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牧野富太郎と理科の先生

牧野富太郎(1862.4.24~1957.1.18)、といえば日本の植物学の基礎を築いた人物だ。極めて精緻な写生をして、日本各地の名前も知られていない植物、新種の植物を発見した学者でもある。「雑草という草はない。どんな植物でもみな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる」と、かつて昭和天皇が侍従におっしゃったそうです。「雑草という草はない」は、牧野先生の植物愛を表す言葉でもある。


少し前に大型店舗の書店に行ったら、あちらこちらで牧野富太郎の特集本が並べられていた。NHKの朝ドラの影響だろう。

50歳の頃に、学年一同の中学の同窓会が行われた。その時の写真が出てきて、写真の中には居ない枯れ枝のような理科の先生を思い出した。

理科の先生が子どもの頃に、もう大変なご高齢になられていた牧野先生と共に過ごす機会が得られ、いつまでも健康で元気に過ごす秘訣を教えられた話しです。

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朝ドラの影響で、幾つもの牧野富太郎を紹介するコーナーが出来ていた。幾つかの雑誌を見て、むかし聞いてた話とはだいぶ違っていた。

雑誌の中で、牧野先生の健康法は食事で、特に牛肉のすき焼きとトマトが好物でよく食べていた、と書かれていた。牛肉は亜鉛・マグネシウム・ヘム鉄が豊富で、亜鉛などを摂取していたので、高齢にもかかわらず、記憶力がスゴかったそうだ。

トマトはビタミンやリコピンが多く含まれていて、抗酸化作用もあるという。トマトには何とかビネガーを掛けて食べていたそうだ。94歳で亡くなるまで頭脳明晰で、健康であったのは、この食事内容ではないかという。

この食に関しての話しが、聞いてた事とはかなり違っていた。

ところで、トマトを食べていたというのは驚きだ。子どもの頃、昭和30年代に身体に良いという理由だけでトマトを食べさせられたが、決して美味いモノではなかった。観賞用として見た目は良いのだが、どちらかといえば、青臭くてガリガリと硬くて不味い。食べ物など豊富な時代ではなかったが、誰も食べてなかったと記憶してる。

トマトは南米征服と共にヨーロッパに入り、江戸時代初期頃に日本にもたらされた。食用というよりも、この当時の日本では観賞用であったようだ。子どもの頃の呼び方が、「西洋ナス」といっていたような気がする。

食用となったのが大正時代頃からで、戦後間もなくの頃に生まれた自分にとって、トマトだけはいささか異様な味の食品であった。一般的な食材として、流通は少なかったように思う。今のように甘さが増し、軟らかくなり、様々な用途に使われ始めたのは、昭和の終わり頃のような気がする。長くトマト嫌いであったのが、この頃に食べた印象が、子どもの頃と大きく違い、驚くほど美味くて好物になった。

余談になるが、トマトと共に南米からヨーロッパに渡ったのがジャガイモである。40年以上前に「中国食餌療法」いわゆる薬膳を勉強していた時、ジャガイモのことを中国語で「土豆」というのを知った。「土豆絲」といったかな、ジャガイモとピーマンの細切りを炒めた料理、美味かったなあ。

トマトは陰陽五行に基づき、砂糖と一緒に食べるのが良いと、幾つかの料理法を教えた。トマトに塩はいつもの事だが、トマトに砂糖は・・・意外とこれが美味かった。

中国から来た先生曰く、これは中国南部福建省や香港などで、数千年前からの調理法の「中国伝統食餌療法」の一つである、そうだ。

トマトの原産地は南米の高地乾燥地帯で、小さな実で大事な食料であった。スペイン人のコルテスが、メキシコのアステカ文化を滅ぼし、トマトをヨーロッパに持ち帰って観賞用にした。歴史的には400年程度だ。

同じくジャガイモもヨーロッパに伝わり、荒れた農地で食糧不足のために人口が少なかったアイルランドが、わずか100年足らずのうちに倍になった。ジャガイモの凶作が続いていたのに、イギリスの地主は小麦を収めさせた。

当時は決して食糧不足では無く、小麦があればアイルランドも飢餓にはならなかった。これがアイルランド共和軍(Irish Republican Army)武装組織のアイルランド独立闘争の遠因になった。

そんなようなことを事前に調べてたので、中国から来られた先生の、中国南部の数千年続いたトマトと「土豆」調理の話には、その後の質問もできなくなってしまった。


で・・・、理科の先生の自慢話は、牧野先生が戦前に植物採取で近くに逗留されたとき、地元の野山を案内したことだった。数日間を先生の近くの宿で過ごし、その間ずっと牧野先生の身の回りの世話から、標本作りを教わり手伝いもした。その影響で後に理学関係に進み、中学校の理科教師になった。先生にとって、牧野富太郎は「神様」で、植物図鑑は「経典」のように大切にしていた。

先生の家に数人で訪ねたときに、大事そうに「経典」を奥の部屋から出してきて、それを開いて教えを受けたが、全く覚えていない。ところが、一人だけこの話しに大いに感激し、教化されてしまったのがいた。

我々もその植物を探しに行こうと、何を探しに行ったのか覚えてないが、とりあえずそういうことになり、山を二つ越したその先の駅まで歩くことになった。大冒険で面白かったが、採取した植物はどうなったのか。自分は興味も無かったので、たぶん何も採取してこなかったと思う。他には無い、貴重とか珍しいとか言っても、道ばたの何処にでも生えてる雑草と、見た目は何ら変わらなかった、と記憶してる。

その珍しい植物が生えてるという山の頂上に、石の小さな祠があった。これが井伊家との関係があり、この辺りが井伊家彦根藩の飛び地であったと後に知り、その方に興味が湧いた。しかも江戸時代にはその祠を目指して、観光案内図まで発売されていたそうだ。何も産出しない山など持っていても、観光に来ても何も無いのに、何が面白いというのか。

ただし飛び地になったのが幸運で、彦根藩の住民が多く移り住み、商業流通は栄えることができた。近江商人のネットワークが、織物産業の各地への流通を担うことになった。


またまた話題がずれてしまったが、牧野先生は毎日玄米食だったそうだ。梅干しとかヌカ漬けの野菜を少しと、玄米飯を食べていたそうだ。玄米だけの粗食が、元気と長寿の源であると教えられたらしい。理科の先生は子どもの頃からそれを真似て、玄米食の粗食にしていた。玄米食だからこそ、いつまでも病気にもかからず、元気だと自慢をしていた。

子どもながらその話を聞いたときには、先生のように枯れ枝のように痩せて長生きするよりも、短命でも好きな物をタップリ食べた方が良いと思ったものだ。その印象があるから、牛のすき焼きとトマトが好きだったという話しが本当なら、理科の先生は何とも可哀想だ。一生、その話しを信じて玄米の粗食を実践していたのだから。


中学時代の合同同窓会には、懐かしい先生が大勢おいでになられていたが、あの理科の先生は鬼籍に入ったお一人として紹介されていた。果たして何歳で亡くなられたのかは知らないが、厳格に玄米食を続ける信念を貫き、勉学と教育者として生きた先生と、暴飲暴食で人生を無駄に謳歌し、まもなく後期高齢者入りする自分と、どちらが幸せなのだろうか。何の信念も持たずに生きていたのよりも、守るべき「信念」が有っただけ幸せといえるのかもしれないが。

自分には信念のない、ボウフラ人生の方が合っているようだ。来週はまた、温泉と食を求めて一人旅を楽しむ予定だ。そういえば、ボウフラも見なくなったものだ。蚊が夏にはやって来るのだから、どこかでヒッソリと生きているのだろうが。

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