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「私、人見知りなの」って予防しなくてもいい気がしてきたよ。

初対面の人と会う前のやり取りで、つい「私、人見知りなんです」と言ってしまう。
でも最近、言うたびに気持ちがモヤっとする。「本当に私は人見知りなの?」と考えるようになった。



小学校の頃に仲良かった人を思い出すと、ほとんどが途中から転校してきた子だった。
4年生の時ポンポネットを着ていたアキちゃん。5年生で同じマンションに越してきたアヤネちゃんと北海道からきたエリちゃん。6年生の時は絵が上手いカナちゃん。
何人かは中学に上がる前に転校したけど、しばらくは手紙交換もしていたし、今でも連絡をとってる子もいる。
人見知りという言葉もよくわからなかった当時の私は、あの時なんて声をかけて仲良くなったんだろう。


大人になると趣味を通じて人と知り合い、「じゃあ次の舞台・コンサート一緒に行きましょう」「ついでにお茶しましょう」という機会が増えた。
会う前のドキドキはありつつも、文章ではなく直接話せることにわくわくもしていた。
なにより、いざ対面できると素直にうれしくなる。
学生の頃とは違い、社会に出ると出会いが途端に少なくなることを身をもって知ったからこそ、新しく人との繋がりをもてることがうれしかった。


こうして振り返ってみると、私は人見知りなのか?とやっぱり疑問に思う。
大体いつ頃から「自分、人見知りなんで・・・」と使い始めていたんだろう。うーーーん。

もしかしたら、専門辺りからかもしれない。

専門時代は普通コンプレックスに悩んでいて、個性も面白みもない私はつまらない人間なんだと自虐的だった。私と話しても面白くないよね、気遣わせちゃってるよねと被害妄想ばかりしてた。あの頃の私は、自分で自分を傷付けるプロだった。 

がっかりされるのがこわかった。プライドとハードルを変に高くしてしまっていた。

そんなこじらせ人間の私にとって、「人見知り」って言葉は使い勝手がいい。
そう言っておけば、つまらなくても「しょうがない、私は人見知りだから」と心をガードできるし、最初に使うことで「挙動不審でも私は人見知りだから」と予防線も張れる。

私にとって、"人見知り"は鎧だった。



どうして今更、私はこの鎧について疑問に思ったんだろう。
それはきっと、鎧の重さを感じるようになったからだ。

年齢を重ねて実感したことのひとつが「人は人のことより自分のことで頭がいっぱいだ」ということ。私自身がまさしくその通りだ。
このことに気付き始めてから、私が身につけてる"人見知り"という鎧が途端に重く感じた。

たとえ相手が私のことをつまらないと思っても、その瞬間にそう思うだけ。
私のつまらなさで相手を傷つけたなら話は変わるけど、特になにもされていないなら向こうはそれ以上引きずることは恐らくない。
次の瞬間には冷蔵庫の中身を思い出しているか、昨日出た推しのテレビを脳内再生して悶えているか。そのくらいのもんだ。

つまり私がこじらせまくっているヘドロみたいなコンプレックスは、相手にとって水道をひねれば出てくる水を見るくらいのものだった。

昔の私なら「そんなもんだ」と言われても「そんなもんじゃない!」ってキーキーしてたけど、「確かにそんなもんよね」と思えるようになった。 年を重ねて昔よりは自分のことを客観視できるようになったのか。それかキーキーするのが面倒になったのか。諦めが早くなったのか。


って考えると、じゃあなんでガードしていたんだっけ。そもそも、なにから守っていたんだっけ。そうだ自分だ。私がわたしを傷付けていたんだった。
でももう、そろそろやめよう。
自分で自分を傷付けて、わざと存在価値を落として、「私はこんな人間だから」と自虐するのも疲れてきた。
そりゃあ、相変わらずテンパり癖はあるしつまらないかもだけど、私は人と話すことが嫌いじゃない。逆にすきなんだよ、昔から。

この鎧は重いし、暑いし、うまく動けない。

だから人見知りって重い鎧を着るんじゃなくて、自分の心がわくわくするような好きな服を着て近づきたい。

もう、鎧を着て構えなくても大丈夫。
人は思ってるよりも自分のことでいっぱいだから。私だってこうして自分のことでぐるぐる悩んでるんだし。
でも鎧を着てたあの頃があったからこそ、今、何か受けてもある程度立っていられる筋力が身に付いたと思う。だからそうやってガードしてたことは無駄ではないよ、昔の私。

だんだんとあったかくなってきた。
すきな服を着て、行ってきますと外に出る。

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