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安部井磐根短歌・長歌

古文にどっぷり浸かっている反面、「安部井磐根もぜひ小説に」というリクエストを頂いているもので、彼の分の資料もたまに目を通しています。
明治初期の文章はなぜか「漢文調」の文章が多くて、これも結構難題なのですが……。

そんな中で私が読みたくなるのは、彼の短歌・長歌でしょうか。
遠藤二郎という、地元(二本松)の研究家にも「あの時代でこれだけ五七調を使いこなし、万葉調の歌を詠める人はそうはいない」と絶賛されており、私も一時磐根の古書を購入しようか検討したほどです。
→結局、国立国会図書館デジタルアーカイブからDLしましたが……。

そんなわけで、いくつか今の季節にぴったりの歌を選んでみました。

寒梅做霜
(寒梅霜をつくる)

春きぬとおもふにこゝろもむすほるゝ霜にきほひて匂ふ梅かな
(はるきぬとおもうにこころもむすほるるしもにきおいてにおううめかな)

歌意
春が来たと思うと、心も惹きつけられるようだ。霜に気負って梅も匂ってくるのだろうか。

早梅薫窓中

冬こもる南の窓のすきまよりたき物ならぬ梅か香そする

部屋の中は冬が籠もっているというのに、南の窓の隙間からは、焚き物(お香)ではなく梅の香りがしてくることよ。

春近有梅知
(春近しを梅在りて知る)

降積もる雪もけなくに吾園の梅かたゑみぬ春ちかみかも

降り積もる雪も我が家の庭からはとうになくなって、梅が微笑んでいるようだ。春も近いのかもしれない。

(以上、『安部井磐根翁梅花千詠』より)


さらに、磐根様は「長歌」も詠まれていたそうです。

長歌ちょうか
和歌の一つの型。五七、五七を繰り返し、最後に更に七音の句を添えるような形式のもの。

詠安達牧歌

こちらも長歌が掲載されているのですが、解釈が難しかったので短歌のみを。

安達男にかはるゝ駒や時にあひし昔の春の野へをこふらむ

<歌意>
安達男に代わって、馬よ。時には会おうではないか。昔の春の野原を越えて。
(※ツイッターで投稿した後で読み間違いに気づき、解釈を訂正しました)


明治四年廃藩の朝命ありて、二本松藩主丹羽長裕の君の東京にのぼり給ふ時 若松県に在りて其父長國の君に詠て奉りたる
(明治4年に廃藩の政府命令があり、長国公の後を継いだ長裕ながひろ公が上京された時、磐根は若松にいました。そこで長国公に贈られた長歌です)

二本の松の南の 白河のしらぬ昔の その君に召あけられて 君と仰きやつこと仕へ 白河の関路の北の 二本の松かけかけて 君が世は十継に余り 吾が世も十つきにいたり ゆく末もいまゆく末も 此まゝにありへむ物と くれのおも思へるはしに 空蝉の世のうつろひと 大船のたのみし君は 二本の松かけたゝし 白河の関路はろゝ 都へにのぼりましきと 悔しくも聞おとろきて 言はむすへせんすへしらに 磐根わか一世のみかも 親の世もあはれあまたの よゝとこそなけ

大意

二本松の南にある白河の昔を、我が君は知らないだろう。だがその君公も東京に召されるという。二本松の君公を主君と仰いで仕え、白河の関の北にある二本松を駆け回ってきた。丹羽家は十代を繋ぎ、私の仕事(官職に就いたこと?)も10ヶ月に及んだ。
これからの行く末はこのままであるわけがないものと、年の暮れに思う。
空蝉のように虚しい世の移ろいの中で、大船と托んだ君公は二本松を駆け抜け、白河の関を越えて都へ上られるらしいと聞き、悔しく思い聞いて驚いて、到底言葉に顕すことも出来ない。磐根も、私の代で終わるかもしれない。
親の世も憐れみ深く、泣くばかりである。

※安部井磐根夫妻には子供がなく、磐根は父又之丞の落城時の切腹後、末弟の壮蔵を養子にしていた。

白河のしらぬ昔をはしめにてなかれこしよのはてそくやしき

(以上、『安部井磐根翁長歌集より』)


というわけで、安部井磐根様の歌からピックアップしてみました。

さすが、本居宣長の「古事記伝」を全巻書き写したというだけあって(それだけでかなりの勉強になるはず)、御歌に品があるんですよね。

長歌は私もほとんど読解した試しがありませんが(そもそも幕末でも詠める人は稀だったらしい)、やはり、歌道に堪能だった事が伺えます。

何だかしばらく気が荒れていたもので、磐根様の品のある御歌は、「気の高ぶり」からの回復薬として物凄く効果がありました。

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