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泪橋~花の宴(1)

 為氏と三千代姫の住む岩間舘は、そそり立つ崖の上に建ち、眼下に逢隈川が流れる風光明媚な土地である。その対岸には山々の緑が目に鮮やかであり、鎌倉育ちの為氏にも新鮮に映るようだった。
 須賀川育ちの三千代姫も、須賀川の丘の下にはほとんど下りたことがなかったらしく、水鳥の遊ぶ姿が見られると言って喜んでいるらしい。
 昨年の夏に輿入れした姫は、乳母である由比ゆいが常に側に侍っている。また、彼女が幼い頃より仕えていたという岩桐藤内左衛門が護衛の代表であり、数十人の足軽が付き従っていた。その他に、雲居、亀岡、瀧尾、明石、志摩の五人の上臈。為氏と三千代姫の新居には、須田の一族や箭部の一族の女たちが、世話係として岩間館に伺候していた。図書亮の妻になったりくもその一員であり、朝、図書亮と一緒に伏見館や岩間館に行くことが多いのだった。
 りくによると、三千代姫や乳母の由比は比較的穏やかな人柄で、とても悪名高い治部大輔の娘とは思えないと述べた。だが、同じく須賀川から付き従ってきた五人の上臈は、やや嵩高だという。そもそも和田衆は、平時は農民と共に農作業に勤しむ者も少なくない。須賀川衆の女たちはそんな和田衆を、どこか小馬鹿にしているというのだ。
 須賀川の街は、一応姫の輿入れで和睦が成り立ったとのことで、図書亮も月三回開かれる市などへ出かけることもあった。和田よりも遥かに高台にある街の中心には須賀川城があり、その周りには物売りや諸国からの遊興の者などが集い、確かに和田よりも殷賑の印象があった。
 ところで肝心の三千代姫だが、図書亮が見る限り、気性はすこぶるおとなしい。歌道に通じていると左近は述べていたが、その中でもとりわけ「伊勢物語」を好んでいるという。そのため、りく等侍女にも、しばしば伊勢物語の感想を尋ねるのだとりくは話した。りくも伊勢物語を読んだことはあるが、三千代姫ほどにはかの作品に思い入れがないという。
「伊勢物語か……」
 りくが困惑するのも、図書亮にはわかる気がした。伊勢物語の筆者は、一説によると在原業平と言われているが、当時の好色男としても有名である。歌は一級だが、中には乙女に聞かせたくない話も含まれているのだった。
「この間もね、伊勢物語の九十話を持ち出されて」
 一日の務めが終わり、今日も二人で和田館の近くにある自宅に戻ってきた。図書亮の飯をよそいながら、りくがこぼす。
「九十話というと、桜の話?」
 図書亮も、微かに記憶しているくらいだった。
「そう。つれない女にを何とか物にしたいと恋い焦がれていた男に対して、女がさすがに憐れみを感じたのか、『明日には物越しに対面いたしましょう』と約束するでしょう?でも、男は舞い上がりつつも、どこかで女を信じきれなかったのでしょうね。桜に添えた文に、『桜花けふこそかくも匂ふともあな頼みがたあすの夜のこと』という歌を添えて、ちょっと皮肉を込めたというお話」
 りくがちらりと、こちらに視線を投げて寄越した。結婚から一年近くにもなると、何となく夫婦の呼吸も合うようになってきて、今ではりくも図書亮のやや面倒な性格を把握しているのだった。
 桜の花は今日はこのように美しく咲いている。だが、明日の夜にはどうなっているかわからない。貴女はその様に調子の良い事を仰っしゃられますが、明日の夜になったらまたお気持ちが変わっていらっしゃるのではありませんか。
 確かにりくと結婚する前の図書亮なら、それくらいのことは言ったかもしれない。
「りくには、そんな面倒なことをしたことがないじゃないか」
 ちくりと文句を言いつつ、今は素直に妻が可愛いと思う。
「で、三千代姫は何と?」
「女性としては簡単に殿方に身を委ねるわけにはいかない。だから、その男と心底が通じるまで待っていただけでしょうに、と。その女の心が、殿方には分からないのでしょうかと仰るのよ」
 それは、詰め寄られる女房たちも困っただろう。男女の機微の駆け引きは、三千代姫にはまだ早すぎるようだ。
「その場に御屋形様もいらっしゃったのだけれど、御屋形様も困っていらっしゃいました」
「御屋形様が、姫の真心を疑ったわけではないだろうに」
 そう返しつつも、図書亮はふと伏見館への道すがらに見えている薄紅に染まった小山を思い出した。
 あれは、方角からすると須田兄弟のうち、次男秀泰が住む市野関館の辺りだろうか。和田館からはやや南東、峯ヶ城からすると北東に位置する小山は、ちょっとした高台である。和田館よりも高い場所にあり、あちらから峯ヶ城の方向を眺めれば、こちらの桜と館下の崖が見事に一枚の画図として映るに違いなかった。
 翌日峯ヶ城に伺候すると、図書亮はその旨を美濃守に申し出た。最近は須賀川衆との争いも小康状態にあるため、峯ヶ城の主である美濃守も、落ち着いている風である。
「ああ。丁度館の周りの桜が見頃を迎えている。秀泰とも話して、明日にでも御屋形様に花見のお誘いをしようかと思っていたところだ」
 通称佐渡守と呼ばれる秀泰とも、花見の宴の話が持ち上がっていたらしい。武人の印象が強い美濃守だが、風流を解する心得もあるようだ。
 美濃守と図書亮は、峯ヶ城に隣接する岩間館に足を運んだ。すると為氏の居室には、三千代姫の姿もあった。どうやら二人で書見をしていたらしい。為氏の文机には和漢朗詠集が、三千代姫の文机には伊勢物語らしき綴本が置かれていた。
 美濃守が「領地の視察を兼ねて、市野関舘で花見を催そうと思います」と述べると、為氏は乗り気のようだった。
「どうせなら宴の席を設けようと思う。図書亮、都では相変わらず今様が流行っているそうだな」
 それは、遠く丹後の一色本家から来た便りに書かれていた話だった。上州を拠点とする宮内一色家は、現在、辛うじて図書亮らが細々と命脈を繋いでいるが、本家は足利宗家や都との繋がりも強い。その本家からの文に、「京都では近頃また連歌や今様が歌われている」とあったのだ。連歌とは、今までの和歌と異なり、歌を上の句と下の句に分け、全部で一〇〇首詠むのが決まりである。
「そのようです」
 図書亮も、愛想良く主である為氏の問いに答えた。
「御屋形様。私もその席に侍りとうございます」
 それまで、にこにこと黙って聞いていた三千代姫が、可愛らしい声で為氏にねだった。歌の達人というから、創作意欲が刺激されたのかもしれない。

©k.maru027.2023

>「花の宴(2)」へ続く

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