#93 教育の意味
こんにちは、鏑木澪です。
私は勉強という言葉に「気が進まないことをしかたなくすること」の意味があることを知った時に、ひどく納得しました。
このことからも察しがつくと思いますが、私は勉強が好きではありません。
正確にいうと、自分が知りたいことについて学んでいくのは大好きで、興味もないことを強制的に教え込まれるのが大嫌いです。
学校なんかがそうですね。(小声で)
「なんのために勉強するのか?」と質問した時に、
「良い学校を出て、良い会社に就職して、良い人生を送るため」などと答える人とは、できるだけ距離をとって生活したくなってしまいます。
どこかの寓話に、のんびりしている息子を叱った父親の話がありました。
「のんびりしていないで、勉強しなさい」
「どうして、勉強をしなければならないの?」
「必要な知識を身につけて、働くためだ」
「どうして、働かなければならないの?」
「お金を儲けるためだ」
「お金を儲けてどうするの?」
「のんびり幸せに暮らすんだ」
「それだったら僕、もうのんびりできて幸せだからいいや」
大筋はこんな話だったと思います。
(どこで読んだのかも忘れた&今は探す気がしない←)
教育の重要性、「なんのために勉強するのか」がわからないようでは、なにも学べていないのだと私は思います。
そういいながらも、現在の私は「知らなければ、幸せだったのに」と思うことが多いですから、結局のところ、この話の親子と同じです。
教育の意味は、教育の重要性を理解することにあるのではないでしょうか。
いや、知らんけど。
(意味不明な話をもっともらしくしておいての、このオチ←)
昨日、母がYouTubeでドキュメンタリー番組らしきものを観ていました。
私は横目に見ていただけだったので、よくわかりませんが、”ギフテッド”のお話だったようです。
子供ながらに特定の分野で類まれなる才能を発揮する彼らは、義務教育の学校に収まりません。
同級生にも教師にも理解されず、しばしばいじめの対象となります。
これに対して私は、「文化を脅かすものだから、排除しようとしているんでしょ」といじめる側の行動が理解できるといった話を母にしました。
少し前に読んだ本で、人間の生きる目的に自己の保存(生存欲求、種の存続)と同等か、それよりも優先される課題として「文化の伝播」が挙げられていたからです。
文化を正確に伝え、広げようとしている時に、それがうまくできない個体がいれば取り除こうとするのは、自然なことのように思えます。
まぁ、これはとても危険な思考です。
私は、理解できないもの同士、排除するより互いに最低限の交流で済ませ、干渉しないのが一番だと思います。
だからといってはなんですが、学校という狭い箱の中に押し込めて蠱毒を育てることもないといいますか、別に学校に行かなくても勉強はできるので、無理に行くことはないと思うのです。
(孤独も育っちゃうしね←)
私は、学校に行かなかったらどんな人間になっていたかなとよく考えます。
今より随分、幸せに過ごせるような気がします。
ただのないものねだりですから、実際に行っていなかったら、また逆のことをいうのだと思います。
ただひとつ、私にとって確かなことは、中高大と全く違う分野のことを学んだうえ、それらと全く関係のない職業に就いたので、少なくとも現在、学校で学んだことなど、なにひとつ役に立っていないということです。
障害になることはあっても、役に立つことなどありません。
今の私を支えているのは、自分が欲しいと思って自分で得た知識や技術です。
まぁ、正直にいうと自分にできることを正しく自覚するのは難しいですから、自分が認識できないところで、役に立っている”学校のお勉強”もあるのでしょう。
それに、障害となっているのは「学校での人間関係」に関連する経験が中心であって、”お勉強”の内容ではありません。
だから私は、「本当に勉強がしたいなら、学校なんか行かないほうがいい」と主張したくなってしまうわけですが、このご時世で歳の近い子と接する時間を削られながら育つ子供たちの気持ちを考えると悲しくなるのは、なぜでしょうか。
難しい問題ですね。
なんちゃら世代、私はさとり世代に当てはまるようですが、子供の頃に受けた教育は、その後もズルズルと影響を及ぼしてきます。
教育だけの問題でもありません。
解決策もないのに文句だけいうのは、不毛ですね。
自分なりにできることを考えていきます。
ではでは〜
(正直こういう話題はあまり好きではないのだけど、脳内がごちゃごちゃしていたのでちょっと書いてみました)
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