【短編小説】 甘さがほしい。
久しぶりに、朝食を作ってみた。
目玉焼き二つにベーコン。
ジャガイモのポタージュにクルトンを浮かべた。
コールスローもある。
チンッ。
パンが焼きあがったようだ。
実家にいた頃はパン作りが趣味の時期もあったが、社会人になってからはずっと焼いていなかった。
レシピなんて、もうすっかり忘れたと思っていたが、意外と雰囲気で作れてしまった。
体は作り方を覚えていたらしい。
家にいる”だけ”と思われているんじゃないか。
あの頃、家族の誰も、毎日、”家にいるだけの私”を責めはしなかった。
「食事くらい作れる」
そんな小さな自尊心を満たすために焼いたパンを、私の作った料理を、家族は「おいしい」と言って食べてくれた。
一応パンは焼けたが、とても一人で食べ切れる量ではない。
あの頃と同じように四人分のパンが焼きあがっていた。
スマホから音楽が流れ始めた。
目覚ましに設定している好きなアーティストの曲だ。
本当に好きな曲を目覚ましに設定してしまうといつの間にか嫌いになってしまう気がしたので、そのアーティストの曲の中ではあまり思い入れのない曲を設定している。
あれだ。
好きな人の声で目覚めたい。
しかし本当は、自然に目が覚めるまで放っておいてほしい。
そういうやつだ。
普段はワンコーラスも聞かない曲だけど、今日はフルコーラス再生してみよう。
これだけの朝食を食べるのに、一曲の再生時間ではとても足りないだろうけど、ループ再生にしてあるから安心だ。
目覚ましが鳴る時間、ということは今が本来の起床時間だ。
それが、今日はもう朝食の準備ができている。
パンの生地は、一次発酵に二時間くらいかかる。
その間にじゃがいもを茹でた。
コールスローに使う野菜を細かく切った。
私は包丁の扱いがうまいほうではないので、切るのに時間がかかったからちょうどよかった。
パンの焼け具合を見ながら、フライパンに卵を落とした。
私好みの半熟になったところで皿に移し、次にベーコンをカリカリになるまで焼いた。
パンが焼きあがる頃には全ての料理が完成していた。
私にとっては、理想の朝食だ。
わかっている。
今からシャワーを浴びたって、余裕で会社に間に合う。
でも、もう今日は行かない。
二つ目のパンに手を伸ばした。
「食べ過ぎ」
今ここに母がいればそう言っただろう。
アウトロの最後の音を残して、部屋が静かになった。
自分の咀嚼音だけが聞こえる。
自分しかいないのに急に気まずくなって、口を動かすのをやめた。
再びスピーカーからイントロが流れ出したのを合図に、ポタージュでパンを流し込む。
三つ目のパンを見つめる。
「太るぞ」
そんな父の声が聞こえてきそうだ。
私は大学三年の時、急に学校に行けなくなった。
自分では、特にこれといった理由が思い浮かばなかった。
昔から人付き合いが苦手だったので、授業でグループワークがあると気分は最悪だったけど、大学生ともなると「他人との付き合い方」というものがわかっている人が多いので、そこまで苦ではなかった。
アルバイトだって、「これって、本当に私の仕事なのかな」と思うことはあったけど、働いた時間に合わせてお給料はもらえたから、別に苦じゃなかった。
人付き合いが苦手だから、友達がいないのも問題なかった。
そう、全部問題なかった。
今だって、そう。
特定の「これ」という出来事はなかった。
でも、もう疲れた。
既に、今日一日分の炭水化物を摂取してしまったお腹は十分に膨れていた。
それでも手が伸びていくのを止められなかった。
四つ目のパンに齧り付く。
「もうやめとかんけん」
たぶん、祖母はそんなこと言わない。
今だったら、どんな言葉をかけてくれるのだろう。
もう聞くことはできないから、わからないけど。
空になった皿を見ながら、ゆっくり深呼吸した。
気を抜くと食べたものが全て溢れてきそうだ。
こういう食事の最後にはコーヒーが似合う。
そう思ったからコーヒーを淹れた。
今ならブラックでも飲める。
そんな気がした。
……苦い。
とても飲めない。
いい年こいてブラックコーヒーも飲めない。
そんな自分が情けない。
でも、苦いものは苦い。
私の舌はまだまだお子ちゃまだ。
このままじゃ、本当に子供に戻っちゃう。
一人じゃ、何もできなかったあの頃に。
キッチンから砂糖を持ってきてスプーンに山盛りにし、コーヒーの中へ何杯も何杯も放り込んだ。
大幅に量が増したそれを一気に飲み干す。
甘ったるい。
口の中に残ったのは甘さだった。
砂糖を使い切ってしまった。
少なくなっていたとはいえ、今日使い切る予定ではなかった。
仕方がない。
砂糖を探しに、少し出かけてみよう。
本日、三度目の落ちサビの歌詞が不意に耳に刺さった。
こんな歌詞だったのか。
ありがとう。
今日も私を生かしてくれて。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?