【短編小説】 彼と、中華料理屋の1時間

 待ち合わせに、閉店1時間前の中華料理屋を選んだのは、私の間違えだったと思う。


 彼とは、学生時代からの付き合いだ。

 付き合いなどというと、そういう関係と思われるかもしれないが、ただの学友会の先輩と後輩だ。これが少し複雑で、私のほうが学年は下だが、学友会に入ったのは彼のほうが遅かった。

 大学生ともなると、1年くらい差があったところで、それほど大きな違いは感じない。義務教育を受けていた頃のように、あっという間に背が伸びてしまったり、学んでいる内容が大幅に違ったりはしないのだ。

 だからこそ、私を先輩として扱おうとする彼は、周囲から見ても不自然だっただろうし、私も居心地が悪いから「そういうのいいですから」と何度伝えたことか。

 彼は「自分なんかに敬語は使わなくていいですよ」とよく言っていたけれど、私もそこは折れなかった。あまり親しくない歳上の人に、タメ口をきくのは生理的に受け付けない。

 結果、私を”先輩”と呼びながらタメ口で話す彼と、”後輩”の彼に向かって敬語で話す私の奇妙な関係が成立したのだった。


 彼は、はっきりいって仕事のできる人ではなかった。

 ただ、とても人当たりがよく、職員からも他の学生からもよく好かれていたと思う。

 ……私とは、全然違って。

 ひとたび、彼が招集をかければ、普段は恥ずかしがって顔を出さないような内気な子も、仕事をサボって夜な夜なクラブに足を向ける素行不良と言って差し支えないような子も、ひとところに集まって平穏に過ごした。

 そう、彼の周りに争いはなかった。

 放っておけばキャットファイトを始める女たちも、犬猿の仲といわれ、顔を見れば発する音は舌打ちだけになる男たちも、彼がその場にいれば、皆一様に大人しく、柔順になった。

 私が何度企画書を持ち込んでも「そんなものは使えない」と切り捨てた職員ですら、同じ書類を彼が持って行ったら、「素晴らしい。これで行こう」と二つ返事で、すぐに判を押した。

 側から見れば、彼のほうがよほど優秀で、よく仕事のできる人に見えたと思う。

 妬ましかった。
 彼の近くにいて心が和やかになったことなど、私には一度もなかった。

 彼がいなければ平穏だったかといえば、そんなことはない。

 ただ、彼が近くにいなければ、こんなに惨めな思いはしなくてもすんだのではないかと、思わずにはいられないのだ。

 そうだ、はっきり言おう。
 私は、彼が嫌いだ。


 大学を卒業してから数年が経ち、私は学友会メンバーの連絡先を殆ど削除していたが、卒業ギリギリまでやり取りをしていた彼の連絡先は消せずにいた。

 やり取りといっても、内容は仕事で、プライベートな話などしたことがない。

 少なくとも、私のプライベートを話すことなどなかった。
 彼とは親しくない。

「ありがとう」と彼から送られてきたメッセージを最後に、2年近く放置されていたチャットから小さな通知音が聞こえたのは、昨晩のことだった。

 彼らしい、いかにも人に好かれそうな言い回しで書かれていたのは、私の体調を気遣う言葉と彼の近況、そして久しぶりに会いたいということだった。

 今の私に会って、彼に何の得があるのだろう。

 断ろうとした指先が、「会いたいです」と返事をしてしまったのは、彼が懸念していた通り、私の体調が悪かったせいだと思う。

 体調というより、心の調子が悪い。

 病名がつくほどの何かではないが、ただ、誰か私を知ってくれていて、私に優しくしてくれるかもしれない人が両手を広げて待っているなら、そこに飛び込んで楽になりたいと思ってしまった。

 彼の近くに、そんな安らぎなんて、あるはずがないのに。

 それほどまでに、疲れていたのだ。


 その中華料理屋は、22時には店を閉める。

 アルコールを入れるなら、もっと遅くまで開いている店がいいが、私は飲めないし、何かあった時に帰るための口実としてもこれくらいがいいだろう。

 話し足りなければ、次の店を探せばよいことだ。

 お互い仕事終わり、金曜日の21時。

 店は混んでいるに違いないと思っていた。
 驚いたことに、客はひとりもいなかった。

 これでは、碌に話もできないなと思った時には、目頭が熱かった。

 待て待て。
 私から彼に話すことなどない。

 冷静になれ。

 10分遅れて「ごめん、先輩。迷っちゃって」とやって来た彼は、てっきりスーツを着てくるものだと思っていたが、ジーパンにTシャツというラフな格好だった。

 驚いたが、私の口から出た声は、思いの外淡々としていた。

「ラストオーダー、21時半だそうです。先に、注文しましょう」
「そうだね。僕、かた焼きそば食べたいな」
「上海風焼きそばとかた揚げそばがあります」
「じゃあ、揚げそばで」
「はい」

 注文は、テーブルの端末からと店員に言われていた。
 私は、端末を操作して”かた揚げそば 800円”をカートに入れる。

「先輩は、なににするの?」

 彼は、自分のほうに端末を引き寄せた。
 サイドメニューから、四川餃子と水餃子をカートに放り込んでいる。

「坦々麺にします」
「了解!」

 彼はさらに麻婆豆腐と白ごはんにサラダをつけて、「あとは、どうしようかな……お酒飲む?」と聞いてきた。

「飲めないの、知ってるでしょうに。意地悪ですね」
「ごめんごめん。今日は飲むかなと思って」

 カートを開いて端末をこちらに向けると「これでいいかな」と確認し、私が頷くと彼は注文ボタンを押した。

 厨房から、ピロンと注文完了を知らせる音が響く。

 静かだ。

「どうして、私に会おうと思ったんですか? あなたなら、他に親しい人や会える人、いくらでもいるでしょうに」
「そう見える? 案外、もういないんだよ。どんな顔して会ったらいいかわかんないし」
「学友会時代の相手に限らなくても……職場の方、同僚でも上司でも、部下でも? すぐ、手玉にとりそうなのに、不思議ですね」
「やっぱり、先輩にはそんなふうに見えてたんだ。ひどいなァ」

 彼は言葉を切って、コップに入っていた水を一気にぐっと飲み干した。

「……先輩だけだった。僕の思い通りにならなかったのは」
「え?」
「僕はね、わりと運がいいのか、人に好かれやすくてさ。僕のためになにかをしてくれる人がいつもどこかにいた。すごく楽だった。……学友会の時も今も。他人の企画書を自分が書いたような顔をして提出しても、全然心が傷まない。僕が提出したら通るし、上手くいくし、”僕のおかげじゃん、ありがたがれ”って……正直、思ってた」

 空になった彼のコップに注ぎ足そうと持ち上げたピッチャーの氷が、私の代わりにからりと鳴って返事をする。
 水を注ぎ終わって、コップを彼に返すと同時に私の口から出た「そうですか」という声は、思ったより低かった。

「でも、先輩のだけは違った。初めて気持ち悪いと思った。先輩を怒鳴っていたあの職員が、僕には満面の笑みで判をついた時、初めて……この人、気色悪いな。いや、僕のほうがよっぽどそうだなって」
「なぜですか?」
「先輩、愛想笑いしないでしょ。スタンプ貼り付けたみたいな顔。僕、自分がそんな顔してるおかげで好かれているんだって、あの時、初めて気がついた。それからは……地獄だったな、あははっ」

 彼は、少年のように笑った。
 学生時代よりも、幾分か幼く見えた。

「どうして、そんな昔話をするんですか?」
「……先輩に、謝りた……んん、伝えたいことがあって」
「謝られるようなことはされていないので、謝罪は不要です」
「あ、いや……えっと」

 店員が料理を運んできた。
 餃子、麻婆豆腐、白ごはんとサラダ、彼のかた揚げそばが思ったより大きくて、テーブルはすでにいっぱいだった。

「立派ですね」
「こんなに多いと思わなかった。全部食べれるかな」
「少しもらってもいいですか?」
「もちろん、いっぱいとって」

 店員が持ってきてくれた取り皿に、少しだけかた揚げそばをもらった。
 彼が揚げそばをひとくち頬張ると、店内に心地のいい「パリッ」「ポキッ」という音が響き、思わず「CMに出れそうですね」と感想を述べてしまう。

「んー! おいしい。先輩も食べてみて」

 私も、皿うどんの類は好きだ。
 箸で麺を一口大に割り、たっぷり餡をかけて頬張る。

 とろみのある餡は、予想以上に熱かった。

 ハフハフと熱を逃がしていると、坦々麺が運ばれてきた。
 かた揚げそばと比べると少なめに見えたが、彼が注文したサイドメニューの量を考えると、これくらいがちょうどいい。

「君も、よかったら食べてください。つぎますよ」
「ありがとう」

 受け取った坦々麺を彼は豪快にすすり、次の瞬間、盛大にむせた。

「だ、大丈夫……ですか?」
「先輩がすました顔して食べてるから! こんなに辛かったんですか!?」
「……そんなに辛くないと思うけど」

 信じられないと目を見開いて、彼はしばらく咳き込んでいた。

 ふと時計を見ると21時45分を回っていた。
 あと15分で店を出なければならない。

 坦々麺は残り半分というところ。
 私は時間内に食べ切れるだろうが、彼のかた揚げそばは「提供されたばかり」と言われても違和感がないほど、残ったままであるし、サイドメニューもふたりで食べているはずなのに、減る気配がない。

「先輩、あと15分」
「わかっています」

 フードファイターのように、額に汗を浮かべながら、黙々と食べた。

 残り7分を切る頃、「ごめん、もう入らない」と彼がギブアップしたため、私はもはや味など気にしている場合ではなく、大口を開けてバクバクと食べ物を吸い込むだけのバキュームと化していた。

 最後は、彼の残したかた揚げそば。

 私もそろそろお腹がはち切れそう。
 蓮華に乗せながら、どうにか口へ運ぶ。

「会計、行っとくね」

 おい、ちょっと待てと言っている場合ではないと時計に書いてあったので、頷いて食べ続ける。

 21時58分。

 私たちは店を後にした。

「おいしかったね」
「そう……ですね」

 気を抜くとウエスト弾けてしまいそうだ。

「また、気が向いたら声かけるから。時間があったら付き合ってくれると嬉しい」
「わかりました。次は、時間に余裕をもって会いましょう。急かされて食べるのは嫌です」
「ここ、先輩が選んだお店だよ」
「……申し訳ありません」

 彼の背中を見送った。
 学生時代より自信なさげに歩く、平均的な男の背中だった。


 お腹がいっぱいすぎて服の窮屈さは感じるが、不思議とここに来るまでにあった胸を締め付けられるような痛みは消えた気がする。

 ただ、少しだけ舌に苦味が残った。

 かた揚げそばには、青梗菜が入っていた。
 私は、青梗菜が苦手なのだ。

 昔は大嫌いだったが、今はとりあえず食べられる。

「でも、やっぱり苦手なんだよね」

 誰に言うでもなく、そう呟いて、私はシートベルトを締めた。
 家までは、ここから20分。

 いつものように、適当にプレイリストを選んで音楽を流す。

 曲に合わせて口遊む。
 ふと、自分の口からこぼれ落ちた歌詞が、思いもよらない言葉だった。

「普通、言わないよね。直球すぎるわ」

 彼と過ごした1時間と、その前の数年を思い出しながら、私は繰り返されるその歌詞を噛み締めた。

 次に彼と話す時は、こんな話し方もいいかもしれない。

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