直違の紋に誓って~Spin Off ~掌中の珠玉(1)
結婚から、そろそろ一年になろうとしている。伊都は、すっかり妻としての貫禄を身に着けたかに思われた。
だが、肝心の夫の剛介は、まだ学生の身だ。それを気にしているのか、あまり伊都と臥所を共にすることはない。
いつぞや登美子が「剛介さんは女には初心だ」と評していたが、結婚してからもそれは相変わらずで、伊都の密かな願いには気づいていないようだった。
その登美子はまた子供が宿ったようで、近頃は目立ち始めた腹を擦っている。夫は同じ家中の光行だったが、結婚してから随分経つにも関わらず、夫婦仲は良いようだ。
「いつ頃生まれるんですか?」
伊都は、登美子に尋ねた。
「そうねえ。夏くらいには生まれる予定だけれど。でも、こればっかりは生まれてみるまで、無事かどうかわからないから」
登美子は、曖昧に微笑んでみせた。
「楽しみですね」
伊都は、柔らかく微笑んだ。
とは言え、羨ましくもある。自分も子供を持ちたいが、まずは剛介が学校を卒業して職を得てからになるだろう。それまで、あと二年もある。
結婚の時に初夜を共にして以来、剛介が伊都を抱いたのは、数えるほどしかない。実兄の敬司は、東京にいた時分にはどうやら女を口説いていたらしかったし、死んだ竜二も、それなりに女に興味を示していた。だから、男とは女を抱きたいものだと思いこんでいたのに、どうも剛介はそういう気性ではないらしい。
「ありゃあ、聖人だな」
登美子の夫の光行は、剛介をそう断じた。その言葉には、若干揶揄も含まれているように感じる。
「そういうものなんですか?」
登美子が、夫を軽く小突く。
「だって、剛介さんはまだ十九だろう。女を見て、いても立ってもいられなくなる年頃だ。よく我慢していると思うがな」
光行の言葉に、伊都は顔を赤らめた。光行の言う事は分かるが、夫が下の話のたねにされるのは恥ずかしい。
そこへ当の剛介が学校から帰ってきた。剛介の手には、多くの書物を包んだ風呂敷包みがある。
「ただいま」
「お帰りなさいませ」
伊都は軽く頭を下げた。剛介は、何の屈託もないように思える。
(聖人、ね……)
今晩も、剛介は明日の予習で忙しいのだろう。若松中学に入学して以来、学校ではかなり優秀な成績を収めているらしい。だが、その裏では剛介がたゆまぬ努力をしているのを、伊都はよく知っていた。
自分を将来養うために学業に励んでいるのかと思うと、その邪魔をするわけにはいかないではないか。
三人は、剛介が家の中に入っていくのを見送った。
「剛介さんは、ずっとあの調子?」
登美子は、剛介の姿が家の中に消えるのを確認して、伊都にそっと尋ねた。
「そう、ずっと」
「うちの人が心配するのも分かるわ」
ぷっと登美子が吹き出した。
「子供を作る云々もそうだけれど、まずは夫婦としての情を通わせるのが先でしょう」
「そんなことは……」
伊都は反論仕掛けたが、確かに剛介と兄妹だった頃とあまり変わりがないようにも感じる。剛介が伊都を抱くのは学校の学期の節目くらいで、それも最後までは事を進めないのだった。
(残酷よねえ……)
初夜の時は最後まで事を行ったのだから、女に興味がないわけではないのだろう。だが、今は女どころではないというのが、剛介の本音なのかもしれなかった。
「丁度、剛介さんも春になってお勉強も一段落したんでしょう?二人で東山の出湯にでも出かけてきたら?」
登美子がいたずらっぽく笑いかけた。
「東山の出湯……」
伊都は、ふと考えてみた。東山の出湯は、若松郊外にある景勝地である。芸者などもいるが、家族連れも多く、二人で寛ぐにはいい場所だった。
問題は、剛介が伊都の願いを聞き入れるかどうかだった。伊都から剛介にねだりごとを言ったこともない。
たとえ一泊でも、剛介は連れて行ってくれるだろうか。
その夜、剛介の書見が一段落するのを待って、伊都は剛介に茶を運んでいった。
「剛介様、一段落されてはいかがです?」
「うん。もう少し……」
剛介の視線の先には、難しげな数字やら記号が並んだ書物が広げられていた。どうやら、新学期の予習をしているらしかった。
思わずため息が出そうになるのをこらえて、伊都は出湯の件を切り出してみた。
「ねえ、剛介様。東山の出湯に参ってみませんか?」
「東山の出湯?」
剛介が数学の書物から目を上げた。夫の興味を引くことには成功したらしい。
「気持ちいいんですよ。うちからそう遠くはないですし」
剛介は、思案顔をしている。
「剛介様は、出湯に浸かったことは?」
「子供の頃、岳にある十文字温泉に連れて行ってもらったことがあったかな」
束の間、剛介は遠い目をした。子供の頃のことを思い出したのだろうか。夫は二本松の話をしたがらないが、夫が幸せだった子供時代は、確かにあるに違いなかった。
「家の湯とは違って、いつまでも体が冷えないんだよな」
剛介が、ほんのりと笑みを口元に浮かべた。
「はい」
もうひと押し。
「お勉強も大切ですけれど、あまり根を詰めては体に障ります」
妻の気遣いに気づいたのだろう。剛介は書を閉じて、伊都の手を取った。
「東山は遠いんだっけ?」
もう、人の話を聞いていないんだからと内心苦笑しながら、伊都は丁寧に答えた。
「せいぜい一里です」
ついと剛介が伊都を抱き寄せ、その髪をなでた。これで東山行きは決まりだ。一泊でも剛介と一緒に過ごせる。夫の仕草に釣られて、そろそろとその胸に顔を埋めた。剛介の仕草は優しくて、普段は触れ合わなくても、このような一瞬に夫婦になったのだと実感する。伊都は、剛介の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
>掌中の珠玉(2)に続く
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