妄想:古い郷、新しい郷

年末年始で帰郷する人もいる。また、仕事の関係などで地方に居て帰京する人もいる。あなたの "ふるさと" は、いずこにあらせられるか。

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郷:律令制の郷(Wikipedia抜粋):地方行政の最下位の単位として、郡の下に 里 (り、さと)が設置された。715年に里を郷(ごう、さと)に改称し、郷の下に新しく設定した2~3の里を置く郷里制に改めた。しかし里がすぐに廃止されて郷のみとなったため、郷が地方行政最下位の単位として残ることになった。 郷は戸という家族集団の集まりであるから、「人」の支配のために設けられた制度である。中世・近世と郷の下には更に小さな単位である村(惣村)が発生して郷村制が形成されていった。一定のまとまりをもつ数村を合わせて「○○郷」と呼ぶことがある。

さと:戸という家族集団の集まり。

家族: 夫婦や親子という関係を中心とする近親者によって構成され、相互の感情的きずなに基づいて日常生活を共同に営む最も小さな共同体である。かつて家族は社会の基礎構成単位として広汎な機能を持っていたが、社会の発達による機能分化に伴って諸機能が外部化され、家族の機能は大幅に縮小しつつある。一方で、生産機能は失ったものの生活共同体としての家族の機能は失われているわけではなく、また教育的機能についても学校などの外部教育機関で長期間の教育が不可欠となる一方、子育ては依然として家族の中心的機能の一つであるばかりか、一家族あたりの子供の数の減少に伴い、家族内での比重はむしろ増しつつある。現代家族の機能については性的機能・生殖機能・教育的機能・経済的機能の4つに限定するものから、さらに縮小した機能を想定するものまでさまざまな理論が存在する。世界的に社会が発展するに従って家族の規模は縮小する傾向にあり、19世紀にはほとんどの国で1世帯の平均人員は5人前後だったものが、20世紀末には先進国では2.5人前後にまで減少した。ひとつの家屋の1階2階に分かれて微妙な「近さ」と「距離」を保ちつつ暮らす人々も増えるなど、家族の多様化や 家族の線引きの曖昧化が進んでいる。

無縁社会:少子高齢化、女性の社会進出によるかつての結婚に対する若者の意識の変化、地縁血縁社会の崩壊、個人情報保護法によるプライバシー保護の厳格化、家族や社会とのコミュニケーションが希薄化しSNSによる交流が主となっている若者、また終身雇用制度の崩壊など、単身者はますます孤立しやすい社会へと急速に移行している。これらは日本に限らず先進国一般の風潮であり社会問題化している。

無縁ビジネス:かつて日本社会で多く見られた、地縁、血縁といった地域社会での人間関係や、家族・親類との関係が次第に失われ、さらには終身雇用が崩壊したことで、会社との絆であった「社縁」までが失われたことによって生み出されていた。単身者を対象とした主に高齢、死を扱う新しいビジネスとして共同墓地、永代供養、保証人・高齢者見守りサービス・家事代行サービス・買い物代行、話し相手サービス、身辺整理や遺品整理、埋葬などを専門に請け負う特殊清掃業、特定非営利活動法人などがにわかに産業として脚光を浴び、注目されるようになった。

(ここから、妄想)

都会に "さと" はあるか。家族が寄り添って生きているのであれば、そこが "さと" なのでしょう。けれど、「生きていくための家族」ではなくなったいま、家族になる意義が問われているのです。現象として "無縁" が蔓延る。

わたしの住む過疎地も同様。律令制の名残がまだある "さと"。家族が集まり集落となって共同生活を営んでいます。そこには "掟" があって、それを履行しなければ "村八分" となって生きづらさを感じるようになります。そうやって、共同でルールの中で互いに助け合いながら影響しあいながら千年万年を生き延びてきました。

ですが、ここでも "無縁" が蔓延る。ほんとうに 蔓や蔦が伸び放題となって、先祖代々の山を穢していく。管理放棄や耕作放棄で "無縁" となったということ。わたしも、管理しきれずに手放そうとしている。

共同で営む "さと" は、働き手を失い、老いた "家族" が "さと" の面倒を見る "さとの老々介護" 状態となっています。

一方、共同と正反対にある「個人の生きやすさ」を追求する「あたらしい郷づくり」が都会で始まっている予感がします。テクノロジーの進化に伴って、より個人に密着した社会が築かれる。いわばテクノロジーで作られた「シン・郷」とでもいうべき社会。

個人間の連携は、テクノロジーを間に建てて出入りしながら必要なことに集中したやり取りが交わされ、漫然とした脳のα波に浸りたければ仮想の癒し空間で時間を費やすことができます。能動的なβ波を発するもα波を発するも、テクノロジーの中の出来事で、そこでのつながりは「テクノロジーによる家族」となるのでしょう。

この「テクノロジーが取り持つ家族社会」が、2025年から本格的に広まるのだろうと思っています。そして、過疎地に住む私も、その家族の一員となり、過疎地を離れテクノロジーが紹介する「住みやすい都会」へ旅立つのでしょう。そして「あたらしい郷づくり」に精を出すことになります。

ただ・・・

世界では、「古い郷」が存在していて、子だくさんでありながらその子供たちは14~5年経つと兵士として戦場に送られることが繰り返されています。「家族の名誉のために戦死する」ことが、古い郷の習わしとなっている。亡くなってもその次の子供たちが戦場へ出陣していく。常に、こどもは増産される。それが「古い郷と家族」の構図なのです。

方や「新しい郷」で、テクノロジーによる介護で長生きしながら、とても少ない子供をテクノロジーの中で大切に育て上げ、戦争を極力回避しながら、世界の富を集める社会があって、方や、戦争による営巣地拡大をめざす多子若齢化社会が綿々と続く。

このギャップは、やがて大きな亀裂となって、おのおのの「ふるさと」を分断し対立させ、アイデンティティを蝕んでいく。

そして、新しい郷は崩壊し、古い郷しか残らない。その郷は、子供を戦場に送りながら永遠と存在し続ける。

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なんだか、とりとめのない妄想となってしまいました。妄想ですから、とりとめもないのですが。世界は、戦争と繁栄がともに存在していて、嘆き悲しみと狂気乱舞が同居する "ハチャメチャ家族" のようです。なんだか、たのしくない。一人で部屋にこもっている方が、安心する。そんな、年の暮れの一時でした。

#日経COMEMO #NIKKEI

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