見出し画像

2024年春白河小峰城訪問記

5/17(金)、久しぶりに白河へ行ってまいりました。メインの目的は拙作をある方に届けることだったのですが、やはり、白河といえば小峰城こみねじょうは外せません。
約束の時間が午後になったこともあり、午前中は少し早めの電車で出かけ、先に小峰城を回ることにした次第です。


小峰城の来歴

「白河城」の名前で登場することもあるかもしれませんが、地元では「小峰城」の愛称で親しまれています。
建築様式は、平山城。
元々は、白河に土着した結城ゆうき親朝ちかとも(白河結城氏3代目)によって14世紀頃に築かれた城でしたが、白河結城氏は戦国時代に衰退。その後、江戸時代に入ってから上杉氏や蒲生氏が支配した時代もありましが白河に入封した丹羽長重公によって、城郭及び城下町の整備が行われ、現在の白河の基礎となったのです。

長重公については、以前にnoteで二本松藩の来歴をレポした際にも取り上げました。

そして今回小峰城を訪れて初めて知ったのですが、長重公は、白河における阿武隈川の「付け替え」も行ったのだそうです。

白河市の古地図を調べてみないとわかりませんが、おそらく長重公は、城の北側に阿武隈川を流れるようにして、白河の守りの要としたのではないでしょうか。
そして、小峰城と言えば「総石垣」の城であるのも、大きな特徴です。
実は私が子供の頃には、小峰城にはこの石垣しか残されていませんでした。小学校(小2)のバス遠足の行き先の一つがこの小峰城でしたが、正直、雨だったのとさすがにこの頃はレキジョではなかったので、あまり興味を持てなかった記憶があります^^;
後は、バラ園があったくらいでしょうか。(現在はありません)

ちなみに小峰城は、JR東日本白河駅のすぐ裏手にあります。
そんなわけで、徒歩で線路の下をくぐり抜け、入口にやってきました。
こちらは、白河小峰城パンフレットより。

こちらの門は藤門でしょうか。塀に載っている瓦に刻まれた紋は、結城氏の「三つ巴」の紋でした。

清水門~帯曲輪門

二の丸から、本丸方面(三重櫓)を見上げた写真です。
ここには、清水門がありました。ご覧のように現在工事を行っていますが、令和8年に、ここに「清水門」が再現される予定です。

帯曲輪門おびくるわもん
現在は石垣が残るのみですが、清水門から左手奥に曲がると、ここに櫓門があったそうです。
高さが約7m、櫓入口の間口が約13mあったといいますから、堂々たる建物だったのでしょう。

この帯曲輪門のところからは、堀が見えます。桜の時期はここに花びらが舞い落ち、「花筏はないかだ」が非常に綺麗🌸
→3年前に見かけました。

また、市民の憩いスポットでもあるようで、のんびり釣り竿を構えている方もお見かけしました。
笠の下で男性(多分)がしているのは、バス釣りでしょうかね。

ちなみに、概ね下図の辺りの光景です。

さて、曲輪から右手に折れていくと堂々とした石垣が見えます。
東日本大震災のときは、ここがかなり崩れたはずですが(結構長い間ブルーシートが掛かっていました)、現在はご覧のようにしっかり再現されています。

桜門跡の石碑。二の丸と本丸をつなぐ門の一つで、ここに桜が植えられていたことから「桜門」の愛称が衝けられたそうです。
ここも石垣の上に櫓を渡す「櫓門」で、結構大きいですね。門を潜ると、御殿の庭に通じていたとのこと。
小峰城の歴史資料館で上映されているVRシアターでは御殿様の行列が門をくぐり抜ける映像があったかと思いますが、その門がこの桜門だったのかもしれません。


こちらは、富士見櫓跡。

本丸跡地。
ここには約700畳もの広さを持つ広大な御殿が建てられていたそうです。

パンフレットより、CGによる推定復元図。
政庁も兼ねており、きっと多くの武士が出入りしていたのではないでしょうか。

多聞櫓跡。
CGの再現図を見る限りでは、ここも廊下形式?の櫓がありました。
女中部屋や物置などがあったらしいです。

多聞櫓跡のところから見えるのは、清水門と駅裏手にあたる、二の丸跡地。
こうして城の上部から見下ろすと、それなりの面積を持つ堂々とした城郭ですね。二本松の霞ヶ城があまり広く感じるので(多分、霞ヶ城は実質山城だから)、以前の小峰城訪問時はその広さが実感できなかったですけれど^^;

御前門、そして三重櫓

さて、本来の「登城」であれば、正門である「御前門」から登城だったのだろうと推測されます。ですが、今回は清水門の復元に向けて絶賛工事中ですので(笑)、ぐるりと回り込むルートになりました。

せっかくですので、復元された御前門をくぐり、一旦竹之丸方面に出てみます。

門の側の塀には、「狭間はざま」がありました。
小峰城が戦場となったのは戊辰戦争のときですが、実際にここから銃を撃ったりしたのでしょうか……。
もちろん、これは復元されたものですけれどね。

堂々とした御前門。二本松霞ヶ城の「箕輪門みのわもん」を彷彿とさせます(^^)
いずれも復元された門構えですが、現代でもこれを復元するには、相当の財力を費やさなければならないだろうなあ……という気がします。

そして、今回あちこちで放流しまくっている御前門と三重櫓。
基本的に江戸時代に入ってからは、新たな城郭や天守閣を築くのは禁止されていました。その天守閣の代替を兼ねていたのが、三重櫓だそう。
ただし、小峰城における三重櫓の役割は、倉庫的な役割や「物見櫓」としての役割だったようです。確かに、藩主が住むには狭いですし。

この木造城郭の復元ですが、実は白河小峰城が全国各地の木造城郭復元のさきがけとなったようです。
白河、なかなかやりますね(^^)
そして、この三重櫓に使われている木材ですが、白河市にある「稲荷山いなりやま」から切り出した杉材とのこと。

稲荷山は、戊辰戦争における白河戦争で、激戦地となった場所です。

かつて、私が「直違の紋~」の執筆のために作ってみた白河戦争の地図。(5/27の戦闘のもの)
丁度、西軍と棚倉藩・相馬藩のぶつかっている辺りが稲荷山です。
5/1から始まった戦闘は、7月下旬まで100日余りも続いたのでした。

さて、城の内部は何と「無料」で見学できます。
まずは、1層目をじっくりと眺めます。
小峰城の三重櫓と前御門は、松平定信公が命じて作らせた「白河城御櫓絵図」という実測図が残されており、それに基づいて復元されたのだそう。

そして、やはり「城」ですからね。
再現されたものとは言え、城によくある?「石落とし」も再現されています。

この隙間から、攻めてくる敵に対して石やら熱湯やらを落とすわけです。ただし、戊辰戦争の頃は既に砲撃戦が主流でしたから、あまり意味はなかったかもしれません。

そして小峰城の三重櫓は、先に述べたように「稲荷山」の杉材を使って建てられているのですが、何と戊辰戦争のときの弾丸が多数出土したというのです。
さすがに製材のプロセスは私も未知数ですが、つらつら思うに、数多の弾丸が杉の木にめり込み、それが150年余りの時を経て、使われた……ということなのでしょう。

案内板はありませんでしたが、これなんかは、どう見ても「弾痕」です。

こちらは、はっきり鉄砲弾の痕がわかります。
どれくらいの銃弾が飛び交ったのかはわかりませんが、100年以上も経って尚戦禍が出てくる……というのが、凄いと思うのです。

さらに、2層目、3層目にはご覧のようにかなり急な階段を登ります。
高所恐怖症のワタシは、文字通り足が竦みました💦

多分、これは2層目。上層部ほど、床面積が狭くなり、小ぢんまりとした印象を受けます。

3層目の天井には、「小峰城三重櫓一宇」と書かれた記念碑?のようなものがありました。この御城がどれくらい後世まで伝えられるかはわかりませんが、堂々たる威容です。

最後に、「二の丸茶屋」のところにあった小峰城の門及び櫓跡の見取り図。
余談ですが、白河藩の石高は約10万石。二本松藩とほぼ同格です。とすれば、現在石垣の他には箕輪門が再現されているだけの二本松霞ヶ城も、このような感じの御城だったのではないでしょうか。
二本松霞ヶ城の方が、遥かに山ですけれど^^;

実は今回、小峰城歴史資料館も少しだけ足を踏み入れてきました。
が、「展示物の入れ替え」のため、ごくわずかのエリアしか見学できなかった次第です。
そんなわけで、今回は史料館のレポはパスさせて下さい🙏

とはいえ、「小峰城VRシアター」はちらっと覗いた程度でしたが、当時の「白河藩士」らの城勤めの様子の想像が膨らむものでしたし、何より、今回懐が寂しくて(苦笑)購入しそびれた、「白河藩士分限帳」(要するに藩士の名簿みたいなもの)は、資料としても役立ちそう。
そんなわけで、また近いうちに白河を訪れるつもりです。一応、郷土史家の端くれを名乗るからには、「一石城主」としての勤めも果たさねば……とも思いますしね(笑)。

尚、過去の白河についての記事は、こちらからどうぞ!

©k.maru027.2024

#一度は行きたいあの場所
#旅のフォトアルバム
#福島県
#白河市
#城巡り
#小峰城
#福島
#日本100名城

これまで数々のサポートをいただきまして、誠にありがとうございます。 いただきましたサポートは、書籍購入及び地元での取材費に充てさせていただいております。 皆様のご厚情に感謝するとともに、さらに精進していく所存でございます。