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三浦権太夫の思い

本日は、二本松落城の日です。
ツイッターの私の周辺では、鎮魂・哀悼のツイートで溢れておりまして、私も何か書こうと思っていました。
昨年は、短歌を詠んでいましたね。

ちょうど、この歌を詠んだ頃は「直違の紋~」の第三章を書いていた気がします。

で、話は冒頭に戻ります。
新作である「鬼と天狗」も再び二本松藩の話ですが、実は「直違の紋~」を書いていた頃に、どうしても理解できなかった人物がいました。
それが、三浦権太夫。

詳しくは、「直違の紋~」の第二章(西軍来襲)を読んでいただければと思うのですが、個人的に「どうなのよ」と思っていた方です。
だって、西軍が二本松城下に迫っているのに、仮にも武士が「勤王」を理由として、一つも抵抗しないって、どうなのよ?と。

ですが、新作執筆の資料として提供していただいた、昭和10年の東京朝日新聞の記事の談話で、出陣前に、「これで藩のために死ねそうです」との言葉を家族に残していた……というエピソードを読んで、彼もまた、紛れもなき二本松藩士だったのだと感じました。

二本松ではバリバリの勤王党として知られている人で、割とあちこちに足跡を残している人なのですが、一歩間違うと、「藩是を揺るがしかねない極派の持ち主」とも捉えられかねません。
実際に、大正時代に入ってから靖国に祀られた背景には、政府側のそのような政治的思惑もあったと私は感じています。

ですが、当人は本当に藩の行く末を心配した、純粋な人だったのでしょう。
そうすると、彼の辞世の句の解釈も、変わってきます。

あす散るも色は変らじ山桜

形式としては、俳句なんですよね。
ですが、詠んだ時期が秋(旧暦7/29は、現代の9/15)だというのに、春の季語である「山桜」を詠んでいることが、私は引っかかっていました。
今と俳句のルールは違うかもしれませんが、明らかに時期外れで、俳句の出来としては正直いまいち^^;

この「山桜」が、「霞ヶ城」の比喩だったとしたら、どうでしょう。
霞ヶ城の名前は、春になると周りの山桜が「霞のように咲く」との故事から、つけられたとも言います。
俳句の世界では「安直な比喩は野暮」とされているのですが、それを知っていたか知らずかは別として、二本松藩のシンボルである「霞ヶ城」を暗喩する言葉として、「山桜」を詠んだのだとしたら……。
権太夫の句は、全く意味が変わってきます。
さらに推測を重ねるならば、本当はこれに下の句をつけたかったのかもしれませんが(つまり、本来は短歌にしたかった)、何らかの事情でつけられなかったのかもしれません。

この句(もしくは歌)の真意は、今となっては謎に包まれていますが、このような解釈もありではないかと、(一応)俳人の端くれでもあるワタクシめは、推測するのです(*^^*)

本日は、彼の命日でもあります。
「鬼と天狗」では、三浦権太夫も登場する予定なのですが、もし彼が生きていたのならば、この歌の意味をぜひ聞いてみたいものです。

※追記
ツイッターである方への返歌として、とっさに詠んでみました(*^^*)

安達野に露と散りぬる我が身とて
赤心残せり令和の時代とき

©k.maru027.2023

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