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読書感想文~「峠」&「河井継之助伝」

まずは、峠から。
「峠」は言わずと知れた、司馬遼太郎の作品です。
もっとも話題になったにも関わらず、映画は見ていないので、文字通り「読書感想文」を。

 得体の知れない継之助

継之助は、得体が知れない人物というのが、私の印象です。

長岡藩の石高は、7万4千石。私が小説で扱っている「二本松藩」と藩の規模が近いこともあり、この藩に見合わないという人物評が、ずっと気になっていました。

その謎が解けたのが、長崎まで遊学していた継之助の行動です。
江戸に行くというのはまあ、わかる。京もわかる。ですが、長岡から長崎まで行くというのは、なかなかないでしょう。
西国が軒並み長崎に藩邸を持っていたのにも関わらず、東国はせいぜい京都止まり。その障壁を乗り越えただけでも、その後の感覚が違っていたのだろうと思います。
今で言えば、「国際感覚」を持っていた人物ということでしょうか。 

明治で活躍する人物がぞろぞろ登場

個人的に興味深かったのは、継之助が東国の人間であるにも関わらず、割と西の人間とも交流をしている点です。
まずは、福地源一郎。この人が幕臣だったのは、「峠」を読んで初めて知った次第です。明治に入ると、西南戦争で従軍記者として活躍していて、あちこちで名前を見かけるのですけれど。

また、福沢諭吉と立憲君主制や連邦制について論じている場面も、興味深いですね。
※ただし、これはどうも司馬先生の創作ではないかと思います。

地元の人間としては、会津藩の秋月悌次郎あきづきていじろうが登場しているのも、意外でした。

これだけ東西を問わず広くの人間と交流した人物も、珍しいのではないでしょうか。
確かに、継之助の見識は広かったのだろうと思います。 

長岡藩のくびきから抜け出せなかった継之助

とは言え、継之助はあくまでも「長岡藩の家老」。長岡藩の中立を守るためにガトリング砲を購入し、最新式の「ミニエー銃」を大量に揃えました。
これも「薩長に対抗するため」ではなくて、強力な武器を持つことで周辺に圧力をかけ、独立を維持しようとしたのですね。
それでも、「武士は主君のためにあるもの」という道を、継之助も貫こうとしたところが、やはり東国の武士。一部の藩臣には理解されなくても、決して彼の行動は、私心からのものではなかったのです。
二本松もそうなのですけれど、この温度差が、「討幕側」との違いの一つではないでしょうか。

独断と偏見を承知で述べれば、西国の面々の方が、「主君への忠誠心」が心持ち、希薄のような……。

 司馬遼太郎の描く人物は、非常に魅力ある人物が多いのですけれど、それでも、この河井継之助に限っては、何を考えていたのかわかりにくい人物だと感じます。当時の長岡藩の面々も、そのような印象を持っていたのではないでしょうか。
醒めているところがあるくせに、最後は「長岡藩のために」殉じる屈折した行動が、わかりにくい人物と感じさせるのかもしれません。

たとえば同時代で似たような立場にあった、「酒井玄蕃さかいげんば(庄内藩家老)」と較べると、「爽やかさ」にイマイチ欠ける(苦笑)。
もっとも、地元では、非常に高く評価されている人物です。

知識・見識は十分グローバルな視点の持ち主だったのでしょうけれど、為政者として優れていたのか、軍事家として優れていたのか。それも、他の地域の人からすると、わかりにくいですかね。
いずれにせよ、長岡藩という規模の中では、消化不良の人物だったのでしょう。
ですがきっと、継之助自身も、「長岡」の枠から出ることを、良しとはしなかったと感じます。
最後に、会津に落ち延びる際に頑迷に抵抗した事実が、それを物語っているのではないでしょうか。 

河井継之助伝から見る継之助

さて、「峠」だけではどうにも継之助の魅力がよくわからなかったので、司馬遼太郎先生が「元ネタ」にしたであろう、「河井継之助伝」もざっくりと目を通してみました。

中年の頃までは、突出したエピソードはありませんが、 

  • 随分と強情な人

  • 鋭いところがある

  • 従来の常識に甘んじない

  • 読書家

 などなど、「継之助らしい」人柄が伝わってきます。

ただ、継之助の言動は高尚すぎて、藩のお偉方から見た場合時勢に適さず、到底実行できるものではない。また、人のプライドを傷つける、敢えて公命に従わないへそ曲がりなところがあるなど、付き合う人を選ぶようなところがありますね。

また、どの藩でもそうでしょうが、「青二才で経験もない者が、権力のある役目が務まるわけがない」と、反発する人もいたようです。

それでも抜擢されたのは、藩主牧野忠恭が彼の器量が非凡であることを見抜き、絶対的な信頼を置いていたため。

また、「峠」でも出てきた博打禁止令や遊郭の取り締まりなどの他に、中の口川(信濃川の支流の一つ)の改修事業を行うなど、民政にも力を注いでいたことが、よくわかります。やはり、ただの「へそ曲がり」ではありませんね(→ひどい^^;) 

画像出典:河井継之助伝(今泉鐸次郎 著)

薩長の二重の見解

さて、河井継之助のハイライトと言えば、「小千谷談判」でしょう。
司馬先生は岩村精一郎側からの視点をあまり詳しく描いていらっしゃらないのですが、「河井継之助伝」には、岩村の談話として

「長岡藩は最初から朝敵とみなされていて、必ず討伐するものと決められていた」

という趣旨の記述があります。
白河~会津攻撃ルートの世良修蔵にも通じるところがあるのですけれど、どうも、参謀クラスの実務官には、「必ず奥州を征伐せよ」との命令が下されていたのではないでしょうか。
理由として考えられるのは、「新政府の威光を示す」ため。
もっとやり方があっただろうよ、と現地の人間としては感じるのですけれどね。

 その一方で、こんな見解も。四条隆謌しじょうたかうたという、西軍側の人による談話です。
(戊辰戦争では、大総督参謀を務めています) 

「日本全国王臣にあらざるはない。会津とても王臣である。鳥羽、伏見の戦争は、いずれが発砲の前後だか、それを論ずる必要もあるまい。大体が、会桑両藩は入京を禁ぜられているのに、徳川内府先駆の兵とは申しながら、あれでは幕命は奉ずるが朝命は奉ぜんということになるから、よくなかったのである。今は慶喜公も天下の為に言うべきことも言わず、謹慎恭順しているから、ここは一つ河井君、君は長岡藩の人傑ということじゃが、君が先達になって、会津藩を説諭し、戦争などは止めにして、慶喜公に習い、帰順するように尽力してくれんかい。この嘆願書は一時預かり置き、追って当方から返答する」
というように、やんわりと出れば、河井もあれほど反抗もしなかっただろうに、岩村が頭から高飛車に出て決めつけたから、到底これも5ヶ月の難戦で、奥羽軍4万余人、官軍6万の大兵を動かすようなことになってしまったのである。

 さらに、河井継之助伝には、西郷隆盛と勝海舟の談話も掲載されているのですが、

  • 奥羽は土地が広い

  • 人間が利害よりも情誼に篤い

  • 征夷将軍の威望のみ知っていて、朝廷の徳沢の及ばないところである

  • 大らかな西郷が清濁併せ呑んで、海のように大河小川を受け入れるべきであり、それから大海の徳で清めてやるというようでなければならない

 などなど、後段二つはともかく、奥州の特徴をよく押さえています。
特に、「利害よりも情誼を重んじる」というのは、現代でも通じるところがあり、奥州の人間と付き合うならば押さえておきたいポイントです。

越後の長岡藩が奥州か?というとまた別の話なのですが、「利害よりも情誼に篤い」という性質は、継之助の行動を見ていても、奥州諸藩と共通していると思います。

 この二重の方針が、奥州だけでなく、その後の日本の在り方に、陰を落としたと言っても、過言ではないでしょう。

 新政府軍側も、実は人材不足だったのかもしれません。それを隠蔽するために、「奥州皆敵」を叫び、殲滅しなければならなかった。
継之助を始めとして、東軍側についた多くの貴重な人材が、それによって失われました。
司馬先生が描きたかったのは、その点だったのかもしれません。

  ※なお、トップ画像は「河井継之助記念館」のHPより拝借いたしました。


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