見出し画像

「ラブ&ポップ」と1990年代論

 1990年代の日本の「若者」は、どのような生活世界を生きていたのか。より具体的に言えば、現代にも通じる「不可能性の時代(大澤真幸 2008)」や「後ろ向きに進んでいく時代(大澤聡編 2017)」といった時代感覚が、当時の若者(本稿では女子高生というマス層)にとってどのように編成され、また他者から解釈されていたのか。これが本稿を通じた問いとなる。若者一般のメンタリティに注目するのではなく、巨大な集団として捉えるのでもなく、社会との関連の中で「若者」を把握していく必要がある(古市 2015:44)。若者を社会に埋め込まれた存在だと見ようとする視座をもって「若者論」という形式を引き継ぐ必要性を筆者は認めた上で筆を進める。

 はじめに、作品の基本情報と筆者の感想を記しておく。映画評価のアプリケーション「Filmarks」にはより粗雑な記述を残している。(https://filmarks.com/movies/11056/reviews/94590800)

 映画『ラブ&ポップ』は村上龍原作の小説をもとに、新人時代の庵野秀明がメガホンをとった作品である。女子高生の援助交際を描いたこの作品は1996年の原作、1998年の劇場公開といった運びになっている。村上龍は『限りなく透明に近いブルー』『愛と幻想のファシズム』『13歳からのハローワーク』といった著作を持つ作家・小説家である。この映画は新人女優の三輪明日美が主人公・吉井裕美(ひろみ)を演じ、希良梨、仲間由紀恵、工藤浩乃を含めた都内の女子高生四名が援助交際をめぐって煩悶する物語だ。描かれるのは1997年7月のある1日の出来事であり、極めて濃度の高い110分間である。

 本映画は、1年前の京都大学教育学部・研究科の前期集中講義「青年社会学」の講義で大澤聡先生より紹介された。原作の小説は読まないまま「U-NEXT」で鑑賞した。大澤聡先生は近畿大学文芸学部を中心に教鞭をとられており、文芸批評や『1990年代論』『教養主義のリハビリテーション』などの著作で著名である。

 この映画の感想と評価を凝縮して述べる。まず何をおいても、映像手法が出色である。カメラをミニチュアの列車上部に取り付けたり、指輪の箱に忍ばせたり、電子レンジの中に置いたりするという配置の工夫に加えて、魚眼風に撮る、スクリーンの端に縦長に切り取った映像が流れる、性的描写は女性の眼にカメラを置くことでR指定を回避する、といった技巧的で斬新なカメラワークが素晴らしい。Wikipediaによれば、「家庭用デジタルビデオカメラを一つのシーンで同時に5台使う形で撮影され、上映時間110分に対して撮影時間は160時間に上った」とされている。

 筆者が看取したのは、作品全体に濃密に垂れ込める、村上龍の「昭和・平成・若者」観であり、登場人物がそれぞれに持つ秘密と後ろめたさと鈍い狂気、である。90年代半ばの村上龍の時代診断のエッセンスを筆者なりに言語化したのが以上である。エンディングは急遽変更されたというが、多くの論者が言及するように痛快に感じた。東京、渋谷という街の歴史の蓄積と忘却と隠蔽性、まさに都心に構築されたアスファルトのミルフィーユ状態。その下層、地金にあたる渋谷川を颯爽と闊歩する女子高生たち。その後複数作品にわたってこのエンディングがオマージュされていることも知られている。

 

 ここまで、作品の基本情報と筆者の感想を書き連ねた。以降、映画『ラブ&ポップ』を通じて問題提起と論証を進める。

 まず、大澤真幸のいう「不可能性の時代」と大澤聡のいう「後ろ向きに進んでいく時代」という大枠の時代診断を、見田宗介らの消費社会論に引き付けて概括する。現代日本において1995年は、阪神淡路大震災、オウム真理教の一連の事件、Windows95の発売といった出来事が起こった年である。大澤真幸の戦後社会の区分によれば、1945年の終戦以後1970年までの「理想の時代」、続いて1970年から1995年までの「虚構の時代」、そして「不可能性の時代」と続いてきている。1970年は大阪万博、劇作家・小説家の三島由紀夫自殺、1970年安保闘争が象徴的な年であり、戦後復興と高度経済成長を軸に現実の対義語としての「理想」が成就・終焉を迎えたといえる。70年代以降、人々は政治に向けていたエネルギーをサブカルチャーに移すようになり、「虚構」の時代へと突入して25年の歳月が過ぎていたというのだ。大塚英志によれば、オウム真理教は虚構を現実に持ち込むオタク的な心性を備えており、サブカルチャー的想像力に支えられていたという(大塚 2001)。しかしながら、1995年のエポックメイキングな出来事によって虚構の世界の肥大が認識された結果、現実感覚を求めるようになる。ここでは、親密な関係、絆、生きる実感といったキーワードが浮上してくるのである。現実感覚のある、それでいて強固な関係性と身体感覚を重要視する風潮が現れる。これは若者にも例外ではない。消費の面でも、剥き出しのリアリティを欲するのだが、もはや入手不可能であるために代替物に手を伸ばす。代替物の代表例として、リストカットやノンアルコール飲料、セーフティセックスといった具体的な事物が列挙される。

 続いて、大澤聡のいう「後ろ向きに進んでいく時代」の含意するところを概略する。

90年代以降、思想もカルチャーもいろいろなジャンルの固有名が刷新されず、いまなお20年選手たちが現役で、上の方に不動でつづけているわけですが、事態はこのことともどこかリンクしているんじゃないでしょうか。総じてポストヒストリカルな状況になっている。そのため、回顧やリサイクルが増える。出版業界でいえば、「生誕150年」「没後100年」「創業80年」といったメモリアルイヤーにひっかけた過去の再発見が多くなることが典型的な傾向ですね(大澤聡 2017)。

 新規性の断念によって「サンプリングの時代」に突入したことを大澤聡と椹木野衣は述べている。データベース型のインターネットが普及するのと軌を一にして、あらゆる過去の産物がネタ・素材となってサンプリングやカットアップ、アッシュアップ、ポップアート、パロディの乱立、といった様々なジャンルへの転移が生じてくるのだという。歴史概念や時間性が乏しくなった「のっぺり」した世界(「ポストヒストリ」という言い換えも同様)が後ろ向きに進んでいくのが、1990年代以降の時代だと大澤聡は述べる(大澤聡 2017)。つまり、文化的側面においても一直線上に発展する志向よりはむしろ、<情報化/消費化社会>が進行する中で回顧やリサイクルが進んだ発展不可能な時代感覚が広がったのが、1990年代というディケイドであった。

 同時代に『現代社会の理論』を著した社会学者・見田宗介によれば、<情報化/消費化社会>は「純粋な資本主義」からの逸脱や変容ではなく、初めての「純粋な資本主義」なのだという。資本制システムの論理自体の、消費の領域への貫徹であり一般化が「消費社会」という現象なのであった。情報を通して欲望が創出される。新しい商品は、既存の欲望に対応する必要はなく、新しい欲望を創出するものであっても良いのだが、この「新しい欲望」は、少なくともその時代の消費者にとって魅力的であると感覚される商品によってしか触発されないのであった(見田 1996)。大澤聡に引きつければ、「新規性が断念」されてサンプリングをはじめとする商品・作品が耳目を集めるようになる。見田が挙げたような旧型のフォード自動車のようなスタイルでは、もはや消費の欲望を掻き立てることができない。新たな魅力的な情報によって新たな消費を喚起することが先鋭化したのが、〈情報化/消費化社会〉なのであった。
 要約すれば、見田宗介が提示した現代日本社会の純粋な資本主義形態としての「消費社会」が極まって、「不可能性の時代」「後ろ向きに進んでいく時代」が到来したのだ。結論をここに提示した上で、いよいよ『ラブ&ポップ』内の個々人の感覚に肉薄してゆく。

 この作品の主題とは、何を措いてもまず「援助交際」であろう。主人公の吉田裕美は自堕落な高校生活の中で友達が欲望を抱き、そのままに遊び、手を伸ばしてもがいている様子を見て、自分に「劣等感に近い無力感」と「欲望が続かない惰性」を自分に見ていた。そんな折、デパートで見つけたトパーズの指輪(特別価格で¥128,000)を購入したい欲望(=新しい欲望)に気づき、「まるではじめてのキスの時の目を閉じた瞬間のよう」な興奮を経験する。これを実現する手段として、コバヤシというホモの男から借りた携帯電話を用いて援助交際の相手を伝言ダイヤルから探し、男たちから金銭を得ようとするのであった。消費の面でリアリティを求め、高校生には高価で入手不可能な指輪を、オルタナティブの性愛を介して満たそうとする。「海は、時計とか目立つよね、指輪とか」というサチの一言がトリガーとなって、消費と差異化のゲームの中で自己表出を試みるのであるが、金銭的状況を鑑みて援助交際を唯一の手段として選択する。留保しておかねばならないが、最終版で「キャプテンEO」に打ち明ける願い事は、「胸が大きくなりたい」であった。身体的で絶対的なリアリティであった。この豊胸願望に関しては描写が少なく、初対面の相手に個人が明かした願いであって保留としておく。

 「援助交際」が主題でありながらも裕美の性的欲求が親密で純粋な関係を重視するものであったことは、作中の以下のセリフに象徴的である。

裕美「ただ、エッチをしたいというよりも静かに裸で抱き合いたい。お互いの肌の体温や感触を確かめたいという感じの方が強い。それが私にとっての性欲だ」

 このようなリアリティの中で、入手不可能であるはずの指輪をオルタナティブな恋愛を媒介して即座に獲得する戦略をとるのである。アメリカ社会での「ラブ」「ポップ」の意味は、日本の近代化過程において感覚的で通俗的なものと解釈され、「欲しいものは早く手に入れたい」という欲望に変換されたきらいがある(Cho 2007)。差異化ゲームでの優越を企図した物質的な欲望を、即座に獲得しようとする欲望が、日本特殊的であると上述の論文は説明している。「どうやって指輪を手に入れるか。「援助交際以外に方法なんかないことを、みんな知っている。やりたいことや、欲しいと思ったものは、そう思った瞬間に手に入れようと努力しないと、必ず自分から消えてなくなる」という裕美の動機表明は、この欲望の切迫感を端的に表現している。「欲望が続かない惰性」を認識して自己表出に成功するために、湧いた欲望をその日のうちに充足しようと行動している。テーマの「援助交際」は、村上龍・庵野秀明作品においてはポップな感覚を与えるもので、裕美が発見した新しい欲望を満たすための至極合理的で可能的な手段である。女子高生たちの生活世界の中では、自分たちの鈍い向上心や欲求を内省して煩悶しながらも、援助交際に対する強い忌避感が存在しない。1990年代の若者のリアリティが、2010年代を若者として送った筆者の世代との感覚が乖離していることを「援助交際」への対応から見てとる。

 ここから、社会学の研究が明らかにした実態を説明する。当時の援助交際の実態としては、既にPHSを所持していた女子高生にとって伝言ダイヤルで取引することはリスキーであり、彼女たちは一定の評判が確立した相手をポケベルでキープして関係性を維持していた。ポケベルは他者と疎遠な距離を保ったまま関係を維持するためのメディアだったとの指摘もなされている(棚橋 2015)。伝言ダイヤルのメッセージを蔑視し警戒しながらも、合目的的行為として援助交際を選択しているのであった。一定の評判、というのは一男性に対しての信頼を意味しており、おそらく『ラブ&ポップ』に登場した中年男性たちとは継続的なコミュニケーションが図られたとは推力し難い。

 2001年には圓田浩二『誰が誰に何を売るのか?』が発売されている。1997年から1999年にかけて伝言ダイヤルやテレクラで行ったフィールドワークの成果だ。実際には<欠落系>とカテゴライズされるような、金品や性的快楽よりも他者からの承認を求める者がインフォーマントの六割を占めたという。ここでは当時のマスメディアで批判的に喧伝された<性の商品化>論の限界を指摘し、「趣味としての性交」を提示した点で新規性のある研究がなされている。

 以上のような援助交際のリアリティが研究の知見としてもたらされる一方、援助交際を開始しようとする裕美の動機と行動は実態の典型とは遊離しているものの、開始当初の揺れ動く主体のあり方を鮮やかに描写している。両親は放任的で父や姉とは趣味が価値観が合わず、家族の優しさが鬱陶しくて承認を受けられない。恋人には「胸が小さい、色気がない」と言われて承認を受けにくい。友達との表面上の友情はあるが、秘密の開陳は行わない。「自分だけが取り残されている感じ」がある。以上に列挙したような承認の欠如からは、圓田が明らかにしたような<欠落系>の要素が看取できる。指輪の購入希望を話題にして「指が綺麗だな。似合うだろうな」とキャプテンEOに言われて綻びを見せた裕美の表情には、<欠落系>の若者のリアリティが滲んでいるようにも解釈できるだろう。剥き出しの物質的欲望を欲して援助交際を選択するが、もはや入手不可能である真の愛の代替として、他者からの承認関係に没入していく心的傾向すら考えられる。「(胸が)別に小さくないじゃん」という言葉や説教によって、仮に裕美がこの関係に承認を感じているとしたら、その傾向は決定的なものだと想定される。
援助交際の相手である「キャプテンEO」については、以下に本音を残しておく。

※ 一番最後に出てくる若い男、「キャプテンEO」は訳が分からない。痛いほど共感してしまう男、過去に愛に敗れた若者なのか。彼にとってその人形は何だろうか。あのような男が90年代のテレクラにいたのか定かではないが、彼のセリフ「お前が裸になってる間にもよ、そいつが死ぬほど悲しい思いしてよー、死ぬほど苦しんでよー、泣きたいような辛い思いしてよー、そいつがお前よー、大切にしてる女が他の男の前で裸になってたらお前どんな気持ちになると思ってんだよ!」は強烈。70年代以来続く「虚構の時代」を生きて人形を持ち続けてはいるが、悲しい現実に突き当たって女子高生にその怒りをぶつけているのが、キャプテンEOという人物なのかもしれない。「そのセリフ考えた人って、優しい人だね。だってさ、それは、お前には価値があるっていうことでしょう、安売りするな、ってことでしょう」と裕美に返事したホモセクシュアルの男・コバヤシも、いかにも90年代的で凡庸なコメントをしたのかもしれない。

 「後ろ向きに進んでいく時代」というエッセンスは「不可能性の時代」に比較するとやや乏しい。それでもなお、かぐや姫の「神田川」を歌って年長の男性に媚びようとする女子高生の姿からは、過去の高度経済成長・昭和時代への羨望を表明するという一端もあるのではないだろうか。勿論中年男性の気を引き確実に金銭を引き出すための戦略的側面が強いものの、ノスタルジーとしての「在りし日の昭和」を思い描く年長世代と、経済的なピークを越えたために昭和の良さに無自覚になっている若年世代との間のギャップが際立っている(西田 2017)。若年世代もまた、年長世代が継承してきたものをサンプリングしながら受容し、葛藤を覚えていることが窺えるだろう。社会との関連の中で、いかに承認を受けて自身のプレゼンスを示していくかという課題に、女子高生たちは取り組んでいたのだろう。

 後ろ向きというのが、歴史という観念の消失の意味で用いられつつも終盤の裕美自身との対話にあるような「ネガティブな」姿勢というダブル・ミーニングを伴って浮かび上がったのが所感である。

 参考文献の整理は一旦保留とし、本稿を締めることとする。
見田宗介、1995、『現代社会の理論』岩波新書。西田亮介、2017、『不寛容の本質』経済界新書。大澤真幸、2008、『不可能性の時代』岩波新書。大澤聡、2017、『1990年代論』河出ブックス。圓田浩二、2001、『誰が誰に何を売るのか?』関西学院大学出版会。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?