白虎隊の横顔
本日は、「白虎隊の日」。あの、飯盛山の悲劇があった日です。
ただ、悲劇ゆえに「白虎隊は全員討死」なんていう誤解をしている人も多いのではないでしょうか。
「白虎隊士」はもっといる
白虎隊が誕生したのは、慶応4年正月、鳥羽・伏見の戦いで会津藩が薩長に破れてからです。会津藩主松平容保は、鳥羽・伏見の戦いの責任を徳川慶喜から押し付けられる形になり、それに反対の意を込めて、御用部屋の出仕を拒否。藩主の座を、養子の喜徳に譲りました。3月5日以降は、江戸に詰めていた藩士も会津に帰還。
これを受けて、国元では軍制改革を行いました。従来の長沼流から、フランス式兵制に移行。未成年者であっても正規兵の一部とし、かつ年齢制限を設けました。
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\def\arraystretch{1.5}
\begin{array}{l|l|l|}
\textbf{隊号}&\textbf{人数}&\textbf{構成}\\ \hline
白虎士中一番隊&37名 &上士の子弟で構成\\ \hline
白虎士中二番隊&37名 &同上\\ \hline
白虎寄合組一番隊&98名&中士(徒士組)の子弟で構成\\ \hline
白虎寄合組一番隊&62名&同上\\ \hline
白虎足軽隊&71名\\ \hline
\end{array}
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このうち、飯盛山の悲劇となったのは士中二番隊。本来は容保、喜徳の近衛兵のような扱いでした。
ですが、8/21に母成峠が破られ、西軍の会津盆地への侵入を許してしまいます。西軍の主力部隊である薩長土は、雪には慣れていません。そのため、冬が来る前に「枝葉の元を絶つ」べく、会津への侵攻を急いだのです。
二十二日払暁には、新政府軍は猪苗代へ殺到。会津側では十六橋を落として防御するはずでしたが破壊が間に合わず、ここも新政府軍の手に落ちます。この知らせが鶴ヶ城にもたらされたのは、午後一時頃。このとき、白虎士中一番隊及び二番隊は、三の丸に集合させられていました。
このうち、一番隊は城の警護に、二番隊は容保公に従って滝沢本陣に出陣します。
自刃した十九人
士中二番隊が、滝沢本陣に到着したのとほぼ同時に、十六橋から防御のための援軍を要請する使者が来ました。その要請を受けて、士中二番隊は戸ノ口原の戦線に投入されます。ですが、ここで奮戦するものの、退却を余儀なくされました。その後、空腹を抱えつつ一晩を過ごし(隊長の日向内記は、助けを求めに行ってしまいました)幾つかのグループに分かれて行動し、そのうち、副隊長格の篠田儀三郎が率いるグループが、飯盛山に向います。
ここで、飯盛山で自刃した方々について。
士中一番隊の「永岡清治」の記録(漢文表記の部分がそうです)と合わせて、見てみたいと思います。もっとも、清治の漢文を解読するほどの技量はないので、全ての解説はご勘弁を。
安達藤三郎(17)
欲学万人敵。平生読六韜。眼光何烔々。不復説腰刀。
井深茂太郎(16)
何物山中種。根奇生茯。十三入大学。郷党喚寧馨。
野村駒四郎(17)
意気千釣重。男児有鉄腹。試書雖不就。学剣既升堂。
13歳のときに、野村家の庭の竹林に人が忍んでいる気配を感じ、兄二人がこれを成敗しようとしたのを押し留めて、夜着のまま寸鉄も帯びずに様子を探ったところ、隣の家の下女であったことが判明。その女を連れて隣家を訪ね、代わりに詫びてやったので、城下の評判となったそうです。
林八十治(16)
短小渡書史。風懐主簿才。髭髯長剣客。毎輪一等来。
伊東悌次郎(16)
乃父直儒士。書生毎満門。喜君能幹盍。余力学詩文。
山本八重(大河ドラマ「八重の桜」の主人公)のお隣さん。八重の家は砲術師範で八重も心得があったため、悌次郎に銃の撃ち方を教えてやったそうです。
引き金を引く際に、雷管の音に驚いてつい目を瞑ってしまう悌次郎を、「臆病々々」と八重は叱咤激励し、そのため、悌次郎の砲術はみるみるうちに上達しました。さらに、まだ元服していなかったからでしょうか。悌次郎の前髪が撃つ際に邪魔になるので、八重が切ってやったところ、八重は「伊東家の子息に、断りもなく乱暴な真似をしてはなりません」と、親からこっぴどく叱られたそうですよ。
簗瀬勝三郎(17)
巳有両心識。言語猶未通。相逢相黙礼。情緒在斯仲。
池上新太郎(16)
我父与君父。囲碁又詠花。両童時侍座。酌酒且烹茶。
囲碁や花を嗜む人だったようですね。上の文を解読する限りでは、永岡清治と親類だったのでしょうか。一緒に酒を酌み交わしたり、茶を飲んだりする間柄だったらしいです。
永瀬雄治(16)
寡言還寡欲。俯仰不差天。兄弟殉家国。惜斯二少年。
紺色、もしくは黒ラシャの詰め襟服の隊士が多い中で、草色の生地の洋服を身に着けていました。これは、山野で交戦する際に、敵に見つかりにくくするため。
士中2番隊の出陣は二十二日午前十時に日向内記(士中2番隊長)の屋敷に集合、という回状を受けてのこと。このとき、永瀬家はまだ朝食を食べ終えていなかったのですが、雄二の姉は干栗、大豆、くるみ、松葉(無事帰還を願うための縁起物)を差し出してくれたそうです。ですが、雄二はその意に感謝しつつも、「今日はそのような場合ではない」と固辞して、戦場に向かったそうです。
簗瀬武治(16)
奇才能好学。毎作少年游。擕巻且擕手。時登当肉樓。
伏せた顔は、処女のように優しかった、との伝あり。もっとも気性は勇敢で、弓術と水泳が得意だったそうです。
川にはまった農夫を見かけたところ、着衣のまま飛び込んで救出したり、若松で火事があった15歳のときに、髪が焦げて何箇所か火傷を負ったにもかかわらず、消火活動に撤した、というエピソードの持ち主。
石山虎之助(16)
日新館中友。尚書塾裏才。許我金藺契。一言然諾来。
石田和助(16)
一家何博愛。三世見仁人。謙徳君綱領。温乎与玉均。
津川喜代美(16)
師友戒多言。喧々謾弄口。筒中見俊才。不是随風柳。
ある時、若松の西、8kmあまりにある中田観音へお母様と一緒に参拝したときのことです。母子は、茶店で昼食を取っていました。
そのとき、店先には大きなぶち犬がいて、喜代美が餌をやろうとしたところ、犬は跳躍して喜代美の親指に噛みつきました。すると喜代美は、まだ鮮血がほとばしらないうちに親指の先を噛み切り、地面に投げ捨てたとのこと。
「こうしておけば、犬の歯の毒が身に及ぶ心配がない。心配しないでほしい」と周りの者に告げたそうですが、剛毅ですね。
有賀織之助(16)
鬱々稚松緑。軒昂泮水西。看来三礼塾。孤鶴雑群雉。
篠田儀三郎(17)
体幹倍三尺。壮丁不及肩。毿々被毛髪。意気突中天。
一度した約束は違えなかったことで、有名な人。
6、7歳の頃、遊び仲間と蛍狩りに行く約束をしていたが、当日は暴風雨でした。そのため、遊び仲間は家から出ずにいました。
すると、門を叩く人物がいます。右手に蛍籠を、左手には蛍を追うための箒を手にした篠田儀三郎でした。
「このように風雨がひどいため、蛍は一匹も見えない。君はなぜ訪い来たのか」と訊ねたところ、
「私は君との約束を守り、蛍がいるかどうかには構わず訪問した。風雨のために蛍がいないのならば、別の機会に蛍狩りをしよう」
と言って去っていったとのこと。
西川勝太郎(17)
清景在新春。詩家賞感頻。東風上林路。未+--有出門入。
津田捨蔵(16)
参差誰種竹。外直内還空。節操是其質。狗々君子風。
伊藤俊彦(17)
織々江上柳。雨後僅生青。記得尚書熟。孜々読孝経。
鈴木源吾(17)
不学彫蟲事。悠々唯獨咍。更無騎虎態。徐駕鉄牛来。
間瀬源七郎(16)
左掖全欺雪。春寒未放匂。遅々亦何害。大器晩成人。
飯沼貞吉
そして、忘れてはならないのが、飯沼貞吉です。
彼が蘇生したことによって、飯盛山の悲劇が広く伝えられることになりました。会津藩家老、西郷頼母の義理の甥でもあります。
本当は十五歳なのに、嘘をついて白虎隊に入っていたんですよね。戦後は逓信省の通信技師として活躍。
ウィキペディアで、日清戦争にも従軍していたことを知りましたが、その際の「私は白虎隊で死んでいるはずの人間です」という言葉に、胸を突かれました。
白虎隊の出陣前には、こんな歌をお母様から贈られています。
武士として、どんな状況であっても決して引き返して来るな。そんな母の教えを胸に、この歌の短冊を襟に縫い込んで、飯沼貞吉は出陣しました。
二本松武士も誇り高く生きた方々が多いのですが、敵に辱めを受けることを憂いて自刃した十九名が、もしも生き延びたのならば、どのような人生を送ったのでしょうか。
きっとどのような形であれ、各所で「会津武士の矜持」を掲げて、活躍したのではないかと思うのです。
幼少期から、「御国の為に」と厳しく教育された方々ですからね。
なお、この十九名は「城が燃えていると勘違いして自刃した」と長年言われてきましたが、実際には、かなり時間をかけて話し合った結果、虜囚となって辱めを受けることを嫌がって、自刃を選んだことが判明しています。
最後に、誇り高く散っていった白虎隊士中二番隊の方々に、鎮魂の意を捧げたいと思います。
©k.maru027.2022
<参考文献>
『白虎隊』/中村彰彦
旧夢会津白虎隊/永岡清治
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