田辺で食べる
一月はなぜか本が読めるようになる。
今月は10冊読んだ。
Amazonプライムで映画やドラマも何本も観た。
1月はインプットできる月なのだ。去年もそうだった。
ただゴロゴロ本を読み、ダラダラアマプラを貪り、怠けているだけのような響きだが、
私、インプットもアウトプットもどっちも全然得意じゃないのよね。
小説を読むのとか特に、
一冊一冊登場人物は変わるし、
どういう人物が出てくるかも読んで察さないとついていけないし、
おぎゃあ!から始まる訳ではないのでどういうシーンからこの物語が始まっているのか毎回推測するのがシンプルにしんどい。
インプットする元気が日常的にはないからなかなか気が乗らない。
読書家は気付いていないだろうが、
本を読む用の体力、持久力というものが確実にこの世には存在している。
アクティブ体力とインドア体力は全くの別物だ。優劣はありません。
しかし、大学生の頃の私には読書の体力が無限にあった。
私には探し物があったから。
何を探しているのかもその当時はわかってなかったけど。
それを探さなければ、知らなければ、この先生きていけないという確信が、不安が、私には常にあった。
私は言葉を集めていたのだ。
私の味方をしてくれる言葉を。私に自分を教えてくれる言葉を。私に社会を説明してくれる言葉を。
今本が読めなくなっているというのは、次はこの目で世界を見て、私がお話する番ということなのかもしれない。
ほどほどに頑張ります。今年は。
1月27日
インプット月が終わろうとしていて、私はあることに気が付いた。
自分が気に入っている作品には共通したお気に入りのシーンがある。
人が誰かと飯を食っているシーンが好きなのだ。
関係性は何でもいい。
できれば大皿で箸をつついて食べていてくれれば最高なのだが、そうでなくてもいい。
凝った料理でなくて、こだわって調理するシーンなどなくてかまわない。
リラックスして、誰かと、食事を共にしているシーンが好きなのだ。
YouTubeでもモッパンなどがよく上がっているが、あれは視聴者を意識しているせいか、私にしてみりゃYouTuberの方がいささか喋りすぎだ。
食事中にするのは他愛もない話でいい。
今日こんなことがあったよ、とかこういう時どうしてる? とかその程度の身のなさで十分だ。
私は普段一人でご飯を食べているが、人とご飯を食べるのがとても好きだ。
「同じ釜の飯を食う」とはよく言ったもので、
何回か人とご飯を共にするうちになんだか勝手に仲間意識が生まれてくる。
大した話はしていない。だから関係性が発展しているとは考えにくいけど、
「お互いがんばってるよね」みたいな気持ちがもごもごと湧き上がってくる。
大きな相談をするわけでもなく、日頃の愚痴を言い合いストレス発散させるわけでも、そもそもネタがないので恋バナに花を咲かせるわけでもない。
大学時代の飲み会では、「何を話そう」としばしばあらかじめ話題を考えていったものだが、今ではそんなこと全くしない。
思い付いたことを口にし、思い付かないなら喋らない。
リラックスして、一緒に食べている瞬間が大事なのだ。
何かを話すために集まるのではなく、一緒に食べるために時間を共にしたいのだ。
これは、
自分なりの愛なのだな、と思う。
一緒に食べるものはあたたかいものがいい。
出来れば人の手で作られたことを感じられるものがいい。
私が求めているのは味というより、ぬくもりだ。
熱々の米と味噌汁を! をという意味ではなくて、一緒に食べている人と、作ってくれた人の温度感ありきの食事が好きなのだ。
私の住んでいる和歌山県の田辺市には、駅からすぐのところに味光路という飲食街がある。
今回訪れた「一品料理 まこ」はワンコインランチをやっていて、
大皿に盛られているおかずの中から好きな三種類選び、それに味噌汁とご飯がついて500円。
口コミを見ると、「家庭的な料理」、「実家のような居心地」、「美味しくてお得」と書かれており、お店をやっているご夫婦についても暖かいコメントが並んでいた。
そう! 私が求めているのはそういうことなの!
だから雨降る中長靴を履いて一人で歩いてきた。
今しがた「誰かと食べる」ことを語ったばかりだが、別にいいのよ、赴く人数など何人でも。
お店には誰かがいて、その人たちと、食べるの。
私は鹿肉を炊いたやつと、ぜんまいとこんにゃくを煮たやつと、酢豚を選んだ。
私ってこういう時、絶対全部茶色いものを選びたくなる。
茶色い食べ物って間違いないやん。
「粕汁もあるよ。味噌汁か、どっちがいい?」とお母さんから声をかけられ、粕汁を選ぶ。
まぁその時カスジルが何かわかってなかったけど。
「今日は寒いからなぁ」と言いながらお母さんが粕汁をついでくれる。
鮭と根菜が入っててちょっと甘くておいしかった。
どれもこれも、本当に美味しかった。
常連っぽいおじいが二人と、出張中のスーツ姿のお兄さん二人、地元のおじさんが一人入っていた。
みんなカウンターにL字型に座っているため、ぼっちで来たことなど忘れる。
お店のテレビにはニュースが流れていて、
アクセルとブレーキを踏み間違えた交通事故に「どんな間違いや。危ないなぁ」とおじさん言ったり、
和歌山で起きた物騒な事件に「怖いなぁ」と誰かが呟いたりした。
見るとはなしに皆でぼーっとテレビを眺めて、たまに相槌をうつ。
「おかわりください」というと、お母さんとお父さんがご飯を盛ってくれる。
店内はこういう時間が繰り返し流れていたことを想像させる独特の温もりがあった。
私は一人で外食をするとき、
話しかけられたら話すし、そうでなかったら静かにしておく。
話しかけてほしい願望もないし、一人にしてほしいとも特に思わない。
会話が生まれれば、出会いを楽しみ、
口を開く機会がなければ、空間と雰囲気を楽しむ。
今回は誰かと談笑するわけではなかったが、
あの時確実に我々は「一緒に」食べていた。
初めての店の暖簾をくぐるのはいつでも緊張する。
しかも、味光路は何十年と地元や観光客から愛されているディープな店が並んでいる。
「席とかどんな感じなんやろ」とか「一元さんお断り的な感じやったらどないしよう」とか「何も知らんのに一人でいくとかそもそもハードル高すぎ」とか思い、
気になりだしてから入るまでに随分時間が経ってしまったが、
自分の好き、に向き合えた。
居心地がいい場所を探して巡る、ことを達成できた。
素晴らしい日だった。
改めて、ここはいい街だな。
また行きます。