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バブル 【だいたい2000字小説】

まだ幼かった頃、“食べられるシャボン玉”が流行った。
一般的なシャボン玉は飛ばした傍からはじけて消えてしまうし、食べられるなんて夢のまた夢だと思っていたから、子どもながらに興奮したのを憶えている。

隣町の大型商業施設で見たという友人の話を頼りに、その週末、母にせがんで出かけた。

それは、お菓子コーナーの一角にあった。

飴玉とラムネ菓子に挟まれて、赤・黄・青や緑色のボトルが並ぶ。それぞれイチゴ・バナナ・ブルーベリー・グリーンアップルといったフルーツ風味で、アルファベットの商品名の下に、果物のイラストが描かれていた。

私が初めて買ってもらったのは、ブラックチェリー味だった。
一見すると黒色に見えるボトル、静脈を流れる酸素が失われた暗い血液のような液体。
こうして書き記すと少し不気味な代物だけれど、経験則上、外国製のお菓子の中でチェリー味が一番自分の舌に合うと私は知っていた。

帰宅するとすぐさま、妹と並んで居間の座卓についた。
慣れない外国製のパッケージに手間取りながら、なんとか開封し、黒っぽいスティックをゆっくり引き上げる。
小さな円にオーロラ色の膜が張っているのを確認してから、天井の白い蛍光灯めがけて斜め上に吹いた。

自宅の中でシャボン玉なんて。
しかも、それを食べようとしているなんて。

いつもなら決して許されないことを、やろうとしている。
その高揚感で、心臓の音が、鼓膜のすぐ内側で響いていた。

変に力が入ったせいで、最初は不発。気を取り直して、さっきより優しく、でもきちんと空気が届くように、唇を窄めて芯をつくるつもりで吹いた。
膨らんだ球体は黒い小さな円を離れて、表面にオーロラ色をまといながら、ゆらりゆらりと時間をかけて落ちてくる。
妹が、小さな両手を揃えてそれを掬った。
着地したシャボン玉は変形して、ドーム状を保っている。シャボン玉のくせに。
一般的なシャボン玉より、幾分か割れにくい構造らしかった。

「コレ、ほんとに食べられるのかな?」
妹がゴクリと生唾を飲み込む音が聞こえた。
無理もない。
シャボン玉で遊んでいると、液を飲み込まないようにと、祖母に母に口うるさく注意される妹だ。

私は、妹の手に乗るドームが薄くなっていくのを認めて、慌ててもう一度シャボン玉を吹いた。
先のドームに新たな球体が重なろうとすると、ひとつ目のドームがはじけて消えた。

「あ……」

私と妹は、思わず見合った。
これは、時間との勝負だ。
いくら割れにくいとはいえ、生まれたてで宙を泳いでいる間に、こちらが口を開けて拾いにいくものに違いない。

そう学習してからは早かった。
私は、小さい円をつけたスティックとボトルを往復させて、次から次へとシャボン玉を作った。
妹は出来上がる傍からそれらに飛びついて、ついには座卓に立ち上がって、シャボン玉を求めた。
上手く誘導できたシャボン玉はすぐにはじけて、甘味が口いっぱいに広がったかと思う頃には、チェリーの香料が喉に鼻腔に絡んでくる。
美味しいか、と問われても即答できないけれど、間違いなく楽しかった。

「コラっ!! テーブルに上がったら危ないでしょ! しかも、こんなに汚して。もう、外で遊んできなさい」

母に言われて初めて、手元や足元の不快感に気づいた。
妹と私の口に納まらなかったシャボン玉は、たくさんのシロップの円となり、座卓や居間の床をベトベトにしていた。
シャボン玉を作るのに夢中だった私は、座卓周辺がどうなっているのか気にかけていなかったし、球体を追いかけるのに必死だった妹は、天井と座卓の間というごく限られた空間しか見えていなかった。
私と妹にとっておやつのモグモグタイムだと思っていたその時間が、母から見ると“遊び”だったことにも衝撃を受けた。
私と妹は、肩をすくめてサンダルを履き、アパートの廊下へ出た……。



雨上がりの匂いを肺いっぱいに吸い込んで、まだ灰色をした空を見上げていると、どこからかシャボン玉が揺られてきた。
赤・黄・青や緑色がその表面に一際強く浮かんだあと、はじけて消えた。
飛沫になったシャボン玉は、アスファルトに黒い斑点を落とした。

“初めての食べられるシャボン玉”から随分経った令和のいま、巷では“さわれるシャボン玉”や“光るシャボン玉”、“巨大シャボン玉”なんてものまで見かけるようになった。

それでも。
シャボン玉は、所詮シャボン玉だ。

遅かれ早かれ、はじけて消える。
消えた後には何も残らないかのように見えて、その跡はきっちり残る。

あの日のシロップの円のように。
乾きかけたアスファルトに散った飛沫のように。
“何か”を残して去っていく。

シロップは拭き取ればいいし、アスファルトに落ちた雫は蒸発するのを待てばいい。
でも、拭き取ることができない場所や、時間が解決するのを待てない場合もおそらくあるはずで……。


はじけたシャボン玉の後に残る跡は、
はじけてみなければわからない。

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