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二本松藩の教育事情

二本松藩の子弟らの多くが高い教育を施されたのは、明治時代に入ってから活躍した人々を見ても明らかです。


朝河博士

私が「城報館」を訪れたときは、特別展として「朝河貫一博士及びその父の朝河正澄氏」についての特別展を開催していました。

朝河貫一博士は、アメリカのダートマス大学などを活動の場として活躍した歴史学者です。太平洋戦争前に、各所へ日米開戦に反対する書簡を送ったことで知られていますが、彼もまた、二本松藩士の末裔です。
父である正澄氏も教育者として福島市の立子山小学校の校長などを務めたことで、今でも地元では尊敬されているとのこと。

朝河正澄氏は、二本松藩士の1人である宗形治太夫(後に戊辰戦争の城下戦で戦死)の次男として誕生。明治2年9月に、藩の砲術指南役であった朝河家の未亡人、ウタの後添えとして朝河家に婿入りします。
この朝河家の舅が、「朝河八太夫」。「直違の紋~」を読んで頂いた方には、「小沢幾弥の先生」として、その名前に見覚えがあるのではないでしょうか。

そんな正澄らの武士道を育んだ教育機関の一つが、「敬学館」でした。

藩校敬学館

二本松では、二代目藩主長次公が儒学者などを招き、多くの私塾を開かせたと言います。
庶民が寺子屋で「読み・書き・そろばん」を中心に習うのに対して、武士は「治世者・武術者」としての教育を受けます。
藩校が設立されたのは文化14年(1817年)、9代藩主長富公のときでした。設立時期が案外遅い気もしますが、恐らく長次公の遺産である「私塾」が藩の子弟らに対して十分な効果を挙げていたのでしょう。

敬学館の教職員数及び生徒数は、以下の通りです。

学校のカリキュラムは、大きく「儒教を中心とした座学」と「武術」に分けられます。
なお、校名の由来は、程朱学派の下記の精神修行の理念に由来するとのこと。

人は生来静なるものであれども、外の物により引かれると、たちまち天理を失い人欲に落ち込んで失敗する。
これを防ぐにはによらなければならない。

この言葉は、現代の私達にも通じるものがあるのではないでしょうか。

座学で使っていた教科書及び試験

敬学館で指定されていた教科書は、かなり多岐に渡ります。
二本松市史などの解説によると、ざっくりと次のように分類されるでしょうか。

ただし、これで終わりではありません。私が二本松図書館で書き写してきたものには、

• 元治武鑑(恐らく元治年間発行の紳士録)
• 地学正宗
• 弘道館記述義
• 古今和歌集
• 蒙求
• 杜律集解
• 唐宋八家文読本
• 康熙字典
• 大日本史
• 西洋史記
• 戦国策
• 群書類従

など、地理・兵学から古典・漢文まで、かなり広範の知識を教えていた様子が伺えます。
そりゃあ、皆咄嗟に「名文」が書けて、公文書ですらすらと「漢文調」の文書が書けるというのも納得です^^;

実学にも力を入れた二本松藩

「城報館」では、実際に使用していた敬学館の教科書が展示されているのですが、常設展で展示されていたこちらの教科書は、明らかに「幾何」の教科書ですね。

ぱっと見ですが、恐らく現代のレベルであれば、高校数学における数学Aの「平面図形」の「円の内接」の問題のような気がします。

二本松藩は「和算」の研究が活発だったことでも有名で、後で紹介する(つもり)の龍泉寺には、県内最古の「算額」が納められているそうです。
拙作の関係では、「直違の紋~」で登場する「木村銃太郎」の曽祖父(渡辺東岳)が、「和算」の一流の研究者でした。

敬学館の教科書リストにも

• 暦象考成
• 大成算法
• 古今算法起源
• 拾算法真術
• 換角法
• 最上流綴術
• 算法交商集
• 算法側円集
• 算法平立歩詰
• 算法歩合法

などなど、明らかに「測量系」の業務で役立つであろう書物がありますから(他に、商売についての解説らしき教科書もありました)、実学教育にも力を注いでいた様子が伺えます。

家塾の仕上げの場としての敬学館

先に書いたように、普段の学習はそれぞれが「家塾」に通う形でした。
敬学館に通うのは、15歳~30歳までの士分以上の子弟らです。
敬学館の敷地内には武芸所・手習所(11歳~14歳)・射的場などが置かれ、各儒家の生徒が日割りで出席し、時には決められた日に全員で出席することもありました。

座学(主に儒学)に関してのスケジュールは、以下のようなものです。

二の日の講釈 月3回
対象者:20歳~30歳までの戸主並びに家督相続人が出席。
各自帳簿に記名して、儒者の講釈を聴聞。大目付1人、世話役2人が監督。時には番頭が臨席する。
無断欠席は三日間謹慎のペナルティあり。

七の日講釈 月3回
番入り(兵役に就く)前の総領無足15歳~番入(19歳)まで出席。儒者の講釈を聴聞。

四九の会 月6回
正午より開会。
家塾の塾生で四書五経を読了した者は、世話役の指図によって素読、または講義を行う。
(→大学におけるゼミでの発表のようなイメージでしょうか)
講議が終わると、それぞれ意見を述べ討論し、最後に儒者が決定する。時に君公が出席することもある。

復読 月3回
各儒者が各々その日を定め、自分の塾生を率いて経書その他を講読させる。世話役1人が臨席。

御詰会 月3回
500石以上の家相続人が出席。

春秋試験 毎回2日かけて行う
• 四九の会出席者は皆受験
• 朝五ツ時(現在の朝7時位)に始まり、点灯時まで行う。
• 筆・紙は給与、硯墨は貸与
1日目は難文の解釈、2日目は詩文の試験。優秀者には、賞与があった。

武術

武術は大きく分けて

• 馬術
• 剣術(槍術・柔術含む)
• 弓術
• 砲術

がありました。
いずれも、普段は大抵朝夕2回、師範の道場において修練します。特に剣術・弓術は力を注いだ様子が、二本松市史の記録などから伺えます。これも、「剣術や弓術を重視した」山鹿流兵法の影響でしょうか……。

敬学館における武術のスケジュールは、以下のような感じです。

馬術
藩で飼育している馬を貸馬として、藩士一同に日を決めて貸与。郭内の馬場で練習をする。

剣術
各師範ごとに月3回、生徒を引率して武芸所で練習。各流派により割当日が違う。
→流派ごとに秘技があるため、ずらしていました。

少し細かいですが、二本松藩で確認できる剣術・槍術は

• 林流剣術
• 陰流居合
• 一刀流剣術
• 小野派一刀流剣術
• 伊東流槍術
• 宝蔵院流槍術
• 揚心流(柔術・鎖鎌・長刀)

があります。

剣術は皆必須だったようで、座学と同じように春秋二回の試験があり、成績優秀者には賞与が出ました。

弓術
各師範ごとに、月3回の決まった日に生徒を引率して射的場で練習。朝8時~夕方4時まで行う。
試験の検分は番頭が組子の射的を検分し、矢の数は4本のみ。

砲術
師範宅の裏山などに角場を設置して練習する。試験は郭内の角場で行われ、小銃4発、大砲2発までとされていた。
試験においては、士分は番頭、兵卒(足軽)は物頭が検分。

また、郊外の竹ノ内には「兵学調練所」があったとされていますが、どのように利用されていたかは不明です。

高い教育水準だった二本松藩

このように、二本松藩は教育にも非常に熱心でした。
個人的に興味深いのが、基本的には「佐幕」の藩でありながら、教育方針は、必ずしも幕府の意向通りではないところでしょうか。
一例を挙げると、山鹿流兵法は、幕府からは「異端」扱いされた学派でした。その証拠に、開祖である「山鹿素行」は、会津藩祖である保科正之から訴追されていますしね。

また、「算術」は「砲術」とも強く結びついています。
Xでも呟いたことがあるのですが、砲術、特に大砲の砲弾発射の精度が上がったのは、1800年前後にヨーロッパで活躍した、ナポレオンの各地への遠征の成果だと言われています。
このときに発達した学問が「弾道学」で、今で言えばそのための「二次関数」の研究などが進んだおかげで、ナポレオンは強かったとのこと。
それから60年余りの間に、その研究成果が日本にも伝わり、幕府主導で「高島流」など近代砲術の研究が進みました。二本松藩からは、「三浦義制(「鬼と天狗」では「十右衛門」の名で登場)」がこの高島流師範免許を取得しており、その才能は元治の天狗党征伐などでも発揮されました。

それだけではなく、明治に入ってから、彼は大坂にあった「教導団」の教官として招聘されています。
教導団は明治初期における陸軍の幼年学校の前身で、やはりその才能を新政府から見込まれていたのではないでしょうか。


従来は、「旧弊に囚われて、新政府軍には歯が立たなかった」とディスられてきた?二本松藩ですが、私は決してそうは思いません。
儒学などの精神面はもちろんですが、近代学問にも力を入れていたのは、敬学館の教科書リストからも明らかです。

やはり、戊辰戦争において二本松藩が敗北した要因として考えられるのは、やはり圧倒的な「経済力の差」。ですが、それも「民の撫育」を藩の理念とする二本松であれば、民から容赦なく血税を搾り取る……という真似は、容易にはできなかった。

そう考えると、様々なジレンマを抱えつつ薩長主導の理不尽さに立ち向かわなければならなかった、二本松藩の姿が浮かび上がってくるのではないでしょうか。

<参考資料>
二本松市城報館パネル
二本松市史9
二本松藩史
二本松藩校「敬学館」教科書リスト(二本松図書館所蔵)

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