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たとえ「そっちのほうがまとも」と思えなくても、ましなほうを選択せよ

今回はこの記事の、私なりの補論をやっていこうと思います。

この小山氏の記事の特色は、何と言っても「日本型フェミニズム」の「欧米型フェミニズム」に対する問題点を指摘してはいるものの、「欧米型フェミニズム」の理路を肯定してはいないということです。この点は後述する「反フェミニズムの辿ってきた経緯」もあり、様々な人から評価を得ています。

しかし、今やもう、我々にも選択の時が来ています。どちらを目指す「フェミニズム」の側につくのかを。ですから読者の皆さんにも、たとえ「そっちのほうがまともと思えない」としても、ましなほうを選択してほしいと思います。

そもそもなぜ私は「ふたつの潮流モデル」を提唱したか

では、なぜこのことについてアンチフェミニズムの立場から論じなければならないのか。それはこれまでのフェミニズム批判というのは殆どと言っていいほど「女の地位向上によって家族観が破壊され、若者の非婚化と少子化が進み、将来的に社会を滅ぼす」という観点から語られていたからです。この論点で批判されていたのは紛れもなく「エリート」のほうだけでした。
しかし日本のフェミニズムには、全く違うことが目標になっている勢力がいるわけです。フェミニズムの第4波への移行、もしくは「自分の欲望ないし自分の獣性に忠実なフェミニズム」への移行は、この勢力への主導権の移譲をも意味していると私は思います。しかしながら、「エリートフェミ」ばかり叩いてきたこれまでの反フェミニズムでは、これは対策のしようがない展開です。

伝統・共同体主義的批判、「女の権利制限」に賛同する立場のフェミニズム批判は、「非婚少子化」を最も問題視し、その最大の原因を「欧米的な」女性の地位向上と社会進出に求めてきました。こうした経緯から今でも狂人noteの読者には「欧米的フェミニズム」に反感を持つ人が多いのは理解できます。

ただ、考えてみてください。

「確かに女の社会進出は非婚少子化を進めてきた最大の要因だ。しかしそもそも『伝統的家族観』が完全に女にとって望ましい都合がいい形で運用されていれば、社会進出などする必要はなかったのではないか?」

そのようにフェミニズム側論客に言われてしまえば、伝統・共同体主義的批判の理屈は完全に崩壊してしまいます。そしてそのような理屈から反フェミニズムを批判するフェミニズム側論客は、「主流」にはなっていないものの、全くいないわけではありませんし、近年俄に発言力を強めているのも確かです。

だからこそ、フェミニズム批判にも「多様な方向からの批判」が必要だったのです。しかし伝統・共同体主義からの批判者はそれらの批判を「フェミニズム女の地位の平等を目指す思想と同じゴールを目指している」などとして取り合ってきませんでした。ですから、まず「伝統・共同体主義的批判」が陥る可能性のあるトラップについて示しておく必要がありました。そうして提唱したのが「ふたつの潮流モデル」だったのです。

今や「伝統的家族観」のうち「有益な部分」を残すフェミニズムの在り方は、アブラハムの宗教の復興とともにその勢力を強めています。日本でも政府与党が「異次元の少子化対策」を掲げた途端、一気に顕在化してきています。伝統・共同体主義からの批判者には、このシリアスさを感じられるでしょうか。そしてなお、「伝統的家族観」の“解体”を憂い続けるつもりなのでしょうか。

家族観は護持されたぞ、童はタラフク食つてるぞ、汝ミソオス飢えて死ね…

それならば、こういうことになりかねませんよ。

「責任を取ろうとしない」のは日本人女性に特有の性質

日本と西洋諸国の相違点は、日本では「女に責任はない/責任は政府・自民党にある」だが、西洋諸国では女に結果責任(あるいは原因)があることをこの👇ように堂々と認めて(開き直って)いることである。《いつまでも現実に向き合わず責任転嫁》しているのは日本の政治家ではなく政治家を批判したりブーイングする人々である。日本の女には「責任」から逃げたがる/負いたがらない著しい傾向があるわけだが、それなら「結果責任を負う」ことが求められるリーダーやマネージャーに女が少なくなるのは必然と言える。世界経済フォーラムのジェンダーギャップ指数(Global Gender Gap Index)のランキングが低いのも政治・経済分野のヒエラルヒーの上層に女が少ないことが主因だが、その原因を自分たちの消極性ではなく「男による差別」だと他責することそのものがジェンダーギャップを大きくしている。日本の男が女の他責・甘えに迎合していることも、ジェンダーギャップが縮まらない理由である。

Prof.Nemuro氏がこのような記事を出したことには、本当に感心せざるを得ません。特に注目すべきは「他責思考」の問題を、生物的な特性ではなく日本人女性に特有の性質だ(=社会的要因によるところが大きい)と喝破していることです。

しかし、その裏にはフェミニズムの主張が前述のように「伝統・共同体主義的批判」と同じ方向を向いてしまったことがあるのではないでしょうか。そうだとすれば、とても情けないことだと思います。そして、このことを分かっているうえで女性の権利制限の必要性を訴えるのは、それこそ彼女らの思う壺でしょう。

私は「女の権利制限なんて実現不可能に決まっている」とは思っていません。むしろ「過半数の女性の支持ないし合意を得られれば、権利制限も実現可能である」と考えています。そもそも人工妊娠中絶の権利だって、すべての女性に支持されていたものではありませんでした。しかしその裏には、伝統主義が提示した「対案」の存在があったのです。同じような事例は、これからもどんどん出てくるでしょう。

当然、参政権の剥奪だって十分にあり得ると考えます。ただし、女性に全く刑事責任を負わせることができなくなる(その罰は最も親等の近い男性が代理で受ける)ような制度とセットでね。実際サウジアラビアでは、女性に運転免許を認めさせる運動に関して当初は、その活動家の父親が娘にまともな教育をしてこなかったとして裁判にかけられたそうです。

どうせフェミニズムは「ただしい」ものであり続けるのだから

更に言えば、そもそも「フェミニズムのただしさ」と「政治的ただしさ(ポリコレ)」を同一視するのは間違った考え方です。「政治的にただしくない」とされた側も、その支持を集めるために「女性の権利」に大いに訴えてきたところがありますし、現在でも国内外の「政治的にただしくない」いくつかの議論で利用されていると聞きます。

「フェミニズムのただしさ」を最も保証しているのは、「共同体の子産み要員であること」そのものです。どんなにその内容が理不尽で、独善的で、ダブルスタンダードに満ちているとしても、この事実を覆せなければ、すなわち「女の妊娠を介さずに次世代再生産ができる」ようにならなければ、様々な立場の内部対立があるとはいえ、根本的にフェミニズムは「ただしい」ものであり続けます。

まだまだ「フェミニスト」を自認しながらも、自由主義の側につき、最近のフェミニズムの変容を憂いる人は多いです。そういう人達と歩調を合わせることも、必要になっているのではないでしょうか。

たとえフェミニズムに骨抜きにされても「伝統的家族観」を保守するのか。自由主義を延命して、女の妊娠を介さずに次世代再生産できる新しい技術の確立に賭けるのか。

選択の時は、ちょうど今です。