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なぜRCAなのか?

Royal College of Art (RCA) はロンドンにある世界No.1と名高い美術系大学院大学の最高峰だ。

なぜRCAに行きたいのか?

まず入るのが滅茶苦茶大変だし、入ってからも学費(500万円くらい)と生活費(ロンドンだから日本より高い)でお金がかかる。そして修士課程なので2年間かけて通う必要がある。

仮に無事入学&卒業したとしても、費用・時間対効果で見てペイできるかどうかわからない。

それでも挑戦したい理由は、「世界一の環境でアートを学びたいから」に他ならない。


”Art“ への憧れ

自分はアートに憧れがある。

小学生の頃は絵を描くのが好きだった。
たまたま学校では上手い方で、毎年必ず区の賞をとっていた。
全国のコンクールで優秀賞を取ったこともあった。

しかし中学受験を機に、幼稚園から通っていた美術教室を辞めてしまった。
幸か不幸か受験勉強も肌に合っていたようで、小4で入塾した時は一番下のクラスだったのが、1年も経たないうちに一番上のクラスになってしまった。

小6では塾の定期テストで1位を取るようになっていた(200人くらいの小規模な塾だったが)。

第一志望は開成、ワンチャン筑駒みたいな感じだった。模試ではA判定(正確には、小学生向けの模試では「にっこり」マークがA判定で、他は「真顔」と「しょんぼり」の3段階だった)で、親も自分も合格を確信していた。

1月の受験では渋幕(千葉で“偏差値”が一番高い中学校)に無事合格し、ノリに乗っていた。

ところが開成受験本番の2月1日当日、同じ塾で受験するメンバーで朝イチに集まってから教室に向かうことになっていたのだが、1人が一向にやって来ない。同伴の塾講師も我々を先に行かせればいいものを、律儀に全員集合するまで寒空の下、20分以上待たされたのだった。

手は悴むし、時間を奪われるし。正直、このせいで本領発揮できなかった。

結果、不合格だった。

落ちるには落ちるなりの理由がある、実力不足だ、という意見もあるだろう。自分もそう思う。とはいえ、寒空の下で待たされるハプニングがあったせいで落ちたのもまた事実と思うのだ。

結局筑駒もダメで、中堅の進学校に通うことになった。

ちなみに、自分は塾で1位を取りまくっていたのだが、その時2位だった子は筑駒に合格していた。。。


大学受験、目指せ東大!

アートの話から逸れてしまっているが、もう少し辛抱してほしい。(しなくてもいいけど笑)

中学校では常に成績は上位だった。定期テストでは大体クラス1位を取っていた。

画力も健在(!)で、美術の成績が100点だったことがある。デッサンの課題だった。先輩に自慢したら驚かれたのが嬉しくて、未だに覚えている。

中学卒業時には成績優秀者向けの奨学金を貰えるくらい勉強が出来ていたが、高1でネトゲにどハマりし、成績は“上の下”くらいに衰退した。

今で言う“e-Sports”に夢中になり、東京の大会で優勝するまで上り詰めた。賞金も手に入れた。
当時は平日でも10時間くらいプレイしていた。
土日などは食事と風呂を一瞬で済ませて銃を撃ち続け、日の出とともに気絶し、昼に目覚めてすぐゲームにログインする…といった廃人ぷりだった。

優勝して良い気になった俺は、「もうゲームでやることはやったな〜」と思い、徐々に勉強する時間を増やしていった。
高1の頃から塾に通っていたが、高1の終わり〜高2の春が自分の中では一番成績が悪かった。
数学のテストは30点くらいしか取れず、センター同日受験も、範囲は学習し終えていたがやはり30点ほどしか取れなかった。

当時、塾のチューターに「英語と数学の成績はすぐには上がらないから、このままじゃヤバいよ」みたいなことを言われたのを覚えている。

でも「お前らと一緒にすんな!俺ならできる!」と思い、その塾を辞めた。別の塾には通っていたが、あまり真剣には取り組んでいなかった。

(自分の誕生日だったので塾をサボり、友達の家で“俺の”誕生パーティーを開かせたこともあった)

どちらかというと一人でコツコツ学校の復習や青チャートに取り組んでいた。

すると1年間でみるみる成績が伸び、高3になって最初のテスト、年に一度の校内模試で“学年1位”に上り詰めた!

毎年10人程度は東大に進学するような学校だったので、自ずと自分の志望校も東大になった。

(ちなみに、数学が30点だった頃、文理選択で「数学なんてやりたくないでおじゃるオロロロ」と言って文系を選択したが、国立はバリバリ数学受験なのだった…)


東大模試A判定! 受かる、受かるゾ〜!

夏の東大模試ではA判定だった。

東大合格が見えてきたことに慢心した俺は勉強の手を緩めてしまった。高3の夏が俺のピークだったように思う。

それまで毎日かなり勉強してきたし、「夏休みに600時間勉強しよう!」みたいなのもやり切った。しかし変に“夏をやり切った”せいで、燃え尽きてしまったように思う。

9〜11月は全然勉強していなかった。放課後1分も勉強しなかった日もいっぱいあるし、「東海オンエア」を見まくっていた。

そんな俺の夢は「東大生プロゲーマー」だった。今は受験勉強で出来ないけど、東大生になったらe-Sportsしまくるぞ〜!と思っていた。
(浅はかな考え〜家に帰って温かい唐揚げ〜)

高3の冬は流石に少し成績が下がった。でも担任も気にしてなかったし、自分も気にしていなかった。やに楽観的だった。

センター試験(今は共通テストか)は割と上手く行った。840点くらい取った。センター利用で早稲田の政経に合格した。浪人がなくなって完全に気が抜けた。ゲームすることが頭にちらつき始めた。

いきなり東大本番じゃ良くない&母校の実績稼ぎのために慶應の経済も受験した。こちらも合格した。

そして東大受験本番…これでやっと終わると思った。長かった受験勉強とオサラバだ。

肝心の受験本番で、東大に受かりたい気持ちより、受験が終わる喜びが勝ってしまった。高1の頃から「早く大学生になりたい〜」と思っていた(男子校だったから...)。

東大二次試験で地理を解いている時、「もう早稲田でいいや〜」と思ってしまった。
今でも鮮明に覚えている。

手応えで結果はわかるはずなのだが、感覚が麻痺していたのか、手応えの記憶が美化されたのか、自分は受かったと思い込んでいた。

卒業式は国立の合格発表前に行われたのだが、ノリノリで学ランのボタンを男同士で交換していた。
念願のハイスペックPCも購入した(東大に落ちていたらまだ国立二次試験も控えているのに、そんなこと全く考えていなかった)。
合格発表前日は同級生とフットサルをしてキャッキャしていた。

そして3/10、自室のベッドで寝ながら、スマホで合否を確認した。自分の番号が無かった時は心臓が止まるかと思った。現実を受け止められないとはこういうことを言うんだな。

同級生と繋がっているTwitterで「落ちた」とだけ投稿し、俺は中高のコミュニティから姿を消した…サラサラ...…

高3になって学年1位をとったとき、廊下に張り出された順位で1位の座に輝く自分の名前が脳裏に過ぎった。嬉しくて、保護者会で学校に母親が行った時に写真を撮らせておいた。みんなはどうだったんだろう…

結局、1位の俺は東大に落ち、2位〜5位の4人は東大に受かっていた。おめでとう!
(ちなみにその内の一人に、「運良く受かることはあっても、運悪く落ちることはない」と言われた。草。)

大学生になるまでの春休みは常に虚ろだった。2週間で体重が5kg落ちた。

何よりショックだったのは、母親に「夢を見させてくれてありがとう」と言われたことだった。

俺は夢を見るために東大を受けたんじゃ無い。
現実として掴むために受けたんだ。

同時に、中学受験の時の記憶もフラッシュバックした。俺が東大に落ちたことを知ったまさにその部屋で、父親がパソコンで合否を確認し残念そうな顔をしていた姿を。

全てが嫌になったが、時間の流れは平等に押し寄せてくる。早稲田に入って、あれよあれよという間にサークルや友人が出来て、

「こんなに楽しいなら早稲田に入ってよかったじゃないか」
「偏差値が全てなんかじゃ無いんだ。俺は進学校の教師たちのせいでそう思わされていたんだ」

と思った。思うようにした。5%くらいは虚だったが、それで良いと言い聞かせた。心の奥底から鳴る呻き声に耳を塞いだ…


三度目の正直、「お就活」。

中学受験、大学受験と二度の挫折を経験した。

俺は第一志望に受かったことがない。
別に偏差値が高くなくても、第一志望に合格できる人はたくさんいる。
でも俺はそんな体験をしたことがなかった。

高望みだったのか?
いや、そんなはずはない。なぜなら開成も東大も、模試ではA判定だったからだ。確かに、「テッペンをとりたい!」というハングリーさがある自覚はある。けれど、実現するための技量と努力は持ち合わせていたと思うのだ。

とにかく、就活こそは第一志望に受かりたい。夢を叶えたい。三度目の正直だ!

俺は大学2年の終わりから就活に向けて動き始めた。

いわゆる就活対策として、SPIやES、志望動機の作成に取り組んでいたが、3つの失敗を犯していた。

① ガラパゴス化
紆余曲折あり大学に友人が一人もいなかった俺は、就活情報を共有できる相手がいなかった。また、ノンゼミだったため、ゼミの先輩や就活対策とも無縁だった。学校の就活支援も利用しなかった。
こんな風に、当時の俺は就活情報から隔絶された“ガラパゴス化”が進んでいた。

② 安直
志望業界はコンサルと金融だった。
年収が高いのと、働くからにはガチで働いて成長したかったこと、何より就活アプリで人気の業界だったことが正直な理由だ。
需要があるほど競争も激しい。繋がりを持たず、それを補う武器も無い俺には厳しい戦いだった。

③ 慢心
早稲田に入ってから、サークルの新歓で学部が政経であることを伝えると、「天下の政経じゃん!」と羨望の眼差しとともに迎えられることがしばしばだった。東大落ちが政経にゴロゴロいるように、他学部には政経落ちがゴロゴロいるのだ。
そんなこんなで「天下の政経」を自負していた俺は、「流石にどこかしらは受かるだろ」と高を括っていた。
(政経の中でも成績は良い方だった。意外と高校からの内部進学者が多く、彼らに比べて東大“A判定”の俺は勉強が出来た。単位もA+(一番上の成績)を多く取っていたし、ある経済学の講義の課題では正解者が受講者200人中たった3人のうちの1人だった。)


VS外資戦コン、勝負の行方は…

大学2年の終わりと、早い段階から動き出した割には就活状況はイマイチだった。サマーインターンはどこもダメで、唯一P&Gの1Dayインターンだけ行けた。結局その後の面接はダメだったが…

肝心の戦略コンサルについて。有名どころは片っ端から応募した。採用までの道のりだが、大抵の場合、チャンスは大学3年の夏・冬・春で、それぞれインターンの選考から始まる。インターン(大体3日間)に呼ばれて、さらにその中から活躍した人にお声がかかり、内定、という流れだ。
当然、インターンの選考にもステップがあり、
エントリーシート(ES)→適性検査・筆記テスト→ケース面接(2〜4回)→インターン
みたいな感じだ。
※ケース面接とは、コンサル業界に特有の面接で、志望動機を聞かれるというよりは、「日本における自動車の売り上げは?それを上げるには?」みたいなお題を出されて、一緒に考える過程で論理的思考力やコミュニケーション能力を評価される、といった面接のことだ。

夏はケース面接1回目、冬はケース面接2回目で落とされる…みたいな、前進はしているが結局の成果はゼロという状況だった。

早いところは冬で募集を締め切ってしまうし、どうしよう…と思っていた折に、チャンスが訪れた。

ある外資系戦略コンサルの会社から、春の募集の連絡が来た。しかもどうやら、インターンは行わず、そのまま本選考になるらしい。

ただ当時、2020年の3月、コロナというものが発生した時期だった。まだ街中では誰もマスクなんかしていなかったが、企業の面接はオンラインで行われることになった。

俺はオンラインで面接に臨んだ。多くは語らないが、今までの敗因として、練習を意識し過ぎたと感じていた。

面接本番で出される問題と、練習で解いた“似たような問題”は微妙に違う。答えているつもりで、問題の意図と違う解答になってしまっていたように感じる。
また、「解法を思い出すとき」と「その場で解き方を考えるとき」とでは、明らかに使用する脳の部位が違う。面接官を前にして思い出すことに必死になって、思考が固まってユニークさが失われ、本領を発揮できなかった。
そこで俺は、今回は一切準備をせずに面接に臨むことにした。なんなら旅行先で面接をした。本当に急遽の募集だったため、旅行の予定を入れていたのだった。もしコロナでオンラインになっていなかったら受けられていなかった笑

結果は順調だった。まだ進んだことのなかった3回目の面接も、「ナイジェリアにおけるアルミ缶の生産高は?」とか聞かれたが、上手く答えることができ、その場で「合格です」と言ってもらえた。

そして緊張の4回目…これが通ればいよいよ内定前の最終面接だ…とドギマギしながら面接官がSkypeに入ってくるのを待つも、待てど暮らせど面接官が入って来ない。

面接時間は30分だ。もう10分が経過した。流石に先方に連絡すると、「なぜかビデオ通話をかけられない」とのこと。結局、急遽俺の携帯宛に電話で面接を行うことになった。時間枠もそのままで延長はないとのこと。15分が過ぎた頃にようやく電話がかかってきた。

向こうも焦っている。焦っているのはこっちだ。結局向こうも変に気を遣って、お互い議論がスムーズに出来ず、泣かず飛ばずの結果になってしまった。悔しさに涙声で面接のお礼を言うと、「うちはダメでもまだ他に道はある」みたいな励ましの言葉が帰ってきた。

お前が遅刻しなきゃな〜〜〜!!!

これがコンサル最後の面接だった


コロナショック!

気持ちを切り替え、日系金融も応募するようになった。幸い投資銀行(IBD)のインターンに合格し、実績を作ることが出来たからだ。

相変わらず面接はオンラインだったが、“準備しない作戦”が自分に合っていたのか、運が良かったのか、面接通過が続いた。

しかしそんな折、「コロナ不況で内定取消し!」みたいな情報が耳に入るようになった。まさかな〜と思っていたが…次は人事面談が決まっていたはずの2社から面接の連絡が来ず、サイレントお祈りとなってしまった。前回の面接では「この問題を解けたのは私が知る限り君が2人目です。すごいね」と高評価だったのに…。

完全に人間不信になってしまった。どうせ落とすなら面接で褒めないで欲しい。コロナという異常事態が無ければ問題なく次へ進めたのだろうが...(進めたよね?)

ここで記憶がフラッシュバックする。
A判定なのに落ちた東大受験。ニコニコマークだったのに落ちた中学受験。寒い中待たされなければ受かってたかもしれないのに。「面接官が15分も遅刻してきて電話面接」なんてことにならなかったら受かってたのかもしれないのに。
特に最後の戦コンに落ちたことは響いた。当然能力によるが、入社1年目から年収1,000万円が見えてくる世界だ。あと一歩のところまで来ていたのに…ハプニングが無ければ受かっていたのかもしれないのに!

自分はなんて不運なんだろう。自分の実力不足でダメだったのなら諦めがつく。でも、大事な本番に限ってなんてことが起きるんだろう。
それでも、同じ状況でも受かる人もいるだろうし、自分が圧倒的な実力をつければいい話。そんなことはわかっている。自責思考で成長しましょう、ってね。
でもね、そんなのは心に余裕があるときにできること。特に俺みたいな場合は、相手にも十分責任があると思うの。


闇堕ち

結局、ショックを引き摺って就活に身が入らなくなってしまった。コンサルも金融も諦め、(失礼な言い方だが)誰でも入れそうなところも受けたが、志望動機がしっかりしていない(志望していないのだから当然だ)ため、受かることはなかった。

大学4年の10月1日、俺は親父と2人でいきなりステーキを食べた。世の中では入社式が行われる日だった。ステーキを食べているとき、店内のTVニュースで大手企業の入社式の様子が流れた。
「今日は入社式か...」と呟く親父。内定ゼロの息子と食べるステーキの味はどうですか?

初めのうちは申し訳なかった。中学受験も、大学受験も、塾に通い、中高は私学で高い学費を払ってくれた(感謝しろ的なことを何度も言われた。確かにその通りだ)。高3の時は3つの塾に通い、多い時は週6で授業を受けていた(受け過ぎだろ!)。
しかしだんだん腹が立ってきた。何勝手に塾通わせとんねん!頼んだ覚えはないわ!なんでこんなに苦しい思いをしなきゃいけないんだ…勉強なんてやりたくてやってきたわけじゃない…たまたま得意で、成績良いとみんなにホメられて、たまにお小遣いを貰えて…だからやってきただけなんだ…俺が本当にやりたかったことは…


絵を描いて生きていく

自分が本当にやりたかったこと、それは「絵」だ。

幼稚園〜小学校と7年間習っていた。いつもすごく楽しかった。同級生の中で自分は絵が上手かった。もっと練習したいと思っていた。

でも中学受験で断念した。受験勉強をした方が親が喜ぶと思ったからだ。子どもにとって親は世界の全てなのだから。

小学生の頃、親父に将来の夢を聞かれた。絵を描くのが好きだった俺は「画家なんてどうかな」と言ったら、親父は「そんなん食っていけねぇよ笑」と一笑に付した。俺は「そうだよね〜」と笑ってごまかすしかなかった。親父は医者か弁護士がいいぞといった。小6の卒業式で壇上で一人ひとり将来の夢を言う時、俺はハッキリと「僕の夢は医者になることです」と叫んだ。本当はゲームセンターの社長になりたかった。ゲームし放題だと思ったから(いや画家じゃないんかい)。

満身創痍の俺は絵を描くことに活路を見出した。子どもの頃はあれだけ上手かったんだ。ブランクがあるとしても、俺なら埋められる。

今度こそ俺はやりたいことをやるんだ。好きなことで生きていくんだ...!

こうして俺は大海原を小舟で漕ぎ出した。それが泥舟だとも知らずに…

本当の地獄はここからだった。

続く♡

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