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『自己紹介-Biography』

こんにちは、森山和令と申します。
1979年に大阪で生まれました。
2児の父親でもあります。

現在はフルリモートでUX関連のデザイナーをやっています。
趣味は書道、散歩、お寺、滝巡り、町中華探し、音楽、ディズニーツムツム、
好きな食べ物はラーメン、お寿司などです。
好きなお酒はレモンチューハイ、
好きなタバコはコンビニ限定Lucky Strike14です。

好きな言葉は日々是好日、God is in the detail.。
思考は禅に影響を受けているところがあります。

齢も40代になり、60歳まで後20年を切ったので、
それまでの期間どのように生きていくか?
それが命題です。

それではバイオグラフィー的に自己紹介をします。

幼少期(幼稚園~高校)

とにもかくにもよく泣く子どもでした。
いつも友だちにいじめられ、母親に泣きついては困らせていた記憶があります。「この子は将来やっていけるのかしら?」そんなことも思っていたようです。

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小学1年生の2学期に、阿倍野区に引っ越し転校しましたが、胸を張れる特技もなく、お勉強も中の下くらいのなんの変哲もない小学生で、母親も困っていたみたいです。

その頃は阪神タイガースが全盛期でバース、掛布、岡田のクリーンナップトリオがとても好きで、よく甲子園まで野球を見に連れていってもらっていました。グッズも結構家にありました。(ハッピ、メガホン、ヘルメット、タペストリーまで。。)

タカラのプロ野球カード(プロカー)でよく遊んでいました。サイコロ2個振って野球をするというゲームですが、レアもののカードなどもあったり当時はとてもハマりました。

好きが高じたところもあったり、母親が「何かさせないと」と思い、小学校3年生の頃に少年野球を始めることになりました。

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これまでなんの取柄もなかった少年が野球チームに入っただけでそうそう劇的に変わるわけもなく、バッティングも全然…だったのですが、人より足が速いことに気が付きました。

そこから小4~小6までリレー選手に選ばれたりして、自信をつけることになりました。同時に1つ自信がつくと相乗効果的に小学校ライフも変わっていき、成績も上がっていきました。

人間何か1つでも自信を持つことで恐らく脳の快楽物質が分泌されて、成功体験の記憶がインプットされると、チャレンジすることにポジティブな反応が出やすくなるのかなと思います。なので何か1つでも自信を持てることがあるだけで人生変わるものだと感じています。

そこから中学校では陸上部に入りましたが、幽霊部員として大半を過ごしましたが、中学校3年生の時に何故かやる気になり、部活に出るようになると大会に出るチャンスなども与えられ、以降半年間は陸上をまじめにやっていました。

高校(志望していた公立高校に入学!ある意味親孝行!!)に入ると、どうも目ぼしい選手?は高校でもチェックをしていたらしく陸上部からお誘いが来ました。誘いに乗り2年生くらいまでは陸上に没頭し、大会の選手として出場したり、大阪インターハイの予選に出たりしていました。

しかし、勉強も虫のようにやっていたため、中間テストや期末テストの期間中は部活をサボっていたのが当時の顧問は気に入らなかったらしく、とうとう2年生の秋くらいにケンカをして陸上部はやめてしまいました。。。

そしてそこから音楽に少しづつ目覚めていくのです。

今につながる原体験ってたぶんこれ

他のエントリーやプロフィールでも書きましたが、一般的に言うクリエイティブ業界に17年ほどおります。その中でも手法は色々ですが『誰かに何かを伝える』ことは根底でずっとやり続けてきたと思っています。

実は、幼少期から家では、父親が酒を飲んでDVしたり等、暗い出来事が日常的に起こっていました。(これまで読んでくださった方はお気づきかもしれませんが父親がくだりが一切出てきません。)子どもの頃から起こっていた出来事が心理的な抑圧につながり、言葉の不自由さになおさら拍車をかけてしまっていたところもあったかと思います。(俗にいう継続的な心理的不安全状態+トラウマを抱えた状態)

そのため、言葉を使って人に想いなどを伝えるのが劇的に下手でした。また、同時に母親を守るため父親を怒らせないよう空気を察知したり、読んだり、明るく振舞うようにしたりそういったところも現在の仕事につながる一つの要素であったように思います。

存在価値確認としての手段、そして大学時代

そういった原体験から、『言葉で伝えられないなら、歌詞や詩で伝えよう』となりました。また、その頃、黒夢を知り衝撃を受けたのも相まって、『自己表現は激しい音楽と自分自身だ!!!』とスパークした記憶があり、ビジュアル系に目覚める事になったのですね。今思うと、とにかく安心と優しさが欲しかったのだと思います。

そうして大学時代は大学に行き、バイトをしながらバンドをやると言う生活が続きました。ちなみに大学在学中に家庭の事情で夜逃げも経験しました。。。

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バイトしながらローンを組んで楽器や機材を買ったり、何かを表現したくて堪らなかった時期を過ごしました。脱Vしてミクスチャー系に移ったりはありましたが、根底にある想いは変わりませんでした。今手元にある音源の数は少ないですがV系、ミクスチャーをやっていた頃の音源を貼ってみます。

バイトも色々やりましたね。居酒屋、コンビニ、ゲームセンター、パチンコ屋など…比較的長髪でも出来るとこを選んでいた気がします。

インターネットとの出会い

ゲームセンターでバイトしていた頃、職場でインターネットブームが起こりました。それまでパソコンにはそこまで興味はなかったのですが、色々聞いているうちに段々パソコンが欲しくなり、当時ハードディスク3ギガ、CPUはCeleronの366メガ、メモリは…忘れましたがタワー型のパソコンを買いました。そのスペックで17万位しましたね。今であればスマホの方がスペックが全然いいですよね…。

本格的にハマったのは大学も4回生になり、パチンコ屋で働いていた頃でした。その頃は電話回線で繋いでいたのでバイトから戻る夜12時頃にになるとビール片手にネットに接続して、朝5時まで延々とホームページの制作やICQ等で様々ハマリ、インターネットの可能性に取り憑かれてしまいました。

テレホーダイはその頃のネットユーザーには欠かせない神器とも呼べるサービスでしたね。

HTMLタグを勉強しながら毎夜掲示板を使ったり、仕事の原体験はここにあったのかなと思います。

Yahoo!をヤッホーと呼んでる人がいた頃ですね(笑)。

大学卒業後

実は大学在学中に2回ほどアメリカへ短期留学をしておりました。1回目がカリフォルニア州のサンディエゴ(路面電車でメキシコに入れる町)、2回目がイリノイ州のアーバナシャンペインという大学街でした。その2回の滞在でアメリカの魅力に取りつかれた私は、『アメリカに永住する!』という若いころだからこそ奮起できる目標を達成するために、卒業後にアメリカに行くことを決意。

そのため、実のところ新卒で就職活動をしたことがありません。周りのみんなが髪の毛を切りリクルートスーツに身を包み企業を回っていたころ、パチンコ屋でアルバイトをし、呼び込みをしたりホールを見たり、していました。

卒業後の留学先が決まりましたが、アメリカは9月からが新学期なのでそれまでの期間も仕事をしようと思い、大学卒業間近になった頃Mars16というTシャツブランドに期間限定で門をたたくことになりました。ここで初めてデザイン、に触れることになったのです。また当時の社長にはとてもお世話になり今でも親交があります。

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上記は、その頃の社内報ですね。卒業後も並行してバンドは続けていまして、渡米前にデザイナーとしてのデビュー作を着てライブをしたのがこの頃でした。

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そんなこんなでアメリカに移り、専門学校に通い始めましたが自分でバイトをして貯めたお金だと1年くらいしか持たず、残りの1年は母親が奮起して諸々都合をつけてくれました。。。ですが結局経済的な事情もあり、アメリカ永住の夢は叶わず日本に帰ってくる事となりました。

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服もスリフトストアで買ったりし、なるべく自炊をしたりして、決して贅沢をしていたわけではなかったのですがやはり異国で過ごす場合、色んな出費がかさんでしまったのは否めません。

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遊ぶこともそこまではせず、ひたすらDTMに没頭していた日々ですが、今でもこの頃の経験は生きているように思います。この頃にDTMの基礎も一通り調べて勉強しましたが、今は機材を触る事なくほとんど忘却の空へ消えていきました。。。

帰国後、ゼロからのスタート

文字通り無一文の状態で日本に戻ってきたのですが、もう一つ悲劇(?)が待っていました。実家の経済状態が芳しくなく両親は離婚、当時住んでいた住居も手離すことになり、文字通り『何にもない』状態となりました。

今名乗っている苗字はこの頃に切り替わった苗字です。帰国する数か月前の状態などを思い返すと自分が親にかなりの負担をかけていたことは容易に想像がつき、今も涙がこぼれます。

運よく親戚が住居を2つ持っていたので、そちらに母親、私、妹の3人で住ませてもらう事になり、何度目かの引っ越しを経験することになりました。

早速仕事を探すことにしたのですが…ちょうどその頃(2003年)は就職氷河期の真っただ中、簡単に仕事は見つかりません。新卒より2年遅れただけで経験者との秤にかけられる時代でした。(今ですと第二新卒枠がありますが当時はなかったように思います。)

益々お金はなく、半年ほど探しては面接を受け…みたいな期間を過ごしました。当時23歳の頃でした。厄年か!?と思うほど運が悪かった年でしたが、文字通り本厄でした。

今年の私は後厄にあたりますが、20代で厄を全て受けた?のかとてもありがたいことに無事過ごせています。

初めて就職~結婚、子どもを授かる

年が明けるとすぐに仕事の話が舞い込み、とんとん拍子に仕事が決まりました。それが1社目に仕事をさせて頂いた販促系の仕事でした。そこから17年間同じ業界で生きていく事になりました。

本当に厄だったのかと言いたくなるくらいのタイミングでしたが、今考えてみると自分の利己的な振る舞いや言動、思考習慣などが厄を引き寄せていたのではないかと思います。本当に今でも会ったら謝らないといけない方が沢山いらっしゃいます。

後は2社目…3社目…ここに関することは別記事にて紹介していますので、ご興味のある方はご覧頂ければ幸いです。

大学時代からずっと支えてくれた相方とは2社目でまだまだ若造だった28歳の頃結婚をしました。そこからマネージャーに上がる際に第1子、より大きめのチームマネージャーに就任した頃に第2子と恵まれることになりました。

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上の写真は確か36歳くらいの頃で第2子が生まれた頃だったのではないかと思います。35過ぎても髪の毛はロングのまま…まだまだ足りないことも多く、学ぶことが多く存在していました。

非現実的な体験

37になった頃、呪われるという経験をしたこともありました。何をしていても不快感が全く消えず、思考がおかしな方向に行ってしまう…。何もしていないのに涙が出る…本当に鬱になってしまったかと言う事もありました。これまでのカルマがひょんなきっかけから巻き付いて締め上げている…それはまるでポジティブなパワーが全て吸い取られるかのような感覚に陥りました。

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20代の頃からの友人でサイキックセラピストがいるのですが、その友人は霊的な観点から人のパワーやオーラを見て、おかしなところは治癒する仕事をしています。

目に見えないものをあまり信じなかった私もこの時ばかりはその友人に相談しました、厳密に言うとそのことがきっかけでその友人の仕事を知ることになった、の方が適切だったかもしれません。すると文字通り大きな蛇が締め上げていた状態だったようです。。。

治癒してもらうと、文字通り全身が軽くなる。という出来事でした。

ある意味自業自得なところもありましたが、この頃は働きすぎ(日が変わる前に家に帰れればよい方)+正常な判断力を喪失+カルマ、これらが一気にやってきていた頃でした。

人生をリセット

このままではダメになる、全て失ってしまう…生き方を変えなければ!と、本当に痛感し心機一転、新たなキャリアを歩むと共に1からやり直そうと決意。デジタルの可能性が更に広がっていた時期でもあるので、キャリアを広げたいという想いもあり、デジタルサイネージ・展示系の仕事に移ることにしました。

職人気質な人たちに囲まれ、イチからやり直したおかげで今があると素直に思えます。ある種大人な方々で、経験したことがない現場設置業務などもここで経験することができ、この経験は今の仕事に活きています。

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映像機材を載せて、朝一番で現場入りし、朝礼、KYなどを経て設置業務を行い、夕方17時には現場が終わり撤収する。現地で映像システムが稼働し始めた時の感動はこの仕事ならではで味わえる良さだなと思います。

その他VR、AR、各種スマートデバイスなどに触れながら、家庭にもポジティブな変化をもたらした仕事でもありました。

そしてずっと恨んでいた父親の事も40歳を機に、総ての事を許せるようになりました。父親も離れてから色々な苦労をしたようで、サシで飲みに行った際、色んな事を話すことが出来、二人で泣きながら肩組んで帰ったことは今も鮮明に覚えています。現在は幸せそうに生きがいを見つけて日々暮らせているようです。

そして今

かれこれ17年ほどこの仕事をやってきて、今は4社目でUX関連のデザイナーをやっています。本当に良い仲間に囲まれて日々自分の専門性を高めることに集中出来ています。

ベースには人間中心設計がありますが、もちろんそれだけではなく、UI、IAなどの領域も改めて再勉強しつつ、自分のケイパビリティを広げながら日々、人間とプロダクトのより良い関係を探求しています。

今の仕事に関連する記事については今後ここに書いていければいいなと思っています。

未来

振り返ってみると色々な事があったと思いますが、自分ではあまり色々あった感覚はないのですが、「後ろを向いて人を恨んで生きるより前を向いて大切な人たちと手を取り合い進んで行く」この方が人生はHappyになるかなと思います。

『受け身では何も始まらない、行動すれば成功でも失敗でも何かは変わる』

これからは更に、自ら機会を創り出し、機会によって自らを変える。事をやっていきます。変化のない人生は個人的につまらないですし、これからは嫌が応でも「時代が変わらないことを許さない」時代に突入していくと思いますし、既にやって来ています。

ですが、いくら時代が進歩しても変わらない事は人間同士のつながりであり、他者を理解し、思いやる心、ここだけは人間が人間たるゆえんだと思います。

2021年も後10日ほどで終わりますが、来年から新しい展開もしていきたいと思っていますので、ここまでの振り返りを年内にしておきたかったところもあり、自己紹介をして一つの区切りとしたいと思います。

なんの変哲もない人間の自己紹介をここまで読んでいただいた方、本当にありがとうございました!

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各種リンク

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