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【直違の紋に誓って】第三章 若木萌ゆ~台連寺(2)

「確かに、三浦の言う通りだった。あの後、三浦に再び説教されたわ。武谷殿のご子息を会津に置き去りにしたことを、いつか詫びよと。だが、二本松に戻ってからも蟄居させられ、下長折を訪ねることすら許されなかった。儂に許されたのは、せいぜい殿のための嘆願書を書いて出府し、亡き者の墓参りをするくらいだった。おかげで、未だに『丹波はいつになったら腹を切るのか』と言う者も多い」
 自嘲するように、丹波は口を歪めた。この老人は、あの戦いの後、周りからの責め苦を負いながらひたすら耐えてきたのか。
「あの場におった大谷鳴海も、三浦も、もうこの世にはおらぬ。三浦など、大阪に行ってしまったから墓参りすら出来なくなってしまった」
 ここまで心境を吐露されると、さすがに丹波が気の毒になってきた。三浦に対しては、墓前で詫びようにも、あまりにも遠すぎて行くことすら叶えられそうにない。そもそも、丹波自身も数年前にやっと永蟄居が解けたばかりだった。二本松の戦犯の一人ではあるが、あまりにも不自由な身には違いない。
「三浦の理論で言えば、お主も、儂を恨む資格はあろう」
 どうだろう。剛介は薩長を憎いと思ったことはあるが、二本松藩の者に対して怨みを持つ気にはなれなかった。思わず、首を横に降った。
「あの頃は、公に忠義を貫くことしか頭にありませんでしたから」
 それに。
「私は、会津で生き永らえました。二本松の大切な種子だからこそ、皆様から生きねばならぬと言われましたゆえ」
 丹波が目を見開いた。だが、と言葉を続ける。
「お主の同胞も、数多く死んだだろう。その後、生きている事を恥とは思わなかったか」
 剛介は、穏やかに微笑んだ。
「皆が死に絶えてしまっては、奥州の復興は成し遂げられませぬ。それ故、生きなければならぬと思ったまでです」
 束の間、沈黙が流れた。 
 あの頃、丹波の振る舞いに嫌気がさしていたのは間違いない。それでも、恨みというのとは違う感情だった。
 本当に目の前の老人は、何も考えていなかったのだろうか。確かに、丹波は多くの過ちも犯してきたのだろう。その一方で、半左衛門のような無名の者の才を見出す器量も、多分に持ち合わせていた。剛介の同胞の墓参りに来ていたらしいことからも、どうも一部の者が言うように、単なる奸臣とは思えなくなってきた。

「私からもお尋ねしたき議がございます」
 剛介からの質問は、意外だったのだろう。丹波が眉を上げた。
「子供の頃の記憶故、誤解もあろうかとは思いますが。丹波さまについては、良いお話を聽く機会は少のうございました。あの頃の丹波様は、二本松をどうされたかったのでしょう」
 剛介は、それが疑問であった。この老人が専横のあまり多くの者を処断し、長らく藩の重鎮の座にあったという噂は、本当だったのだろうか。丹波に見出されたという父の名誉のためにも、そうであってほしくなかった。 
「……そうだな」 
 丹波は、淡々と語った。

 儂は、江戸藩邸にも長くあった。それゆえ、薩摩や長州の軍事力が決して侮れないものであることも、よく知っておった。かの藩の下士達は、家柄に関係なく取り立てられることもあり、それが薩長の強みであった。西方は利を上げるのが上手い者が多い。その儲けで最新の軍備を整えた。己の国を富ませるためには、固陋に捕らわれずに柔軟に考える。
 そのやり方を、別の形で二本松でも取り入れられないか。そう考えたからこそ、黄山を始めとする商人も探索に向かわせ、商人らの考え方も取り入れようとした。儂のところに多くの商人が訪うていたのは、そのためよ。二本松を富ませるために、できるだけ多くの才を求めようと思い、自ら探して歩いたこともあった。
 また、隣には会津がおった。会津には多くの優秀な者たちがいたのは、お主も知っておろう。会津の忠義の精神は、我らが手本とする道でもあった。西方の合理性と、会津の忠義心。それを組み合わせれば、二本松のような小藩でも荒波を乗り越えていけるのではないか。そう思っていた。 
 だが、それを周りの者には相談できなかった。丹羽の系譜に連なる者が、西国のやり方を真似るなど、他の者たちが認めるはずがない。そもそも、藩の気風が質素倹約だからの。商人らに礼を尽くそうとすれば賂に走ったと言われる。西国のように二本松を富ませる為には、まずは理に叶うことこそが大切だ。そのように考える者を多数召し抱え、強い軍事力を備えたのが、薩摩を始めとする西国の藩だったというのに。

 剛介は、息を呑んだ。
 確かにあの頃、二本松は質素倹約が美徳とされていた。たとえば、公の食膳であっても、いわしが付けばごちそうの部類であるという具合である。西国の者に軽んじられたのは、そのような経済力の差もあっただろう。丹波は、それを知っていた。

 西国の真似をしたくとも、思うようにはいかなかった。二本松は、会津のように親藩であるわけでもない。小さな外様が生き残るには、どうすればよいか。それを常に考えておった。幕府や周りの大藩の信を得るために、富津の砲台番も長く引き受け、水戸の天狗党の征伐にも兵を出した。
 だが、その心を分かち合える者があまりにも少なすぎた。信を見せようとすればするほど金がかかり、藩の財政は窮乏していく。藩の穴を繕おうとすれば、鼻持ちならない専横だと藩の者から批判される。
 そなたも知っているように、儂の祖父の貴明様は藩校を整備し、多くの人材と交わり、文化を育てて権勢を誇った。その知恵が儂にも受け継がれているはずと教育され、そのようにしてきたつもりだったのだがな。
 さらに、大恩のある会津の好意に甘えて藩の御子を委ねるなど、到底許されることではなかった。儂のしたことは、丹羽一族に泥を塗りたくるも同然だった。

「そうだったのですか……」
 剛介は、深々と息を吐いた。やはり、丹波も二本松の行く末を案じ、粉骨砕身する日々を送ってきた武士の一人だったということか。
 名門の貴顕として育ったからこそ、丹波でなければ見えてこない視点があった。だが、多くの者が丹波の苦悩を理解してこなかった。

 「二十八日。儂は会津の辰野殿を追って土湯の国境まで行っていた。三春が裏切り、どういうわけか二本松は講和するという話が、会津に伝えられていた。兵が足りぬのは分かっていたから、会津の助けを求めるために辰野殿に頭を下げて、二十九日に共に二本松に入る約束をした。だが……」
 丹波は、そこで言葉を切った。
 剛介が初めて知った、落城の日の事実であった。丹波は決して逃げようとしていたのではない。ただ、あまりにも他の家臣に対して、説明できない事情を一人で抱えすぎた。
 そのことが、丹波を追い詰めて頑なにしていたのではないか。そして、戦後は人が変わったようにひたすら慰撫や鎮魂につとめた。だが、今までの経緯が経緯だ。人情に篤い反面、裏切り者は決して許さない二本松で、到底理解を得られるとは思えない。
 相手が死んでしまって、直接詫びることすら出来ない相手も多くいる。
「結局、儂のつまらぬ見栄が二本松を滅ぼしたも同然だ。二本松の多くの者を、賊に貶めてしまった」
 丹波は、吐き捨てるように言った。
「お止めくださいませ」
 剛介は、鋭く言った。瞬間、丹波が、剛介の口調にびくりと体を震わせた。
「二本松の者自らが賊を名乗るようになっては、死んだ者たちが浮かばれません」
 銃太郎先生を始め、多くの者は二本松を守ろうとして死んだ。決して、錦旗に歯向かうなどと考えなかったに違いない。ただ、公とその民を守りたかっただけだ。
 さらに、剛介は言葉を重ねた。

>「台連寺(3)」に続く

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