HongkongとThe Strawberry Statement
日本では、「『イチゴ白書』をもう一度」で記憶に残っている世代の人々がたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。
学生運動。日本では「安保闘争」から「東大安田講堂攻防」や、過激派によるテロを経験し、その後、厭世的な雰囲気に身を置き、個人に目を向け始めます。やがて、ディスコブームをけん引し、ジェットコースターのような景気の波を乗り越え、世界でも類を見ないバブルに走り込みます。
ただ、その先は、崖だった。落下した後、平成という長く暗いトンネルを手探りで歩くことに。ただ、不思議なことに ”学生運動” として「明かりを求める大同団結」は、然程に見られませんでした。どちらかといえば、組織に阿る不思議なフォームに身を包み、希望がかなわなくても、しずかにトキを待つ姿勢が大半だったように思います。
日本のこの経験から香港を見ると、今、集団の力からリーダーなき闘争へと変貌を遂げているのでしょう。そして、一部の過激な行動と、静かな抵抗とに分かれることに。ただ、この運動は、”中国 本土” の人々の共感を産まなかった。それまでの「中国 本土人に対する ”香港人” の傲慢さ」があったから。だから、分が悪い。分の悪い闘争は、一部の過激な行動だけがクローズアップされ、ただの暴力として映っていきます。
静かな闘争は、やがて、消えていき、全体の中に取り込まれていきます。ですが、経済成長を遂げた ”中国 本土人” との融合がうまくいかない。”香港人” としての誇りがあるからでしょう。その誇りを保つためにも、今の闘争をやめるわけにはいかないです。
香港人がアメリカ合衆国の国旗を振りかざし、訪中したドイツ首脳に手紙を送っても、世界はただ静観するのみ。政治的感がそうさせるのでしょう。その感の根源は、”中国 本土人の本心” を推測した結果にあると思っています。
学生は本質を問わない。現状改善や逆に現状維持などの「目の前の課題に強烈にアピール」してきます。しかし、大人はもっと引いて世の中を見ます。そのギャップが、あの The Strawberry Statement に現れているのかもしれません。ですが、世の中を変えるのは、若者の力です。目の前の課題と愚直に対峙することが世の中を変えるのだと、「いつか来た道」と感じる大人たちは、判っているのです。
「甘酸っぱい」。けれど、酸っぱさだけが記憶に残る大人たち。いつまでも歯に挟まっているイチゴの種は、やがて発芽するのでしょうか。口の中から、「我らに力を!」と宣うように。