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人智を超えた奇跡2

大分前にこのような記事を書いたことがあります。

そうです。
「小説を書き上げてから後日新たな資料が出てきて、小説の設定が事実だったことが判明した」という、正に奇跡的な出来事でした。
一応弁明しておくと、「大衆受けするような要素を盛り込もう」とか、そのような下心は全くナシで書いているのですよ^^;

このときは、「剛介様の妻は義理の妹だった」というものでしたが、今回2度めの奇跡が。

こちらで、市之進と妻の妙が幼馴染だったという設定にしていましたが、新たに出てきた市之進様の孫による手記から、「本当に幼馴染」だった可能性が浮上しています。

市之進様の自宅が「池ノ入」にあったというのは、ご子孫の方のお話から判明していたのですが(別の資料でも裏付けを取っています)、今回、妙の実家が判明しました。
その結果、両家はごくごく近所であることは疑う余地がありません。

この地図で、「池ノ入」の番所がある辺りに笠間家があったと思われます。妙の実家は「浦井」家。

墓碑からも2歳違いの夫婦ということがわかっていますので、恐らく本当に「幼馴染」。
剛介様のときとケースは異なりますが、妙もまた、幼いときから市之進に親しみ、市之進にとってもかけがえのない戦友だったのでしょう。

妻らの逃避行の詳細というと、長国公の妻である「久子様」の手記、「道の記」が有名です。
二本松市史や二本松藩史に転載されていますが、この逃避行もなかなか悲惨でした。
私は、市史などで「道の記」を拝読しましたが、単独でも出ているようです。

長国公の御身だけは米沢藩で受け入れられましたが、避難民らはなかなか受け入れてもらえなかったようで、仮に一旦米沢に着いたとしても、若松へ行ったり、その近郊を転々としたりと非常に苦労しました。
また、城下戦に先立って出発した女性&老人・子供らも、28日の夜(城下戦前日)は二本松近くの水原にいたものの、西軍の空砲などに悩まされ、かなり怖い思いをしたようです。

幼子を抱えた妙が、福島でどのような思いで過ごしたのか。
それを思うと、女性たちならではの「戊辰の戦い」もあったのだと感じずにはいられません。


また、この「妙」様の実家である「浦井」家ですが、二本松藩の中ではかなり新しい家柄です。

「奥州二本松年表」によると、元々は本宮に住んでいた浦井兄弟ですが、兄の右伝治貞幹が藩士に列せられたと当時に、弟が9代目「右伝治」となって「住吉屋」と称して味噌醤油醸造業を営んだそうです。
天保飢饉救済のために煙草栽培を奨励、江戸商人と特約して農民の救済と藩の財政に貢献したことから、右伝治(弟)も郷士に昇格、家禄105石を与えられたとあります。

このような経緯があり、二本松に移った兄(貞幹)の娘の一人が妙だったのではないか?というのが、私の推測。
家が近所であり、かつ自身の家も比較的新参者だった笠間家は、比較的境遇が似ていることから浦井家を気にかけており、日頃から交流が深かったのかもしれません。
年も近いことから、当代市之進(褒)と妙が幼い頃より共に過ごし、その後夫婦となったならば、素敵だよなあ……なんて妄想を膨らませてみました(笑)。

#エッセイ
#二本松藩
#幼馴染




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