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逃宿:西郊ロッヂング

2023年12月28日の手記より。前記事はこちら

荻窪南口の方へ下り、閑静な住宅街を、西日の中歩いていく。当時を過ぎたとはいえ、まだ日が沈むのは早い。いつの間にか僕の後ろに影が長く伸びている。

荻窪の夕方

細い路地の間を抜けていくと、本日のお宿が目の前にそびえたっていた。
建築マニアであればもっと垂涎になっていたであろう外観。もちろん、マニアではない僕の心も十分に踊らせてくれる。今から数十年前から何も変わらないのであろう佇まいに、僕は圧倒された。

西郊ロッヂング。わかるだろうかこの迫力!

美しい曲線を描く外壁には、「西郊ロッヂング」の文字。
数日前に見つけ、急いで電話をかけて予約を取ったその建物に僕は2泊する予定だ。
洋風な外観デザインだが、門構えは和風である。
ガラガラと音を立てて引き戸を引き、小さな庭を通って建物の硝子戸をあける。

西郊ロッヂングの門。

波打ち硝子の向こうには、まるでタイムスリップしたかのような光景が広がっていた。
赤い絨毯が眩しい。石油ストーブの火が、冷えた体にも、寂しい心にも嬉しかった。ロビーのソファに腰かけ、宿帳を記入し、部屋へと案内してもらう。
軋む木製の階段を上り、古いが清潔感のある館内を進んでいく。
僕の部屋は、2階上がってすぐの「萩」の間だった。

西郊ロッヂング玄関
西郊ロッヂングロビー。ストーブが嬉しい。
萩の間の鍵。

襖を開け、思わずため息が漏れた。
脳裏に思い描いていた理想的な旅館の一室がそこには存在していたのだ!
そう、逃げるならこういう宿で無いと。
勝手に旅情をかみしめ、出来るだけ丁寧に旅館の方に頭を下げた。部屋には僕一人になった。
布団がすでに一組敷かれており、小さなテーブルの上にはお茶のセットとランプ、灰皿が置かれている。
床の間にはダイヤル式電話機と高炉、掛け軸がかかっていた。
部屋の一面は窓になっており、そこから小ぶりの中庭が見下ろせる。寒椿が咲いていた。この窓辺で煙草を吸ったらどんなにおいしいだろう。
トイレは部屋の外に共用のものがあった。風呂は、沸き次第連絡をくれるという。
気分の高揚した僕は荷解きも碌にせず、風呂の時間まで今回の旅のお供である小説たちを読もうと思った。

素晴らしい客室。

宿の雰囲気は事前に調べておいたため、昭和の雰囲気にマッチした小説を数冊持ち込んでいた。新しく購入したものもあれば、積読になっているものもあった。
これらを少し焼けた畳の上に並べ、吟味してから、乱歩の続きを読むことにした‥‥‥

手元を照らすランプが読書に最適だった

ふと顔を上げる。窓の外は薄暗い。
夕暮れに染まった中庭でも眺めようかと思ったのだが、それももう難しい暗さである。なかなかここまで没頭できる機会が無いので、嬉しい限りだ。
時間も人目も気にしなくて良い読書の時間というのは、社会人になってしまうと無理にでも作らないといけない。
姿勢の悪い僕はいつの間にか前のめりになってしまい、背中と肩が痛み出したので一時中断としよう。
どうせなら、旅館内を軽く散策してみようという気になった。

昔ながらの暖房で温められていた部屋を出ると、廊下は随分冷えていた。息が白くなるほどではなかったが、1枚羽織を着ないと寒い。
コの字型に、庭を囲むようにして展開している旅館は、どこをとっても良い景色である。
特に、二階から見る階段は、ぼんやりとした白熱灯の明かりに照らされており、より魅力的に見えた。僕以外の宿泊客の気配はほとんどない。僕だけということはないだろうけれど、それでも、年末のこの時期の宿泊客は少ないのであろう。旅館内はどこをとっても素晴らしいものであった。
給湯器が付いた流し台や、タイル張りのトイレなども見回り、大変満足して部屋へと戻る。
そのころには、身体も少し冷えていた。

たまらない。
年季の入った絨毯がいい味

先程吸った煙草の匂いがする室内は、夜の色も相まって一層郷愁的に見える。
いっそのことここに住んでしまいたいほどだ。
テーブルの上にほっぽりだした乱歩を再び手に取り、今度は座椅子ではなく、畳の上に寝っ転がって続きを急いだ。
ここに感想を書いても良いのだが、この気持ちは一度自分の中だけに留めておきたいという気になったので、書かないでおく。
時々廊下の外を歩く音がする。他の宿泊客もいないわけではないようだ。
聞える音と言えば、そのくらいで、部屋の中には外界の音は全く入ってこなかった。

江戸川乱歩「孤島の鬼」

部屋の電話が鳴った。ダイヤル式電話特有のけたたましい音に驚き、慌てて受話器を取ると風呂が沸いたとのことだった。
事前に説明されていた1階の風呂へ向かう。小ぢんまりとしたタイル張りの風呂は、大昔に住んでいた団地の風呂を思い出させた。
湯船に浸かり、年末のやらねばならぬことや仕事のことをぼんやり考えていた。しかし、僕の思考は乱歩の小説の推理に落ち着いた。この風呂場で考えるのに最もふさわしいものだと思った。
殺人事件のトリックについてあれこれと考えていたら頭の奥がぼんやりしてきた。のぼせたようである。上がることにする。

懐かしいお風呂場。シャンプーなどは備え付けであった。

浴衣に着替え、部屋へと向かった。
襖をあけて広がる光景。理想的なその様相にまたもや自然と笑みが漏れてしまった。昭和の文豪にでもなったような気である。しかし、傍から見たら怪しい人間だ。一人で良かった。
風呂上がりに一服、と思って窓辺に腰かけ、窓を開けた、
冷気が流れ込んでくる。火照った身体に、外気の涼しさが心地良い。
煙草に火をつけて冷気と共に吸い込めば、まるで乱歩の小説の中である。
中庭に見えるぽつんとした街灯の光と、斜めに傾いた月の光を眺めながら、今日が終わらなければよいのにとさえ思った。

一生これが良い

時刻は23時。
もう少しキリの良いところまで読み進めたい。
先程風呂の前にあった自動販売機で購入した酒をあけ、ページをめくる。
主人公が酒を飲んでいるシーンに差し掛かり、思わぬ描写の一致になんだか嬉しくなった。
時計の針がてっぺんを指した。今日はもう眠るとしようか。

続く

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