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【鬼と天狗】第三章 常州騒乱~筑波挙兵(8)

「一橋中納言公は、兄上たる黄門公よりもう少し物の見える方かと思うておったがな……。眼鏡違いであったか」
 普段は丹波に反発を覚える鳴海も、こればかりは丹波の意見には同感だった。さらにおまけのように、近々幕閣で人事異動が発表されるが、その中には淀藩の稲葉長門守公が京都所司代から老中になり、京都所司代の後任には、会津肥後守の実弟である桑名藩主松平定敬さだあき公の名が挙がっていると、丹波は付け加えた。
「帝の横浜鎖港の御心を下野に進軍中だという水府浪士共が耳にすれば、勢いづくのは必定でしょうな」
 一学も苦々し気に吐き捨てた。
「――それは如何でござろう、一学殿」
 ぽつりと、源太左衛門が呟いた。
「どういうことでござるか、源太左衛門殿」
 丹波が膝を叩く手を止めた。
「一橋中納言公の進退を耳にした水府浪士らが勢いづくのは間違いございますまい。ですが、水戸藩執政である武田伊賀守殿や、はたまたそれに準ずるという門閥派の市川殿らが、黙って水府浪士らの動きを見過ごしますかな」
 はっと、鳴海も気付いた。源太左衛門の言う通りである。なぜその可能性を失念していたのだろう。
「それに、年末に欧州に派遣したという幕閣らが、未だ海の向こうで鎖港の是非を交渉しておるわけでござろう。その結果を待たずして鎖港に踏み切れば、それこそ外つ国が我が国を蹂躙する格好の口実となる。幕閣も全ての人員がその可能性を失念しているとは、到底思えぬ」
 黄山も、その可能性は指摘していたではないか。つまり将軍の決意は固まったが、わずかながらまだ横浜鎖港が引っくり返される可能性はあるのだった。さらに、既に幕府からは「鎮撫」の命令が水戸藩に伝えられている。水府浪士の思惑と幕閣の間に大きな隔たりがあるのは、確実だった。
 それで鳴海も、ふと思い出したことがあった。
「今程までの話に比べれば些末ではございますが……。白河藩主が交代したそうでございます」
 鳴海の言葉に、丹波も愁眉を開いた。
「阿部正外殿だな。確か亡き井伊掃部助様の元で働いたことのある御仁であったはず」
 性格には難のある丹波ではあるが、藩外の人脈についての知見はさすがであった。
「白河藩も、代々老中職を申し付けられる名門でございますからな。或いは……」
 四郎兵衛も、深々と肯いた。現在渡欧中の遣欧使節団の持ち帰ってくる交渉の結果、そして幕閣の人事次第で開明派が老中などの要職に就くことがあれば、まだ鎖港の方策が消える可能性が残されているというわけである。
「左様だな」
 すっかり落ち着いた丹波が、大きく息をついた。
「守山も、特に目立つ動きは見られぬのであろう?」
「はっ」
 鳴海は、丹波に軽く頭を下げた。
「であれば、下野に進軍中という水府浪士らの動き、及び御式台の動きを探るのが第一であるな。御式台については……。拙者が再度江戸に参るか」
 どうやら丹波は先日京から戻ってきたばかりにも関わらず、再び江戸に蜻蛉返りするつもりらしかった。二本松は比較的江戸に近い藩とは言え、これだけ江戸と国元を頻々に往来せねばならぬとは、家老職も楽ではない。
「大谷鳴海」
 呼び捨てにされてあまりいい気分ではないが、鳴海は黙って丹波に頭を下げた。
「水府浪士の件は、引き続き源太左衛門殿の下知に従って動きを探り、その結果を江戸にも報告せよ。場合によっては、儂が幕閣の方々にも話を通す」
「畏まりまして候」
 つまり、鳴海は引き続き水府浪士らについて警戒せよとの意味だった。さらに、鳴海が水府浪士らが日光に向かう可能性を指摘すると、丹波はふむ、と眉根を寄せた。
「日向守様の御身のご安全か……」
 他藩の藩主とは言え、日向守公は藩公の弟君である。勝知公が結城水野家の家督を継いで以来、肝心の結城藩に一度も顔を出していないのは、丹波も当然知っているに違いなかった。
「もう日光に入られているだろうから、儂が宇都宮宿を通る際に日光に脚を延ばし、お目通りを願い出てみる。日光のお勤めの帰りにでも領地にお立ち寄り頂き領主としての姿を見せねば、水戸の天狗共や結城藩内に巣食うという天狗党の同志らに御身を狙われ兼ねぬとな」
 そう述べると、丹波は口元にちらりと笑みらしきものを浮かべた。上司としては決して好ましい人物とは言い難いが、この藩や藩公への忠義心は、確かに丹波の本心であろう。今回は鳴海も、素直に丹波の方針に従う心積りだった。

関東内訌(1)に続く

文/©k.maru027.2023.2024
イラスト/©紫乃森統子.2023.2024(敬称略)

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