての僕と同じように悩んで苦しんでいたとしても大丈夫。安心してください。
あなたにしか出会えない、あなたにしかできない〝何か〟がきっとあるはずですし、それに出会えるきっかけは日常にあふれています。
僕にとって「ふんどし」がそうであったように、みなさんにとっての「ふんどし」が見つかりますように。
だって人生は〝ふんどし1枚で変えられる〟のですから。
最後に、この本の出版にかかわってくださったすべての方々、本当にありがとうございました。特に、まだ何者でもない僕の企画を通してくださったディスカヴァー・トゥエンティワンの石塚理恵子さん。筆が遅く、途中で投げ出しそうになった僕を、信じて、そしてやさしく支えてくださったからこそ、この本ができました。
そして、いつも影で支えてくれている妻のめぐみ。ついに生まれてきてくれた長男の福大郎(ふく た ろう)。彼女がいなければ、今の僕はなかったし、彼がいるからこそがんばれます。
その他にも感謝を伝えたい人は、たくさんたくさんいます。両親や家族、友人、お取引させていただいている方々、しゃれふんや、日本ふんどし協会をあたたかく応援してくださる方々、そして今、この本を読んでくださっているあなたに、心から御礼を申し上げます。本当にありがとうございました。
プロフィール
著者
中川ケイジ
一般社団法人日本ふんどし協会 会長
有限会社プラスチャーミング 代表取締役
1976年 兵庫県生まれ
大学卒業後、美容師に。その後、親族が経営する営業会社に転職するも成績が悪く思い悩みうつ病に。その時たまたま出会った「ふんどし」の快適さに感動。ふんどしで日本を元気にしたい!と強い使命感が芽生え独立。リラックスウェアとしてのふんどしブランド『sharefun®(しゃれふん)』をスタート。その後、ふんどしを広く普及するため(社)日本ふんどし協会を設立。2月14日を「ふんどしの日」とし、「ベストフンドシストアワード」を企画するなどふんどしブームの仕掛人として日々邁進中。
著書に『人生はふんどし1枚で変えられる』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)『夜だけふんどし温活法』(大和書房)がある。
2015年に都心から茨城県水戸市に移住。子育ての時間も大切にしながら新たな働き方を実践中。
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の全文公開は以上です。
出版以降のできごとたちと今の現状について(2020/2/10)
出版してから5年が経過しているので、本には描かれていない、その後の変化もたくさんありました。例えば
・不誠実な模倣ブランドが登場し、しかもそれが知人だったこと
・思うようなチームが作れず、心が折れかけたこと
・ブランドを再考し、メンズとレディースの2つに分けたこと
・被災地でしか作らないと決めたこと
・「今しんどい人を少しでも元気にしたい」と施設やメンタルクリニックでのワークショップを始めたこと
・子育てのために都心から地方に移住したこと
などなど。
一人会社とはいえ、継続していくというのは本当に大変。これまで続けてこれたことが奇跡かもしれないとも思います。
5年前に抱いていた目標もまだまだ達成できていないことばかりで、自分の能力のなさを呪いますが、それでも可能性しかないと信じて、地道に一つずつ階段を上っています。
2歩進んで3歩下がるようなことばかりですが、「ふんどし」というプロダクトだけでなく、僕のストーリーが誰かを元気付けたり、背中を押すことにつながれば嬉しいです。
天才は、努力する者に勝てず
努力する者は、楽しむ者に勝てない
この言葉を忘れずに、これからも楽しみながら、事業を展開していきます。
これを機に知ってくださった方、是非、SNS等で繋がってください。これからもどうぞよろしくお願い致します。
完
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
少しでも何かのきっかけになれば嬉しいです。
最後に1つお願いが…
以下の3つのどれかで感想を教えていただけませんか?出版社のご厚意に応えたくて。
ありがとうございました!
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すこしでも、今しんどい思いをしている人に届きますように。
最後までお読みくださり、誠にありがとうございました!