見出し画像

息子3人を育て上げた父のフグ加工事業。引退後に「魚醤づくり」を長男が引き継ぎました

僕が中学1年生になったばかりの1992年、38歳だった父が下関でフグ加工会社「河久」を立ち上げました。地元の下関は老舗ひしめくエリア。ベンチャー的に参入した父が注力したのが、新機軸のアプローチでした。

下関はこの辺り。本州の最南端かつ九州の玄関口

フグビジネスの繁忙期は11月から2月。
この時期、河久ではお店で食べられるようなフグ刺やフグチリ、ポン酢などをセットにして全国に宅配する仕事が中心でした。しかし、春から秋にかけてのオフシーズンは注文の閑散期。その時期にも売れる商品を目指して、多数の商品開発に取り組んでいました。

僕の記憶に残っているものをいくつか挙げると、フグの松前漬けや一味漬け、ラー油などの瓶詰め商品。フグの一夜干しや唐揚げといった冷蔵・冷凍食品。フグの出汁パックに雑炊スープ。さらには鯖の燻製パウチ(これが非常に美味しかった)まで。家庭用途からお土産用まで幅広く開発していました。

また唐戸市場の片隅にプレハブ小屋を建て、フグが食べられるご飯処も作っていました。唐戸市場は下関の観光名所の目玉で、県内外や海外からの来訪者が多いエリア。そこで名物「ふく刺しぶっかけ丼」(下関ではフグを「ふく」と呼ぶことが多い)を考案。

連日の大賑わいで、東京ドームで行われた「全国ご当地どんぶり選手権 2015」では決勝まで勝ち進むなど、当時の下関の賑わいの一端を担っていたと思います。

唐戸市場の脇にあった店。帰省のたびに食べに行っていた

なぜ、下関は「ふくの本場」なのか?
①下関はふくの好漁場である玄界灘、瀬戸内海、関門海峡に面しています。
②昔からふくを食べる文化があり、有毒部位を除毒する技術が蓄積されました。
③1888年(明治21年)に初代総理大臣の伊藤博文により、山口県のふく食が解禁されると、下関には多数のふく料理店ができ、多くのふく料理が考え出されました。
④1974年(昭和49年)に、国内で唯一、ふく中心の産地市場である南風泊市場を開設するとともに、背後地に水産加工団地を造成し、ふく処理場の集積が図られました。
⑤結果として、下関では1年を通して消費者のニーズに合わせた品質・規格を出荷できる体制を整えています。

ふくの本場の理由について下関市のHPから引用。現地の神社にはふぐの銅像なども建っています

思い返すと父はよく「まっとうな味のする商品をつくりたい」と言っていました。素材を正しく使い、体にも社会にもやさしく、味わい深い美味しいもの。「ちゃんと美味しいものを食べた方が良い」との考えから、昔からまっとうだと思うものを、よく食べさせてもらった記憶があります。

そのまっとうなものを河久で新しく創るべく2005年頃に着手したのが、当時はまだ誰も挑戦していなかったトラフグを用いた魚醤作りでした。石毛直道先生のチームがまとめた研究書「魚醤とナレズシの研究」から着想を得たとのこと。

コンセプトは、魚醤特有の臭みがなく、味わいと香りの均整が取れた化学調味料無添加の「まっとうな」調味料。父は山口県産業技術センターや東京大学と連携し、産学連携の形で研究を進めました。そして5年の歳月を経た2010年、ついに旨みや香りのバランスが抜群な、世界初の「トラフグ魚醤」を完成させたのです。

その時の商品がこちら。他に無濾過のトラフグ魚醤などもあった

身内贔屓を差し引いても、完成した魚醤は最高の味わいでした。銀座や京都をはじめ、全国の名店で扱われたり。魚醤を用いたトラフグ雑炊スープは水産庁長官賞を受賞したり。また僕が食関係の仕事に関わるようになってから様々な方々に商品を紹介し、魚醤を使った小さなイベントをいくつか企画しましたが、体験した人は皆満足してくれていたように思います。

31年の歴史に幕。そして、

2020年に入りコロナ禍などの強烈な社会的変化も伴い、立ち上げから31年となる2023年頭に、河久の幕を下ろす決断をしました。
僕(長男)を含め息子3人を大学まで進学させてくれて、文字通り荒波の中で31年も水産加工業をやり遂げた、めちゃすごい親父だと思います。

不思議なもので、僕が独立したのは父親と同じ38歳の頃。業種やキャリアは全く違えど、研究開発を軸に新しい領域を開拓していくアプローチが非常に似ていますし(というか影響を少なからず受けている)、僕が食にまつわる仕事に関わるようになってからは、友人知人が父と絡む機会も増えたように思います。(Yahoo! JAPAN SDGsのフグの回にHuuuuのメンバーを紹介し、取材前日に4kgのトラフグ白子オンリー鍋を食べました。あれは人生忘れられない鍋の一つ)

白子オンリー鍋。他の具は春菊と椎茸だけのストロングスタイルだった

河久は引き継げませんが、そこから生まれた商品とその想いは引き継げるかもしれない。そう思い、父が作り上げた「魚醤」を僕の方で継続できないか、改めて相談することに。

実際のメッセンジャーのやりとり

ということで、快く了承いただきました。
その次は一緒にやっていただける会社の探索と相談です。河久で魚醤製造に関わっていた方が南風泊にある老舗の仲卸「畑水産」さんに移ったと聞き、相談のために畑水産さんへ訪問することに。

左の男性が畑水産3代目社長の畑さん。右が父

そして、畑さんからも「ぜひやりましょう」とご快諾いただきました。

2023年4月に父と話をし、2ヶ月後の6月に畑さんとの会話。畑水産さんは仲卸が中心で、水産加工についての取り組みは初めてであることから、23年中は諸々の整理や資材調達を行い、繁忙期を超えた2024年3月から取り掛かりましょう、ということになりました。

新しい魚醤は2種類の魚で。

トラフグはその希少性からコストがかかることと、また以前の開発の際に行ったアミノ酸分析と官能評価でスコアがほぼ変わらなかったことから、入手しやすい「マフグ」で進めましょうということになりました。

更に父が作っていなかった新しい素材でも挑戦しようと、下関で水揚げ日本一の「レンコダイ」でも仕込みましょう、という話に。

そこで、2種類の魚醤を仕込むことになりました。

マフグ。内臓などを取り可食部位のみにした身欠き(みがき)の状態
レンコダイ。下関が水揚げ日本一とのこと
この二つの魚で、河久の想いを引き継いだ魚醤を新たに仕込むことに

マフグもレンコダイも下関での扱いが多く、さらに畑水産さんが仲卸であることから、価格の付きにくい魚も含め集まります。市場価値があるものにはニーズがありますが、値段がつかないものはそっぽを向かれてしまうのが世の常。しかし、漁師さんが魚を獲る「漁」という行為そもそもには価値があろうとなかろうと、同じ労力をかけて水揚げされる訳です。

仲卸だからこそ、数多くの「宝」が手に入る

将来を見据えた視点で考えると、「利用価値が低いとされるもの」を優先的に扱い魚醤という形に変えていくことで、未利用魚に新たな価値が生まれます。また、鮮魚よりもはるかに長く保存できる調味料になることで、活用の機会が大きく広がります。

これは漁師さんたちが必死で得た魚を、地域の食文化を形成する新しい調味料へと変える試みでもあります。未利用とされる魚こそ「宝」とも呼べる、そのような状況にしたいねと話をしています。

閑散期の新たな仕事になれば良いな、の思いをこめて

前述のように11月〜2月はとても激しい繁忙期ですが、3月からは閑散期に入ります。臭みがなく作ることができる父のレシピを用いると約半年で発酵が完了するので、工場が落ち着いている3月〜9月の間に仕込むことで閑散期の新たな仕事になる可能性があります。

また、ちょうど気温の高い夏を跨ぐことで発酵が良い具合に進み、製造も安定します。ある意味で二毛作のようなビジネスになるようにと、畑水産さんと連携しながら進めています。

仕込んで2ヶ月目くらいの様子

まもなく仕込みは完了。そしてこれからに向け

2種の魚醤については順調に発酵が進んでおり、9月後半に絞りを行う予定で進んでいます。

父が開発していた時代から関わりのあった山口県産業技術センターの有馬博士と密に連携させていただきながら、1〜2ヶ月単位でアミノ酸スコアを定期的にチェックし、安定的に製造が進んでいるような状況です。

これからの展開に向けてはまた近々、何かしらの形でお披露目できればと考えておりますが、まずは仕上がる予定の商品の味わいがどのようなものになるか、楽しみに待ちたいと思います。

うまく事が進んだ場合、このような展開になりそうです

下関の、そして地域が育む食文化の1ページに新たな兆しが生まれることを願いつつ、様々な方々とご一緒しながら進めていきます。

美味しい魚醤になるといいなぁ。

私と父と畑さん

写真:Umihiko Eto

いただいたサポートはローカル活動や事業者の支援に活用します。