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【直違の紋に誓って】第三章 若木萌ゆ~帰郷(1)

 磐根との邂逅から数日後。剛介は、上司に半月ほど休暇を取る旨を告げた。同僚には申し訳ないと思ったが、実際には、すんなりと休暇が取れた。あまり遊ぶことのない剛介は、日頃から同僚が休暇を取る際によく身代わりを引き受けていた。どうやらそれが効を奏したらしい。
 ただし、困ったのは休暇の理由である。遠藤の名を名乗って職に就いているので、二本松の事情は打ち明けられなかった。
「病気療養ということにしてしまえ」
 同僚の齋藤が、あっけらかんと言った。この男は長岡の出であるが、戊辰の戦いの際に若松に義勇軍として来て以来、会津に居着いてしまっている。
「しかし……」
 嘘をついて誤魔化すのは、どうも剛介の性に合わないのである。
「万事を正直に言う必要も、なかろう」
 齋藤はニヤっと笑った。
「正直すぎるのも、時には考えものだぞ」
 暗に、戊辰の役の会津の対応をからかっているとも取れたが、言い争うほどでもない。確かに、齋藤の言う通りだった。
 そこで齋藤の助言をそっくり受け入れ、剛介は上司に「病気療養のため」と称して、十日の休みをもぎ取ることに成功した。


 八年ぶりに、剛介は会津と二本松の国境を超えた。季節は既に秋であるため、雪の可能性も考えて、猪苗代からは中山峠を通る道を選んだ。もっとも、母成峠は忌まわしいので通りたくなかったというのもある。
 若松を立ってから三日目に、二本松町に入った。
 ここで一旦宿泊し、士族の所在地を確認してから、小浜の地に向かうつもりだった。
 かつて自宅があった新丁の街並みは、すっかり知らない町になっていた。郭内の家々も、見覚えのない表札も多い。維新によって平民も名字が許されたこともあり、なおさらなのだろう。辛うじて、道の両脇を流れる堀が、かつての城下町の面影を留めている。
 行く人を捕まえて尋ねると、区役所は久保丁坂の坂下門跡にあるとのことだった。真新しい区役所は、漆喰塗の土蔵風で和洋折衷の設計だった。玄関は破風造で洒落ており、ガラス戸になっているのも物珍しい。中に入って知人の士族の所在地を確認したいと言うと、係の者はすぐに士族台帳を持ってきてくれた。どうやら磐根が手を回してくれていたらしい。剛介はその帳面を覗き込み、武谷家が下長折に居を構えていることを確認した。
 帳面から顔を上げて、係の者に礼を言って立ち去ろうとした時である。
「……剛介?」
 驚いて振り返ると、一人の青年が立っていた。だが、面差しに見覚えがある。
「水野……か?」
 大壇口や母成峠で共に戦いながらも、母成峠での戦いの後はお互いに行方が分からなくなっていた、水野進であった。
「生きていたのか」
 磐根と同じ台詞を口にして、水野が目を丸くする。かつての同輩はすっかり背が伸び、質素でありながらも、折り目正しい着物を身に着けていた。
「どうしてここに?」
「それは、こちらの台詞だ」
 水野が、泣き笑いのような表情をする。
「役場の者が学校の書類を持って来いというから、来たのだ」
 水野の手には、確かに紙の束があった。そう言えば、この男は子供の頃から賢かった。話の流れから推察すると、学校の教員になったのだろう。水野はその敏さを買われて青木家から水野家に養子に入ったのだと聞いたことがあった。教師という職はこの男にふさわしいと、剛介は思った。
 跡取りが生きて戦場から戻った養親も実親も、さぞ嬉しかっただろう。
「お前、今晩の宿は?」
「これから探すところだ」
 時刻は既に夕方である。今から小浜に行くには遅すぎるし、気持ちを落ち着けてから実家に向いたかった。
「水臭いことを言うな。一晩くらい、泊めてやる」
 水野が笑った。笑顔は、子供の頃とあまり変わらない。手にした書類を係の者に渡すとさっさと役場を出て、すたすたと歩き出した。それから、人目を気にしながら、とある家の前で足を止めた。真新しい表札には「高橋」とある。
 怪訝な顔をする剛介に、水野は「虎治の家だ」と耳打ちした。
「虎治も生きていたのか」 
 胸の内に、敬学館や木村道場、日夏道場での記憶が蘇る。
 本姓の成田ではなく新しい名字を名乗っているところを見ると、深い訳があるのだろう。二本松も賊軍に貶められた。それを憚って、全く別の名前を名乗る者も少なくなかった。会津と同じである。
「御免」
 家の奥から、若い男が出てきた。顔に大きな傷の跡があるのが痛々しいが、これも間違いない。虎治である。
種紀たねのり殿。私の家で一杯やらぬか?」
 水野が意味有りげに目配せした。種紀と呼ばれた青年は、剛介に気がついたようだ。そして、絶句している。だが、口には出さない。
「よかろう。少し待っていてくれ」 
 奥に向かって何事か告げると、すぐに外出の支度を整えて出てきた。
 三人は、亀谷町の坂を登っていった。水野の元の家は確か竹田門の近く、七ノ丁にあったはずだ。だが、そちらには住めなくなったのだろう。下ノ町に着くと、路地の奥の家に、水野の手蹟らしい表札がかかっていた。


 新しい水野家は、元の家と比べると、簡素な小さい家だ。だが、水野の養母は酒膳を整え、奥へ引っ込んだ。どうやら、この義母と二人暮しらしい。
「さて」
 水野が真面目な顔をして切り出した。
「武谷剛介だよな?」
 剛介は束の間考えて、首を横に振った。
「今は、遠藤の姓を名乗っている」
 それは、紛れもない事実だ。
「水野から、母成で会ったことまでは聞いていたのだが。それからどうしていた?」
 かつて、虎治と呼ばれた青年が待ちきれないように、詰問口調で訊ねた。
 どこから説明すれば良いだろう。
 何と答えていいのか分からず、剛介は一瞬言葉に詰まり、そしてようやく振り絞るように答えた。
「……会津で、遠藤という家に入った。今は会津で巡査をしている」
 詳しく語り合いたい。だが、二本松に長いこと帰らなかった負い目が、剛介の口を重くしていた。
「……そうか」
 しばし沈黙が流れた。巡査の職は読み書きができるのが必須条件である。そのため、士族が生活のために就くことも珍しくなかった。
 だが、官吏となれば、嫌でも薩長土の人間と関わらざるを得ない。先年、若松県・福島県・磐崎県が合併して新生福島県となったばかりだが、かつての仇敵である会津に対する風当たりは、他の県よりも強いという噂だった。
 短い剛介の言葉だけで、水野や虎治は現在の苦境を察してくれたのだろう。二人共、視線を落としている。
「ま、私も人のことは言えないな。早々と士族の地位を返上して、医の道へ進むことにしたし」
 驚いて顔を上げると、虎治は簡単に、剛介の不在の間の事情を説明してくれた。
 虎治によると、あの戦乱の翌年の十月、藩の有志の手で敬学館が復活したのだという。剛介らが学んでいた頃とは異なり、武士の子弟以外の子女も通うことが認められた。その内容は、漢学が中心だった昔と異なり、算術などの授業も熱心に行われた。そこで虎治は医の基礎を学び、現在は医者を目指して、須賀川医学校で学んでいるのだという。たまたま、この日は二本松に里帰りして来ているらしかった。
 人一倍血の気が多かった虎治が医者になるのかと思うと、何だかおかしかった。
 一方、あの母成峠の戦いでは、水野も九死に一生を得た。会津兵や他の二本松藩士と一緒に山中を敗走し、二十三日に会津若松に辿り着いた。だが、城下が火に包まれるのを見て同地に入るのを諦め、熊倉、熱塩を経て檜原村に至り、そこで水野の実姉が嫁いだ下河辺家の者と一緒に峠を超えて、米沢で兄と再会した。それから紆余曲折があったものの、現在は竹根小学校の教師として、生活の糧を得ているという。
 皆、血を吐く思いをしたのだ。虎治も多くは語らないが、城下で戦った後水原を通って庭坂に至り、そこから米沢へ藩公を追って米沢へ向かったと説明した。
「……死んだ者は?」
 聞きたくはない。だが、確実に数名はいるはずだった。
 水野が辛そうに、指折り数える。
 高橋辰治。遊佐辰弥。徳田鉄吉。成田才次郎。
 才次郎の死は以前に母成峠で水野から聞いていたが、改めて伝えられると、やはり胸に応えた。
 岡山篤次郎。
 一緒に指を折っていた虎治が、目を瞑った。篤次郎と並んで木村道場の古株だった虎治は、常に篤次郎とともに、大砲の操作役を任されていた。篤次郎が死んだのが今でも信じられないと言う。
 木村丈太郎。久保鉄次郎。
 そして、久保豊三郎。
 最後に虎治が上げた名前に、剛介は耳を疑った。なぜ豊三郎が?
「嘘だろう?だって、あいつは会津で別れた時は、五体満足だったぞ?」

>「帰郷(2)」に続く

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©k.maru027.2022

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