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人智を超えた奇跡3

「3」と書くからには、「1」も「2」もありました。

実は、現在連載中の「鬼と天狗」に関しても、3度目の奇跡……なのでしょうか。
真相はまだ判然としていませんが、新たな発見がありました。

それは、主人公の鳴海が尊攘派と対峙するきっかけを作った、「藤田芳之助」の設定です。
一部ネタバレになりますが、割と最初の方の投稿より。

報告を受けた丹波も、顔に血色を上らせている。芳之助の祖父である藤田三郎兵衛は、丹波の祖父である貴明がとりわけ目を掛けていた者だった。元は相馬中村藩の出であり、貴明の取りなしによって、従来より二本松藩にあった藤田八郎兵衛家の分家として、藤田三郎兵衛家が認められた経緯がある。芳之助の脱藩は、二本松藩に対して恩を仇で返したのも同然であった。しかも、駆け込んだ先が火種含みの水戸藩とつながりが深い、守山藩ときている。
 かねてより、鳴海は芳之助の「剣術修行のために水戸表へ遊学したいので、丹波にとりなしてほしい」との嘆願を却下し続けてきた。芳之助が歳を取りすぎているというのが表向きの理由だったが、日頃の言動から、芳之助は祖父である藤田三郎兵衛の行動をなぞらえようとしているのではないかと、警戒していた矢先でもあった。

出典:【鬼と天狗】第一章 義士~脱藩者(2)

この設定ですが、藤田三郎兵衛については、史実としてあちこちに出てきます。
ただし、「藤田芳之助」当人については、二本松藩史からはほぼ抹殺されています。
にも関わらず、なぜその存在を取り上げたかというと、天狗党関係の資料を調べていると、他藩の記録(棚倉町史、水戸天狗党異聞など)、それも複数で確認できるので、いたのは間違いなかろうというわけです。
ただ、小説に登場させる以上は芳之助の背景バックボーンを設定せねばならず、そこで鍵となったのが「藤田三郎兵衛」の存在でした。

剣豪藤田三郎兵衛

こちらは、元の名が糸川一次です。生まれが相馬中村藩ということで、「井戸川一次」と表記されることも。
糸川も井戸川も、相双地方で時折耳にする名字ですから(元双葉町長の井戸川克隆氏が有名ですね)、糸川一次が中村藩士であったのは、間違いなかろうと思います。

この糸川一次は、中村藩を脱藩して、水戸藩に仕えた経歴があります。剣豪としてかなりの腕前を持っていたらしく、その名前は北関東一円にまで響き渡っていたとのこと。
その後、紆余曲折あって二本松藩の「丹羽貴明たかあき」にその才能を見出され、二本松藩に召し抱えられました。一説によると、同じく剣豪として二本松藩に召し抱えられた「根来ねごろ父子」への牽制役も兼ねて、雇われたとか何とか^^;
(→真偽は不明です)

ま、そんなこんなで糸川は二本松藩に仕え、そこで「藤田」の姓に改めました。
ここで私も少し気になって調べたのですが、二本松藩には元々「藤田八郎兵衛家」という家があります。
三郎兵衛家の方は、なぜか糸川一次(初代藤田三郎兵衛)の死亡後に永暇(要するにクビです)を出されていますが、八郎兵衛家の方はその後も続いていますので、糸川と八郎兵衛家が血縁関係を結んでいた可能性も、なきにしもあらず……。
たとえば、八郎兵衛家の娘を娶って養子入り、その後分家した……などのケースを想定してみたわけですよ。

で、その末裔(世代的に孫世代です)が「芳之助」……という設定を作り上げました。
上記の文章は、そのような設定から生まれたものです。

Xつながりの奇跡

ここで、少しXの話に飛びます。
noteだけでなく、Xでは割とさまざまなジャンルの人と交流があるのですが、その中には「ご当地作家」の方もいらっしゃいます。(Aさんとします)
Aさんは上州を舞台とした作品を書かれている方なのですが、「天狗党」にも興味を示されており、ある日のポストで、「高崎藩領内における天狗党の足跡を詳しく知りたい」という旨の投稿をされていたわけです。

天狗党の行動のフェーズは何段階かあるのですが、よく小説などで取り上げられるのは、武田耕雲斎らがリーダーとなって、いわゆる「西上」を決意した辺りからでしょうか。
高崎藩と天狗党の大規模な戦闘となった「下仁田戦争」は、その「西上」途中で起こった事件なのですが、私が扱っている「二本松藩VS天狗党」のフェーズが完了した後の出来事なので、下仁田戦争の資料は、私もノータッチだったのです。
ですが、Aさんの投稿に触発されて私も下仁田戦争の資料を少し漁ってみたところ、出会ったのが、次の作品です。

一応、国立国会図書館デジタルコレクションの中にも入っています。
(私はこちらで見つけました)

そこで驚いたのが、まさかの「藤田芳之助」についての記述でした。
天狗党の中でも異端児である「田中愿蔵(俗に言う「ザンギリ隊」です)」の一員だったのは突き止めていたのですが、その詳細については分からなかったのですよ。
ですがこの資料の中で、芳之助が「旧水戸藩士●●●●●」として扱われていたという記述がありました。

画像出典:水戸天狗党と下仁田戦争150話

この「旧水戸藩士」というところがミソで、芳之助自身が「旧水戸藩士」扱いされていた……というのは、何か理由がありそうです。
ここで考えてみてほしいのです。

私が拙作で芳之助の祖父に設定した「藤田三郎兵衛」の条件に、酷似していると思いませんか?

さすがにこの時代には藤田三郎兵衛は亡くなっていますが(文政年間に活躍した人なので)、私の拵えた設定は案外当たらずとも遠からず……ではないかと思うのです。


恐らくこの件については、芳之助は「罪人」扱いとなったことから、完全な史実解明は難しいだろうとは思います。
ですが、芳之助がかなりの剣豪として広く知られていたらしいというのも、同書で初めて知りました。
或る人は「芳之助は天狗党内部では下っ端扱いだった」と述べていましたが、この資料を読む限りでは決してそんなことはなく、棚倉に向かおうとしていた時点では、30人もの仲間を引き連れていたとのこと。
水戸藩士ではなく他藩の人間である芳之助が、それだけの人間を指図していたというのは、やはり田中隊の中で中核的な役割を担わされていたと考えざるを得ません。

とは言え、私がXでAさんのポストに気付かなかったら、この資料に出会うこともなかったでしょうし、私が芳之助についてこれほど掘り下げて考察し直すこともなかったでしょう。
元々、最後に鳴海と対峙させるつもりではありましたけれど。

何だか作者の意図を超えて、当時の芳之助の無念の思いが、今回のさまざまなつながりを呼び寄せたような気がしてならないのです。

©k.maru027.2024

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