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【鬼と天狗】第三章 常州騒乱~筑波挙兵(2)

「十右衛門」
 鳴海の言葉に、十右衛門が驚いたように顔を上げた。それに構わず、鳴海は膳を脇に除けて十右衛門の真正面に座った。
「此度は、誠に世話になった」
 謝辞を述べて十右衛門の杯に酒を注いでやったが、十右衛門の緊張の色は未だ解けない。
「鳴海殿……。番頭となったのに、このような振る舞いをするなど、後々口うるさい御仁から何か言われぬか?」
 鳴海は、片頬を上げた。
「この席は無礼講であろう?それに今更、だ」
 そう言ってやると、十右衛門もにやりと笑った。
「それもそうだな」
 昔から気心の知れた間柄である。十右衛門が今頃になって鳴海の身分を気にするというのは、鳴海にとっては滑稽でしかなかった。
「京で身分について丹波様にでも口うるさく言われたか」
 鳴海がそれとなく水を向けると、十右衛門は渋面を作った。
「全く、人をこき使いおって。本圀寺に行ってこいと申したのは、丹波様だぞ。水府浪士共に斬られるかと思った」
 鳴海は眉を上げた。十右衛門は随分と危ない橋を渡ったものだと手紙を受け取ったときも感じたが、あれは丹波の指示だったのか。鳴海としては水戸の動きを掴むにはもってこいの情報だったのだが、丹波の命で本圀寺に赴く羽目になった十右衛門としては、忸怩たる思いがあるのだろう。
 真面目な表情を作った鳴海に釣られるように、十右衛門も盃を置いて真剣な面持ちになった。
「本圀寺に行ったのは一度だけだったが、まるで通夜のような様子だった。あの様子は逆に気になる」
 鳴海もその言葉に肯く。
「お主の勘は当たっておろう。事実、源太左衛門様が水戸や上州に探索を出して、京の水戸藩の動きと相反するように水戸藩の激派が関東各所で動き回っているとの報告を受けている」
 さらに、那津の嫁入り道具を求めに岩槻に赴いた宗形善蔵や、京から水戸城下を回って帰藩してきた黄山からも同じような報告が上がっている旨を告げると、十右衛門の口元は険しさを帯びた。
「京で黄山殿と会うた際にも話したのだが……。猿田愿蔵という男、あれは水戸藩でも扱いかねている御仁というのが、本圀寺の小坊主が漏らした情報だ。何でも、頻々と本圀寺におわされた武田伊賀守殿や原市之進殿に近づこうとして、上の方々には煙たがられていたらしい。我が甥の義彰など、猿田愿蔵と比べれば可愛いものだろうよ」
「――黄山殿も、同じようなことを申されておった」
 鳴海の口調も、苦々しさを帯びてくる。十右衛門も眉間に皺を寄せた。
「猿田愿蔵は江戸の昌平黌にも遊学を許された身。一廉の秀才であるのは、確かなようだがな……。我等と入れ替わるように、猿田は十一月初旬に京から姿を消したとのことだ」
 先の黄山の言葉を思い出し、喉の奥に酸っぱいものが込み上げてくる。
「黄山殿の目は確かであるからな。後で黄山殿に詳細を伺ってみる」
 鳴海は他の藩士らもいる手前、芳之助について処分の明言は避けた。だが、鳴海のそんな空気にお構いなしに、十右衛門は言葉を続けている。
 鳴海が思っている以上に、京の情勢は猫の目のように刻々と変化しているらしい。二本松藩一行到着の直前には、会津藩お抱えの浪士組でも内紛があったとのことだった。鳴海も、かつて三浦屋敷に遊びに行った折に清介から「新徴組」の噂は聞いていた。十右衛門が今回持ち帰ってきたのは、京に残された浪士組のその後の話である。京に残った浪士らは「壬生浪士組」と揶揄されていたが、これも昨年の秋に会津藩預かりとなった。だが、九月に局長である芹沢鴨が暗殺されたという。
「――この芹沢だが、水戸藩の天狗の者だったそうだ」
 その言葉に、鳴海は酒を注ぐ手を止めた。十右衛門の手紙で「壬生浪士組」の存在は知っていたが、その内部にも水戸の手が及んでいたとは思わなかったのである。だが、壬生浪士組の当初の目的が「攘夷の先鋒」であるとするならば、壬生浪士組に水戸藩の者が入り込んでいたとしても、何ら不思議ではなかった。
「先のお主の知らせでは、壬生浪士組は会津藩お抱えになったのでは?」
 鳴海の疑問に、十右衛門はあっさりと肯いた。
「それは間違いない。吉田神社で会津の鈴木丹下殿と行き逢うた際にも、浅葱あさぎのだんだら模様の羽織を見かけたぞ。あの界隈は、会津藩本陣に近い。大方、会津中将様か見廻組に何か報告にでも参ったのであろう。噂によると水戸藩の芹沢の一味は、江戸の近藤道場の一派に粛清されたとのことだ」
 一体、何を信じればいいのか。鳴海にも十右衛門の気鬱が伝染し始めた。
「ま、浪士組は近藤一派が勢力を掌握してからは、一応情勢が落ち着いているらしい。確かに、長州らしき訛も滅多に聞かなかったしな。どうも我々が手を下す前に、奴らが不逞浪士を斬ってくれるとのもっぱらの噂だった」
 十右衛門が口元を歪めた。武士の嫌らしさとでも言うのだろうか。会津藩は自藩に災いが降りかかるのを恐れて、汚れ仕事は出自の知れない浪士らの集合体である浪士組に任せ、彼らの「武士」としての自尊心を満足させているのだった。いざとなれば、彼らと無関係と言い切れば良い。
「――守山の平八郎殿の方が、余程武士としての筋を通されておる」
 鳴海の独白に、今度は十右衛門が手酌の手を止めた。
「まさか、また守山が手出しをしてきたのか?」
 いきり立つ十右衛門に、鳴海は首を振ってみせた。
「いや、今回ばかりは違う。嶽に逗留中の一行の暴挙を押さえる要石たらんとしているわけだ、平八郎殿は」
 鳴海の台詞が意外だったのだろう。十右衛門の目に困惑の色が浮かんだ。
「十右衛門殿。落ち着かれよ」
 横から徳利が伸びてきて、十右衛門と鳴海の盃にそれぞれ注がれた。徳利の手の主は、新十郎だった。それに気付いた鳴海は新十郎に軽く頭を下げた。口下手な鳴海に代わって弁舌に長けた新十郎の言葉の方が余程、十右衛門には響くだろう。
「拙者も最初は鳴海殿の真意を疑ったがな……。確かに嶽には守山藩の者らが逗留しておるが、鳴海殿が守山の平八郎殿と話をつけて参られた。守山藩士らが軽挙妄動を見せれば、それこそ宗藩の危機を招きかねず、平八郎殿はそれを憂慮されているとの由。事実、会津でも水戸を疑っているのだったな?」
 新十郎の言葉に、十右衛門が渋々といった体で肯く。
「宗家が改易や減封といった厳しい処分になれば、間もなく水戸本藩の二十二麿君を迎え入れようとする守山藩も、無傷では済むまい。上役の者として、三浦平八郎殿はそのような軽挙を押さえる側に回るだろうと鳴海殿は御判断致し、我等もそのご叡慮を尊重した次第でござる」
「左様でござったか……」
 ようやく、十右衛門は安堵の色を浮かべた。それを見て、鳴海も口元を緩めた。やはり、弁舌に長けた者の説得力は違う。
「十右衛門殿のお働きは、きっと御家老方も評価されよう。のう、鳴海殿」
 新十郎の言葉に、鳴海も肯いた。
「お主の京からの知らせを以て、源太左衛門様は探索を出されておられたほどだからな。そのうち何らかの褒美を賜るかもしれぬぞ」
 それを聞いた十右衛門は、不満そうに口を尖らせた。
「どうせなら、京に赴く前に頂ければ助かったのだがな。兄者のために京で三十匁鉄砲を買ってきたはいいが、その御蔭で懐が寒くて仕方がない」
 十右衛門の言葉に、鳴海は思わず吹き出した。ここで言う兄者とは、十右衛門の実兄の小川平助のことに違いなかった。軍師である平助への京土産が武器とは、いかにも砲術家の端くれである十右衛門らしい。
 だが――。
 剣呑極まりない京から帰ってきた十右衛門に、万が一要石が用を為さなくなったときの恐ろしさについては、鳴海は告げられなかった。

筑波挙兵(3)に続く

文/©k.maru027.2023.2024
イラスト/©紫乃森統子.2023.2024(敬称略)

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