【掌編小説】 しゃっくり
「酢だ、酢!」
彼はそういって、コンロの下にある戸棚から酢をとりだした。
昼食後、プリンを食べるのに使ったスプーンは綺麗に洗われて、流しの上に置かれたコップに仲良くふたつ並んでいた。そのひとつを引っ掴んで戻って来た彼は、親指と人差し指で器用に端をつまむと、小指はピンと立てたまま、小さなスプーンから溢れないように一口分の酢を注いだ。
「飲め!」
首を振って抵抗するも虚しく、口に捩じ込まれたスプーンから酸っぱい液体が喉に流れ込んできた。思わず咽せる。
「どうだどうだ。止まったか?」
しばしの沈黙。
ゆっくりと呼吸をする。
静まり返った部屋に、時計の秒針と私の呼吸、家の外を行く自転車のカチカチという音が響いた。
「おー! よかったね!」
しゃっくりは、100回出ると死ぬらしい。
そう騒いでいた彼は、私のしゃっくりが止まったことを心の底から喜んでいるようだった。
彼は、夏の間だけの友人である。
母方の祖母がこの近くに住んでいるらしい。
出会った頃は、鼻水を垂らした子供だった。
今ではすっかり背が伸びた。
立って話していると首が痛くなってしまうほどだ。
「僕は、来年も来るからね。何か欲しいものある?」
首を横に振って応える。
本当に来年も来てくれるなら、それで十分。
もう、いっぱいもらっているよ。
「たまには違うとこへ遊びに行けって言われるけどな、やっぱりここが一番落ち着く。ずっと夏だったらいいのに」
彼が願ったように、1年のうちじっとりと暑い季節が昔より数ヶ月のびたように感じる。
しかし、それで里帰りの頻度が上がるかといえば、そんなことはなかった。
それどころか、ここ20年は彼の姿を見ていないように思う。
立派な大人になっただろうか。
……まだ、私のことを覚えているだろうか。
もうじき、100回目のしゃっくりがでる。
じっと息を殺しても、体が迫り上がる。
吸い込みたくもない息が、私の中に入り込んでくる。
コンコンと、部屋の扉が叩かれた。
その向こう側に立っている人物を、私は知りたくない。
誰であっても、都合が悪い。
私はここを離れることができない。
どれだけここにいたかもわからない。
もう二度と、彼のような人の子とは出会いたくない。
わずかな期待でも抱いてしまうと苦しくなる。
バカな話だ。
何百年も息なんてしていないのに。
どうして、しゃっくりは止まらないんだろう。
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