見出し画像

最近の衝撃

本日、メディアパル様より先日書いたトピックを再びご紹介して頂きました。
他の方の作品も含めて、「教科書での作品との出会い」に思いを馳せていただければ、幸いです。

ところで、その関連で衝撃的な記事を見つけてしまいました。
いえ、筆者の方に文句があるわけではありません。むしろ、筆者が現在の教科書の在り方に危惧を覚えるのが、よく分かる。

昨年、教育関係の記事をとある商業メディアで書いていたことから、多少は予想していました。
ですが、「こころ」や「山月記」まで消えてしまうとは……。

最近、つらつら思うのが「想像力の欠如した書き手」というのも、増えつつあるのではないか?ということです。
モノカキでありながら、「人の気持ちなんか分かるわけがない」と公然と言ってのけた人も見ているのですけれど、人の気持ちが「分かる・分からない」よりも、人々の痛みに共感しようとするその姿勢こそが、大切なのではないでしょうか。

共感力の低い人が書いた文章は、何処か空々しさが残る。

夏目漱石も、中島敦も。
変人?や寡黙な人(これは私の勝手なイメージ)で括られがちかもしれませんが、根本的には人間への興味や愛があって、それをさまざまな形で作品にしたのだと思うのです。

本当に人間に興味がなければ、そもそも作品にしようとすら思わないのではないでしょうか。

教科書に掲載されていた文学的作品というのは、そのようなさまざまな人間群像に出会う、学びの場でもありました。

中島敦は私が好きな作家の一人ですけれど、恐らく、教科書に載っていた「山月記」に出会わなかったら、そこから他の作品(「李陵」など)も読まなかっただろうと思います。


私自身は、実用文で対価をいただくことが多いのですけれど、その素地を作ってくれたのは、どちらかというと文学作品の方が圧倒的に多い。
古典を始め、文学作品を通して多様な人間の心の機微や感情に触れてきたことで、想像力を膨らませて、例え実用文であっても、読み手がどのように受け取るか思いを巡らせながら文章を綴ってきたとも言えます。

今振り返ってみても、やはり私の読書や文章の素地を作ったのは、教科書を始めとする、今まで出会った名作の数々だったと思う。

ネットが発達した現在、情報の伝達速度は昔とは雲泥の差があります。
ですがそうした世の中だからこそ、文章を読んで「すぐ分かる」ではなく、行間を読んで味わうという経験を積むのは、教科書でも利用しないと、体験しにくくなっているのかもしれません。


アメリカやイギリスでは、教科書の「検定制度」のようなものはなく、各学校の裁量に任されているとのこと。
とすれば、日本のように「共通の教科書をベースに、文学についての思い出を語る」というのも難しいのでしょう。

世の中のニーズが「実用的な文章の読解」と言っても、やはり根底にあるのは「人間の心」。
そもそも、世の中に出回っている文章は、本来は伝えたいことを「削ぎ落とされた文章」もかなり多い。
これからの世代にそのことを忘れてほしくないですし、想像力から生まれる疑問や懐疑の心も、大切にしてほしい。

そう願って、止みません。


©k_maru027.2022

#エッセイ
#読書
#人生を変えた一冊
#現代文がすき


この記事が参加している募集

人生を変えた一冊

現代文がすき

これまで数々のサポートをいただきまして、誠にありがとうございます。 いただきましたサポートは、書籍購入及び地元での取材費に充てさせていただいております。 皆様のご厚情に感謝するとともに、さらに精進していく所存でございます。